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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鎌倉幕府は「どこ」にあったのか?〜大蔵御所、宇都宮辻子御所、若宮大路御所

鎌倉幕府はどこにあったのか。御所(政庁)の位置と雑文を書いてみたぞ。

鎌倉、大蔵幕府跡

大蔵幕府跡

大倉幕府…源家将軍3代の時代

鎌倉幕府所在地

鎌倉幕府御所(政庁)所在地

鎌倉幕府の御所があった場所は3箇所ある。まず最初の政庁は大蔵幕府じゃ。富士川の合戦で平氏に勝利した源頼朝公は、鶴岡八幡宮の東側に大蔵御所を築いた。現在は「大蔵幕府跡」の碑が残るのみじゃが、以後、頼家公、実朝公を経て尼将軍・北条政子さまが亡くなるまで、この地が鎌倉幕府の中心であった。

鎌倉の御所をどこに定めるか。当初は源義朝殿の屋敷があった亀ケ谷が想定されていたらしい。じゃが、敷地が手狭であること、すでに義朝殿の菩提を弔う寺院が建てられていたこともあり、大蔵の地が選ばれたらしい。大倉は、鎌倉の市街地と外港である六浦を結ぶ要衝であり、四神相応の地であったことも重要じゃな。

治承4年(1180)12月12日、頼朝公は新造された御所に入った。その日の様子が「吾妻鏡」に記されている。

亥の刻、前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。(大庭)景義の奉行として、去る十月事始め有り。大倉郷に営作せしむなり。

時剋に、上総権介広常が宅より、新亭に入御す。御水干・御騎馬(石禾栗毛)、和田小太郎義盛最前に候す。加々美次郎長清御駕の左方に候す。毛呂冠者季光同右に在り。北条殿・同四郎主・足利冠者義兼・山名冠者義範・千葉介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・藤九郎盛長・土肥次郎実平・岡崎四郎義実・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山次郎重忠最末に候す。

寝殿に入御の後、御共の輩侍所(十八箇間)に参り、二行に対座す。義盛その中央に候し、着到すと。凡そ出仕の者三百十一人と。また御家人等、同じく宿館を構う。

御所建設を奉行したのは大庭景義。頼朝公は水干を着て、石和栗毛の馬に乗り、上総広常の屋敷から御所へと移ってきたという。

供奉するものは311人、和田義盛を先頭に北条時政殿、義時公、足利義兼、千葉常胤、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、佐々木定綱、盛綱らがお供をし、最後尾には畠山重忠が従った。

寝殿に入ると供奉した者たちは侍所「十八間」で二行に向かい合って座り、中央の和田義盛が「着到状」を読み上げた。

爾より以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉の主と為す。所辺鄙にて海人・野叟の外、素より卜居の類これ少し。正にこの時に当たり、閭巷の路を直し、村里の号を授く。しかのみならず家屋甍を並べ、門扉軒を輾ると。

もともと鎌倉は辺鄙な田舎にすぎず、漁師と百姓ばかりの土地であった。じゃが、この時に道を整え、郊外の村や里にも名を付け、やがて家々が増え軒がひしめき合うようになっていったとある。

それにしても、平治の乱に敗れて親兄弟を殺され、自身は池禅尼の憐れみで命だけは助かるも伊豆で流人生活を送っていた頼朝公。北条の支援と天のご加護もあり、坂東武者を従えて鎌倉に入ったときの心持ちはどんなだったじゃろうのう。

宇都宮辻子幕府…執権泰時、連署時房の時代

宇都宮辻子幕府跡

宇都宮辻子幕府跡(Wikipediaより)

頼朝公、頼家公、実朝公と源家の血統が3代で途絶えるとお、鎌倉は皇族を将軍として京都から迎えようとしていた。これは実朝公が暗殺される前から、実朝公はもちろん、北条義時公や政子さまの間で話し合われていた既定路線で、実際に京との間で調整も行われていた。

じゃが、実朝公暗殺もあり、本件は後鳥羽上皇から拒絶されてしまい、鎌倉はわずかに源氏の流れをくむ三寅さま(後の将軍九条頼経)を摂関家から迎えることになったのじゃ。

ちょうどその頃、大蔵御所が火事で焼けてしまう。そこで義時公は自邸の南側に二階堂大路仮御所を建て、三寅さまはそこで生活をすることになった。

承久の変の後、義時公が没すると、六波羅探題であった北条泰時公が急遽鎌倉に戻り、貞応3年(1224)、第3代執権に就任した。その後、政子さまや大江広元が亡くなると、泰時公は連署を置き、幕政を合議制で進めていくべく模索を始めた。

おそらく宇都宮辻子御所への政庁移転は、幕政刷新という意味合いもあったのじゃろう。なお宇都宮辻子幕府と呼ばれたのは、はじめこの辺りには宇都宮氏の邸宅があったことが理由らしい。

新御所の上棟也。相州(泰時)、武州(時房)監臨被る。隱岐入道行西(二階堂行村)、三浦駿河前司義村、後藤左衛門尉基綱、外記大夫等參上す。事終り、工等の祿之を賜はる。又、政所并びに御倉等之を壞渡被る。女房、大納言局の宿所の地に於て、同じく上棟之儀之有りと云云(「吾妻鏡」嘉禄元年12月8日条)。

その後、九条頼経公は宇都宮辻子幕府で元服を迎え、鎌倉幕府第4代将軍に就任する。宇都宮辻子幕府では執権泰時公、連署時房殿のコンビで御成敗式目制定や鎌倉の市街整備が進められていくのじゃ。

若宮大路幕府…親王将軍の時代

若宮大路幕府

若宮大路幕府跡(Wikipedia)

嘉禎2年(1236)、泰時公は宇都宮辻子幕府から若宮大路幕府への引越しを行なった。若宮大路幕府の位置については、鶴岡八幡宮側の横大路に面していたという説と、宇都宮辻子幕府と同じ場所で出入口が若宮大路に面していたという説がある。

戌の刻将軍家若宮大路新造の御所に御移徙なり。武州(泰時)の御亭より渡御す(御束帯、御 乗車)。前の大監物文元に仰せ、轅の内に参り反閇を勤む。新御所南門より入御す。(「吾妻鏡」嘉禎2年8月4日条)

そしてその年の12月19日には泰時公も御所のとなりに屋敷を新造して移り住んでいる。

御所の移転理由はよくわからない。じゃが、宗尊親王以降の将軍には京から親王を迎えていたため、いつしかこの御所は「親王屋敷」と呼ばれるようになった。

若宮大路幕府は4代将軍藤原頼経公から9代将軍守邦親王まで、元弘3年(1333)、わしの代に鎌倉幕府が滅亡するまでの約100年間、将軍御所として政務が執り行われたきたのじゃよ。

今は碑文が残るのみ

以上、ざっくりと鎌倉幕府の御所はどこにあったのかをまとめてみた。いずれも現在は碑文が残るのみじゃ。

以下は司馬遼太郎さんの『街道を行く~三浦半島記』より。

頼朝はただ一人でもって坂東武士団の推戴をうけて世に立っている。主役は、坂東武士である。 坂東のひとびとが頼朝に期待したのは 統治者よりも、―くりかえすが― 関東の地で恒常的におこっている農地の所有をめぐる争いの裁き人としてであった。

鎌倉幕府は頼朝公が開いたというより「一所懸命」の坂東武者たちが開かせた、ということじゃろう。やがて鎌倉の事実上の主は、源家三代から北条得宗家へと移っていく。

じゃが、この場所で土地所有をめぐる裁きが行われ、武家による政治が執り行われていたことは変わらない。

そんなことを思い浮かべながら、鎌倉の街をぷらぷら歩いてみるのも一興かもしれんな、知らんけど。

所在地・アクセス

大蔵幕府跡
鎌倉市雪ノ下3-6-26(鎌倉駅からバスで6分、岐れ道下車)

宇都宮辻子幕府跡
鎌倉市小町2-15-19(JR鎌倉駅から徒歩5分)

若宮大路幕府跡
鎌倉市雪ノ下1-13-26(JR鎌倉駅から徒歩5分)