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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

長岡城奪還!八丁沖の戦い〜河井継之助の檄文「精一杯出してやりませう」には心が震える

今回も夏の長岡探訪備忘録の続きじゃ。北越戊辰戦争の激戦地、八丁沖古戦場パークに行ってきたので、その戦いと河井継之助の「口上書」(檄文)についてあれこれ書いてみたい。

八丁沖古戦場パーク

八丁沖古戦場の碑(新潟県長岡市)

なお、よろしければこちらも読んでもらえたら嬉しいぞ。

今町の戦い〜河井継之助の陽動作戦

慶應4年(1868)5月19日、長岡城が落城すると河井継之助は敗兵をまとめて栃尾に退き、加茂に本営を移した。そして5月22日、会津、桑名、米沢、村松ら東軍諸藩と軍議を行い(加茂軍議)長岡城奪還と反転攻勢の策を練った。

このとき新政府軍は、三条から長岡に向かう交通の要衝である今町に進出していた。じゃが、見附、杉沢、赤坂、与板など、各方面に攻勢をかけていた東軍諸藩への対応に翻弄され、今町方面の守備は手薄になっていた。継之助はこのチャンスを見逃さず今町攻略を宣言し、6月2日、軍を3方に分けて動き出したのじゃ。

本道の坂井口は長岡藩大隊長山本帯刀が指揮する部隊が進んでいく。旗を靡かせ、太鼓を叩き、勇躍しながら進軍し、西軍の注意を引きつける。その左翼の大面方面には千坂太郎左衛門率いる米沢藩兵が展開し、小栗山方面に展開する薩長の精鋭部隊を牽制する。その隙に継之助は右翼の安田口から長岡藩主力部隊をもって今町へ攻撃を仕掛けるという寸法じゃ。

河井継之助

河井継之助

継之助は、下駄ばきで紺絣の単衣に平袴という平服で、日の丸を描いた扇子をもって戦の指揮をとったという。これは乱戦の中で、指揮官がどこにいるかが味方にわかるようにするためじゃ。

兵力の点では明らかに劣勢の同盟軍ではあったが、継之助のこの陽動作戦は見事に成功した。しかも長岡藩兵の士気はすこぶる高く、敵の堡塁に飛び込みんで果敢に白兵戦を挑んだ。こうして長岡軍は激戦の末に勝利し、今町を占領した。

今町での敗戦を聞いた山県狂介は、その勢いのまま同盟軍に長岡を突かれることを危惧し、戦線を大きく後退させた。いっぽう同盟軍は本営を三条、さらに見附に移し、長岡城奪回を虎視眈々と狙っていたのじゃ。

八丁沖渡渉作戦と鬼頭熊次郎

この頃、諸外国の間では「新政府軍は北越で負けている」という噂がたったらしい。同盟軍贔屓のエドワルド・スネルあたりが流したのか、そのあたりは定かではないが、新政府軍としてはこれは捨ておけぬと兵力の増強を計画し、西郷吉之助も越後にやってくることになった。

継之助は長岡城下に密偵を派遣しており、新政府軍の大攻勢が近づいていることを察知する。新政府軍の増強が成る前に長岡城を奪還し、西軍を越後から追い落とさねばならない。そこで計画されたのが八丁沖渡渉作戦じゃ。

八丁沖は南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地で、長岡城にとっては天然の要害である。当然、西軍の守備兵も手薄である。そこを衝こうというのじゃ。

八丁沖古戦場パーク

継之助は鬼頭熊次郎を呼び、密かにその計画を打ち明けた。熊次郎は家貧しく、武士でありながら八丁沖で魚を捕り、家計の助けにしていた。この沼のことは隅から隅まで知り尽くしておる男じゃ。継之助の命を受けた熊次郎は夜な夜な沼に出かけては、進軍ルートを探り、沼の深い場所には板橋を渡し、沼中に攻撃路を開いた。

八丁沖古戦場パークの程近く、富島集落の日光社境内には「鬼頭熊次郎顕彰碑」がある。熊次郎は八丁沖渡渉作戦において自ら先頭を進んだ。そして富島村で敵兵を発見した熊次郎は、真っ先に切り込んだが敵弾に撃たれ、この地で斃れたという。

熊次郎の亡骸は、家族が発見した時にはすでに腐敗していたらしい。じゃが、足がО脚であることから本人であることがわかったという。熊次郎は貧しい家計を助けるため重労働を続けていたため、足が極端に曲がってしまっていたのだという。

大正6年には、この地で熊次郎の50回忌法要が営まれておるぞ。

鬼頭熊次郎の碑

鬼頭熊次郎の碑(長岡市・日光社境内)

河井継之助の「口上書」〜精一杯出してやりませう

7月24日午後6時、長岡藩兵600余は長岡城奪還に向けて八丁沖渡渉作戦に動き出した。月夜に身を潜めながら長岡城に近い宮下村まで潜行、上陸して敵陣地を襲撃し、一気に長岡城を奪回する。それに呼応して米沢藩を主力とする同盟軍は総攻撃に転じ、信濃川を渡河し、柏崎まで新政府軍を追い落とすという壮大な計画を立てていた。

この戦いに先立ち、継之助は藩兵たちに読切た「口上書」が伝わっている。いわゆる檄文じゃ。そこには、この戦いの意義や心構えが記されていたのじゃが、当時としては珍しく口語体で書かれているのじゃ。

藩兵の士気を高めるための工夫じゃろう。この戦いに懸ける思いが読み取れる檄文なので紹介しておくぞ。

此一軍さは、第一御家の興廃も此の勝ち負けにあり、天下分け目も此の勝負にありて、御家がなければ銘々の身もなきもの故、御一同共に身を捨て、数代の御高恩に報じ、牧野家の御威名を萬世に輝し、銘々の武名も後世に残す様、精力を極めて御奉公いたしませう。

なぜ天下分け目の軍さと云へば、奥州の敵も、今に捗々敷ことなく、東が大勝すれば、越後に敵が居られず、越後が大勝すれば、奥羽に敵は居られず、然れば敵もどこまで引て夫て済むという譯にも参らず、そうなると天下の形成が變じ、元々諸大名が義理でする仕事でもなし、軍ずきがした仕事でもなく、只暴威に劫やかされて、嫌でも難儀でも一寸ずりに延したは、愚かの心底から、義も忘れて、左様の事するけれども、心に誰でも悪るいといふこと知らぬ者なく、高田や輿板が快いといふ事もなく、気楽でもあるまい。

少し模様が變ずれば、天下の諸侯が變心するから、そりや敵も大變で、天下を取ろうとしてした仕事は空敷なり、そうなると、天下中に悪まれ、異国も見離し、終には国も亡る様に至るから、容易の事では引かれぬ筈で、敵も夫を知つて居るから、此の大乱を作せし薩摩の西郷吉之助が越後へ来て、天下分け目の軍さすると云ふ事を聞きましたが、何にしても、そりや分け目だから、此の軍は大切で、私共間違ても御城下へ入て死ねば、義名も残り、武士の道にも叶うて、遣り置事もなく、思の儘に勝てば、天下の勢を變ずる程の大功が立つから、精一杯出してやりませう。

御城下は目の前にありて入る事も出来ず、如何にも事多で、御一同の御難儀も不目立様なれども、中島文次左衛門殿の弟は、先月二日に今町で討死し、其弟が兄の首を介錯し、始終負て戦ひ居るを私は見て居ましたが、其の男が當月二日大黒口に先駆して又討死し、竹垣徳七殿の両人も栃尾にて討死し、其外あつぱれの働して、討死手負いしたる人々は、皆様御承知の通り、忠憤義死の人は気の毒なれども、是も是非ない事にて、此上は一刻も早く長岡を取返し、両殿様を早速御迎え申上、御一同忠死の程、両殿様に申上、戦士の人々を厚く弔ひ、目出度御入城の上は、両三年も御政事を御立被遊れば、元の繁昌にすることは慥に出来るから、御一同共、必死を極めて勝ませう。

死ぬ気になって致せば生きることも出来、疑もなく大功を立てられますが、若し死にたくない、危ない目に逢ひたくないと云ふ心があらうなら、夫こそ生ることも出来ず、空敷汚名を後世まで残し、残念に存じますから、身を捨ててこそ浮む瀬もあれと申しますれば、能々覚悟を極めて大功を立てませう。

一昨夜より風も強く、此一戦を大切に思ひ、皆様と御一心になつて、此度は是非とも大勝を致し度いと心に浮みし身の丈を口上にて申上様と書ましたが、届ぬ事もあるけれども、篤と御考被下ましやう。

この戦いは天下分け目である。西郷吉之助もお出ましだ。われわれが勝てば諸外国や新政府、諸藩にきっと「変化」が起こる。死ぬ気になって戦えば生きることもでき、大功を立てられるが、死にたくないという心があれば生きることもできず汚名を後世まで残しかねない。「天下の勢を變ずる程の大功が立つから、精一杯出してやりませう」というのじゃ。

この檄文に、臨む長岡藩兵は大いに奮い立ったことじゃろう。

八丁沖の戦い〜奇襲作戦に成功

八丁沖古戦場パーク

八丁沖古戦場パーク

7月25日午前4時、長岡藩兵は八丁沖を渡って宮下村に上陸、攻撃を開始する。近くの農家には火が放たれ、のろしがあがると、これに呼応して同盟軍の諸藩も動き出した。

長岡藩兵は「死ねや死ねや」と叫んで吶喊し、長岡城下に雪崩れ込む。城下では長州藩兵が反撃してきたが、決死の長岡藩兵の敵ではなかった。この奇襲攻撃で西軍は周章狼狽し、信濃川に飛び込んで溺れる者もいたという。

鎮撫総督の西園寺公望は宮下方面から銃声が聞こえるや、身一つで小舟で信濃川を渡り、関原まで逃れたと回想している。また、城下に宿陣していた山県狂介も不意をつかれ、状況がわからぬまま撤退を命じると、自身は帯代裸で裸足のまま駆け出し、榎峠から舟で信濃川を渡り、小千谷本陣まで逃げている。

味方は大勝利。長岡藩兵は市民に迎えられ凱旋する。このあたりは映画「峠」にも描かれておったな。その後、継之助らも長岡城に入った。城には西軍の大砲や小銃、弾薬が大量に残されていたそうで、この一事からみても新政府軍の慌てぶりがわかるというものじゃろう。

無念の長岡二番崩れ

長岡藩旗「五間梯子」

じゃが、新政府軍の挽回攻勢も素早かった。そもそも新政府軍は八丁沖の奇襲を受けた25日、じつは見附の東軍への総攻撃を計画していた。そのため長岡城から離れた前線には薩摩藩の精鋭部隊が配置されていた。

この薩摩藩兵が急を聞いて引き返してくる。これには米沢藩が対応することになっていたのじゃが思わぬ大苦戦となり、米沢藩の長岡城入城が大幅に遅れてしまったのじゃ

それ以上に長岡藩にとって不幸だったのが、継之助の負傷である。この日、反撃してきた薩摩藩兵を防ぐために継之助は新町口に救援に向かった。じゃがこの時、継之助は左膝下に被弾し、戦いの指揮をとれなくなってしまったのじゃ。

そのため予定していた追撃計画を実行することはできなかった。しかも、さらに最悪なのは、新政府軍の増援部隊が新潟の大夫浜に上陸、しかも新発田藩が同盟を離脱してこれを手引きしたというのじゃ。まさに泣きっ面に蜂である。

増援を得た新政府軍はすぐさま反撃に転じてきた。かくして長岡城は再び総攻撃を受け、7月29日に陥落してしまう。「長岡二番崩れ」である。

長岡藩の残兵は継之助を担架に乗せて会津へと向かう。継之助は「ここへ置いていけ!」と駄々をこねたようじゃが、担架に乗せられ八十里を超えていく。その後の継之助の最期、長岡藩士の流浪と悲劇については、もう書かなくてもいいじゃろう。

河井継之助という人物について

徳富蘇峰は継之助を評して「西郷と大久保と木戸を足したより大きいとはいえないが,この三人を足して三等分したより継之助の人物は大きかった」と語っている。司馬遼太郎は 「幕末の人材を考えてみて、河井継之助は木戸孝允より3倍ほど上の人物です」「もし西軍側の人物であったら、今頃お札になっていたであろう人物」と賞している。

河井継之助は王陽明を信奉していた。

十七天に誓って輔国に擬す

継之助は17歳でこの詩文を残し、鶏を割いて王陽明を祀り、藩を担うことを決意したといわれている。王陽明という人は政治の才と軍事の才の両方を兼ね備えた稀有な人じゃったが、その事績を振り返れば継之助もそうであったように思う。幕末にはさまざまな英傑が登場するが、政治も軍事も両方の才を発揮したのは継之助だけじゃろう。

じゃが、司馬遼太郎が言うように、継之助にとって越後長岡藩7万4千石はいかにも小さすぎた。長岡藩にとってもこんな小藩に継之助のような人物を輩出したことは不幸であったかもしれない。凡庸な家老が藩を率いておれば、ふつうに会津に攻め込んで、藩土が焼け野原になることは避けられたはずじゃからな。

薩長の鼠輩、彼れ何物ぞ、漫りに王師の名を假りて我封土を蹂躙し、以て私憤を漏さむとす、今は是非なし、瓦全は意気ある男児の恥づる所、公論を百年の後に俟つて玉砕戦のみ

ただ、長岡という徳川譜代の小藩に生まれたからこそ河井継之助という人物の魅力が際立つのだと、わしは思うが、いかがじゃろうか。