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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

相馬中村藩のこと〜戊辰戦争を生き抜いてきた「相馬魂」

今回はかつて訪れた旅の備忘録も兼ねて相馬中村藩について。相馬中村藩は6万石、藩主は相馬氏で家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられている。戊辰戦争では初め奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍と戦うも追い詰められて降伏。その後は仙台藩と新政府との橋渡し役をつとめたんじゃよ。

陸奥中村藩相馬氏の家紋「相馬繋ぎ馬」

陸奥中村藩相馬氏の家紋「相馬繋ぎ馬」

ちなみに相馬氏の家紋は『相馬繋ぎ馬』。 相馬氏はルーツを平将門としており、この紋は将門が天から授かった黒馬が暴れ去ろうとするところを家臣総出で繋ぎ止めたという伝説に由来するらしい。そのあたりのことも含めて、相馬氏についてはこちらのブログにも書いてあるので参考にしてほしい。

まずは相馬氏と中村城の歴史をざっくり

中村城は別名「馬陵城」。現在は馬陵公園として市民の憩いの場になっておる。中村城のはじまりは延暦年間(800年頃)、坂上田村麻呂が最初に築いたという伝承があるが、もちろんこれは定かではない。 南北朝時代には足利方の中村朝高がこの地に「中村館」を構え、戦国時代に相馬氏が進出し、北の伊達氏への備えとしたらしい。

摺上原で戦いに伊達政宗に敗れた蘆名氏が没落すると、南奥の諸大名はつぎつぎと伊達の軍門に降った。じゃが、相馬盛胤・義胤は中村を拠点に徹底抗戦を続ける。そのため、伊達の大軍の前に存亡の危機を迎えたのじゃが、ちょうど折よく豊臣秀吉の「奥州仕置」があり、どうにか生き延びることができたのじゃ。

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もともと相馬氏の本城はここより南方の小高城じゃった。じゃが、相馬氏は関ヶ原の戦いで盟友・佐竹氏と通じ、その日和見的な態度が仇となり改易の憂き目にあってしまう。じゃが、家督を継いだ相馬利胤による懸命な御家再興運動が功を奏してどうにか復活。利胤はこれを機に本城を中村城に移転し、近世城郭への改修を始めたのじゃ。

かつては中村城にも天守があったらしいが落雷により焼失している。以後、領民に負担を強いるのは本意ではないと再建はなされなかった。江戸時代、天明・天保の飢饉によって相馬中村藩は困窮を極めたが、藩主の相馬充胤は幕府の許可を得て二宮尊徳の提唱した報徳仕法を導入して藩の財政を再建する。このあたり、相馬の善政を偲ぶことができよう。なお、そうしたこともあって中村城跡には二宮尊徳像が設置されている。

戊辰戦争と相馬中村藩

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、相馬中村藩は当初・奥羽越列藩同盟に参加していた。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた2月、相馬中村藩は家老・佐藤勘兵衛を上洛させて朝廷に恭順の意を示す。そして4月には奥羽鎮撫総督府より会津征討を命じられ受諾している。

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ところが仙台藩、米沢藩の主導により奥羽列藩が白石に会同すると相馬中村藩もこれに加わった。藩主の相馬誠胤はこのときまだ若年で、藩政は門閥の保守派に委ねられており、必ずしも明確な藩論があったわけではなく、ただ隣の大藩の仙台に従ったにすぎない。ただ藩士の中には、薩長の連中が勝手に幼帝をかついで新政府をつくり、官軍面して乗り込んできても、「はいそうですか」と従う気になれなかったという面はあったじゃろう。

やがて奥羽列藩同盟と新政府軍の間に先端が開かれると、中村藩は仙台藩や米沢藩、幕府陸軍隊とともに浜街道を北上してくる新政府軍に応戦する。じゃが磐城平城が陥落すると、広野、波江での戦いにも敗れ、いよいよ敵は中村城下に迫ってきた。

浪江での敗戦を受けて、仙台藩兵は藩境の駒ヶ嶺に引き上げてしまう。米沢藩兵も自領へと帰り、幕府陸軍隊も仙台へと退却をはじめてしまう。さらに三春藩、守山藩が新政府軍に寝返り、二本松も落城。中村藩はいよいよ苦境に立たされてしまうのじゃ。

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仙台藩はともに仙台に逃れて再挙を図るよう、中村藩へ促してくる。じゃが、中村藩は「城を守って討ち死にするのは武門の本懐」と脱出を拒否しつつ、密かに新政府軍に降伏の使者を送った。かくして中村藩は1万両の賠償金を支払、一転して官軍となったんじゃ。

その後、中村藩は仙台攻めの饗導役をつとめて藩境の駒ヶ嶺、旗巻峠に出兵する。仙台藩は切歯扼腕したがどうにもならない。また、中村藩としても友軍であった仙台藩と戦うことは忍びない。そこで密かに仙台藩へ恭順降伏を打診し、以後、新政府との講和の橋渡し役をつとめることになる。

戊辰戦争で相馬中村藩は同盟軍として88名、新政府軍として59名の戦死者を出している。後に会津の人は、「厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎む可からざるに似たり」(「会津戊辰戦史」)と、小藩生き残りのためのギリギリの選択に一定の理解を示している。 

ちなみに、戊辰戦争の殉難者を慰霊する碑は中村城内ではなく小高神社(小高城跡)に建立されていた。これは明治になって建てられたもののようで、慰霊されているのは、長州、芸州、肥後、筑前、筑後、伊州、館林、大洲……要するに官軍兵である。相馬中村藩は官軍だというわけじゃ。

その後、中村藩は廃藩置県により中村県となる。1872年には平県(旧磐城平藩)と合併され、磐前県となり、その磐前県も1876年の福島県成立によって消滅する。   

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相馬氏による妙見信仰と中村神社

中村城は平山城で、現在は「馬陵公園」として、大手門、石垣、土塁、堀が残っている。もともと、北の伊達氏を仮想的として築城されていることから、いざというときには堀を切って城の北側をの沼地にして敵を防ぐ算段だった。反面、南の防御は薄く、もし戊辰戦争で新政府軍を相手に籠城したとしても、あっという間に陥落させられたことじゃろう。

とりあえず、こちら、Google earthのキャプチャを貼っておく。たしかに、南(写真上の方)の防御は手薄に見えるな。

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Google earthより

中村城跡の南西側に相馬中村神社がある。有名な「相馬野馬追」の出陣式もここで行われるらしい。

社伝によれば、承平年間に相馬家の祖とされる平将門が下総の国浦島郡に妙見社を創建したことを由緒とする。相馬重胤が奥州へ移り住んだときに、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建。その後、正慶元年、小高城が築城された際にも妙見社が建立されている。現在の小高神社である。そして慶長16年、相馬利胤が中村城を本拠と定めると妙見社もこの地に移され、現在に至るという。

地元では「相馬のミョウケンサマ」として親しまれてきたが、妙見とは北辰妙見菩薩のこと。北辰とは北極星のことで、北方鎮護をつかぎどる星の信仰がもとになって生まれた菩薩様というわけじゃな。千葉氏は妙見信仰を一族の結束に利用し、相馬氏も妙見菩薩を守り神としており、家紋には先に紹介した「繋ぎ馬」とともに「九曜」を用いておる。中央の大きな星の周りに9つの星が配されている。中央はもちろん妙見様(=北極星)じゃよ。

相馬の九曜紋

相馬の九曜紋

始祖・相馬師常を祀る相馬神社

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中村城はほとんどが土塁で固められていたが、本丸には石垣も現存しておる。赤橋を渡って本丸に入っていくと、そこにあるのが相馬神社じゃ。相馬神社は明治維新後、中村城が廃城となり、明治12年に創建された。 祭神は始祖の相馬師常である。伝承によると、相馬師常は平将門の子孫である信田師国(胤国の子)の養子となり、その遺領を相続したと伝わる。相馬氏が平将門をルーツとする由縁である。

師常は千葉常胤の7人の子どもの中でも特に源頼朝公の信望が厚かった。頼朝公が安房に逃れてきたときに父とともに参陣し、以後は源範頼に従って各地を転戦、奥州合戦にも参加している。

ちなみに『源平闘諍録』では、師常は頼朝公のはからいにより「八重姫」を妻に迎えたととしている。大河ドラマで新垣結衣さんが演じた頼朝公の最初の妻、伊東祐親によって離縁させられた八重姫じゃよ。

その後、家督を嫡男の相馬義胤に譲ると、自身は出家し法然の弟子になった。最期は念仏を唱えながらの臨終であったと言われる。

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で、以下、余計なことながら……

相馬市、南相馬市といえば、東日本大震災と福島原発事故、さらには今回の台風19号と、大きな被害に見舞われている。わしのようなよそ者には、地元のかたの辛苦を想像することはできそうにない。じゃが、この地に根付く「相馬魂」の一端は、歴ヲタとしてしっかりと感じ取ってきた。

相馬家は平将門以来、鎌倉以来の名族じゃ。南北朝時代は北畠顕家と戦い、戦国時代には伊達と戦い、戊辰の動乱も乗り越えてこの地を守り抜いてきた。

平将門が 下総国小金ヶ原に放した野馬を敵兵に見立てて 軍事演習をしたことに始まったとされる勇壮な「相馬野馬追」も一度は観てみたいものじゃ。