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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

河井継之助の名言を集めてみた

夏の長岡探訪備忘録のラスト。河井継之助の名言をいくつか集めて、わしもこれからの日々の仕事や人生の指針にしたいと思う。

河井継之助

河井継之助

志を立てるための名言

立身行道は孝の終わり

立身行道は孝の終わりと申す教え煮ても相守り度く。

これは江戸で遊学中の継之助が備中松山の山田方谷に学びたいと考え、父・代右衛門に50両を無心するために送った書簡に記されていたものである。立身=忠孝であった時代である。この書簡からは、立身と孝行をあらためて誓う継之助の志が伝わってくる。じゃが、50両といえば現代だと500万円くらいじゃろうか。すでに江戸遊学のために15両を用意してもらい、さらに50両を要求する継之助のドラ息子ぶり。それなりに経済力もあったんじゃろうが、用立てしてしまう両親。どちらも大したものである。

天下になくてはならぬ人となるか、有てはならぬ人となれ

天下になくてはならぬ人となるか、有てはならぬ人となれ。沈香もたけ、屁もこけ。牛羊となって、人の血や肉に化して仕舞ふか、豺狼と為って、人類の血や肉を啖ひ尽くすか、どちらかになれ。

江戸の久敬舎でに遊学中に、河井継之助から鈴木虎太郎(刈谷無隠)が聞いた言葉だそうじゃ。世の中に必要な人になるのでなければ、いっそ害を為す人になるぐらいの気構えで修養せよ。人の血肉になるか、人を自分の血肉にするほどの意気込みで事をなせ。 中途半端な取るに足らぬ人になるな。事を成すためには、常識にとらわれず、失敗を恐れずに行動せよということじゃろうか。

地下百尺の底に埋了したる以後の心にあらずんば

身を棺槨(かんかく)の中に投じ、地下百尺の底に埋了したる以後の心にあらずんば、ともに天下の経綸を語るべからず。

棺槨とは棺桶のこと。他人の評価、世間の評判、自分のプライドなどにとらわれているような者とは、ともに天下の経綸を語り合うことなどできない。自身もまた、そうしたとらわれない、こだわらない心で、人のため、社会のために働きたいということじゃろう。天下のために断固としてやるべきことをやる。継之助の気迫が感じられる言葉じゃな。

母鶏の卵を愛するや

母鶏の卵を愛するや、寝食を忘れて、之を覆翼し、寸時も体を離さず。人の身を謹み、志を持する者は、須く彼の如くなるべし。

長岡藩領川辺村の里正・吉川庄蔵に継之助が諭した言葉である。継之助は「志」を大切にした。じゃが、「志ほど世にとけやすく、壊れやすく、砕けやすいものはない」と自覚していた。この言葉は、継之助の自戒を込めた教えであったのかもしれない。

瓦全は意気ある男児の恥づる所

瓦全は意気ある男児の恥づる所、公論を百年の後に俟つて玉砕戦のみ

小千谷談判が決裂し、開戦を決意した時の継之助の言葉である。いかにも陽明学徒の継之助らしい。事をおこすにあたり、それが成功するかしないかは第一義ではない。結果の利益を論ずることは陽明学の恥ずるところ。大切なことはその行為そのものが正しいか、美しいかである。何もせずに保身に走って生きながらえたとて何になる。失敗を恐れてチャレンジせず、凡庸な結果に満足していて良いのか。志を遂げるためには勇気がいるのである。

自分を磨くための名言

人の世に処すると云ふものは

人の世に処すると云ふものは、苦しい事も嬉しい事も色々あるものだ。其の苦しい事と云ふものに堪えなければ、忠孝だの、節義だの、国家の経綸だのと云ふた処が、到底成し遂げられるものではない。此の苦しい事に堪えると云ふことは、平生から練磨をしておかなければ、其場合に限ってできるものではない。

これも継之助が鈴木虎太郎に語った言葉じゃ。ある時、継之助の股に腫れ物ができた。かなり痛いはずなのに継之助は平素と変わりない生活をしていた。虎太郎はそれを見てねぎらいの言葉をかけたとき、継之助はこう答えたというのじゃ。やや大袈裟な感じがしないでもないが、継之助が陽明学でいうところの「事上磨練」、行動や実践を通して知識や精神を磨くことを平素から心がけていたことがよくわかる名言である。

読書の功は細心精読

漫然多読するも、何の益かあらん。読書の功は細心精読するに在り。

これは読書のあり方について、鵜殿団次郎(長岡藩士・のちの幕府蕃書調所教授)と議論したときの言葉である。鵜殿は読書は幅広く、たくさん読むことで多様な知識や考え方を吸収できると主張した。これに対して継之助は、良書を選んで何度でも、文字が立ってくるまで読み込むべきだと主張した。継之助の学問、知識への態度がよくわかってきて実に面白い。

会心の文字は何辺でも読むがよい

資治通鑑を三月に読むだとか、二十一史を幾日の間に読むだなどと自慢する者もあるが、如何なる量見が気が知れぬ。会心の文字は何辺でも読むがよい。

これもまた、継之助の読書や学問に臨む態度が色濃く出ておる名言じゃ。薄っぺらな知識が人生でどれほど役に立つか。継之助はそれを言いたかったのじゃな。継之助は藩主への御聴覧の栄誉を得たとき、「己は講釈などをするとて学問したのでは無い。講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むがよい」と断り、周囲を唖然とさせた逸話があるが、いかにも継之助らしい名言じゃな。

即決対処できる人間になるのが学問の道

人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲んでくる。大は天下のことから、小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている。この矛盾に、即決対処できる人間になるのが学問の道だ。 

これは司馬遼太郎の「峠」にある、久敬舎時代の継之助の言葉じゃ。肥桶を担いだ百姓が勢いよくやってきて、すれ違いざまに汚物がピシャッとかかってしまった。武士であれば当然無礼討は許されている。じゃが、実際には百姓の親族が奉行所に捩じ込んできて面倒臭い事になる。「平素の行い、不料簡である」と蟄居閉門、改易、切腹ということにもなりかねない。だからといって捨て置けば武士の面目が立たない。「その時にどうする?」というのじゃ。その答えを継之助は言ってはいないが、こうした時にでも即断即決できる原理原則を打ち立てるのが学問の目的だというのである。これもまた、いかにも継之助らしいではないか。

胸中、手足に心を用う。

胸中、手足に心を用う。私に属するの心あれば、自然、心も快からず、それ故、胸中も流通せず、腹は云ふ迄も無く、手合に迄至る訳と思ひけり。

継之助の西国旅日記「塵壺」に出てくる言葉じゃ。天草灘を船で渡る時、継之助は危うく遭難しそうになる。船賃を安くあげようとして継之助は定期航路ではない船に乗ったため、この様である。継之助は後悔したが、波浪に翻弄される船の中ではどうすることもできない。揺れの中で船酔いも酷くなってきた。そこで継之助は「手足に心を用う」ことで、平静を保つことを試みた。そして結局「寝るに如かず」となるわけじゃが、この「手足に心を用う」というのが実に面白いので紹介させてもらった。

先生の作用を学ばんと欲するもの

吾は先生の作用を学ばんと欲するもの、区々、経を質し、文を問はんとするにはあらず

継之助が備中松山の山田方を訪ね、支持するときに言ったとされる言葉じゃ。講釈を受けるのではなく、ただ傍近くで学び、吸収したいということじゃな。弟子入りを希望する者たちを断っていた方谷も、こうした継之助の態度、学びの姿勢に好感をもったんじゃろう。継之助は「先生程では越後屋の番頭が勤まる」と賞しておいるが、これは継之助にとっての最大級の褒め言葉、尊敬の念の表れなんじゃろう。後の継之助の藩政改革は、方谷の影響を強く受けているようじゃが、こうした師を得られるかどうかは、人生における大きなターニングポイントになるんじゃな。

仕事の心得となる名言

何でもよい、一つ上手であればよいものだ

何でもよい、一つ上手であればよいものだ。上手だければ、名人と謂はれる。是からは何か一つ覚えて居らなければならぬ

妹の安子に言った言葉だという。安子の子の金太郎は勉強嫌いで凧上げが大好きだったらしい。安子は「凧上げの名人にはなれるかもしれません」と冗談めかして言ったところ、継之助は大真面目にこう返したという。まあ、凧上げがよいかはともかく、この継之助の考え方は、現代のわれわれにとって特に身に沁みる名言ではないじゃろうか。なお、金太郎は戊辰戦争に従軍して戦死している。

自分の心を責め候ては……

自分の心を責め候ては、一つも立つ所なく。 

藩主・牧野忠恭が老中になったとき、継之助が辞任を求める上申を行ったときの言葉である。老中になることは名誉であり、誇りである。じゃが、それには金がかかるし、将来を危うくもする。それよりも国元の政治を整え、実力を蓄えることが先である。継之助はそう信じていた。藩主に辞任を求めることに自責の念はある。じゃが、そんなことにとらわれているより、何が正しいか、何が必要かという物差しで上申する。これぞ継之助の真骨頂といえるじゃろう。

吾は金銭の値を尊くすることを力むるものなり

吾は金銭の値を尊くすることを力むるものなり。与ふべき時にあらずして、与ふるは、是れ金銭の値を卑しくするものなり。

金の使い方、会計に関する名言じゃが、赤字で困窮していた長岡藩を短期間で改革した継之助だけに、重みのある言葉である。「生きた金」の使い方というのは難しい。じゃが、どんな勘定もいい加減にせず、収支をきちんと明らかにし、為政者が私心なく生きた金を使うよう心がければ、財政に苦しむことはない。国会の先生方や財務省の役人に噛み締めてもらいたい言葉じゃな。

眼を開け

眼を開け、耳を開かなければ、何事も行はれぬ

継之助が長岡藩士の三間市之進に語った言葉じゃ。ペリー来航により日本は騒然となった。国中が開国か攘夷か、大きく揺れた。それぞれが勝手なことを主張したが、継之助まず、現実をきちんと見極めることの大切さを説いたのじゃ。大騒ぎしている連中は、物事をしっかりと見ていない。ただ熱にうなされているだけじゃ。攘夷志士なる者はその典型で、そこに私利私欲が絡んでくるからなお始末に悪い。継之助はそういう連中には与せず、現実を受け止め、自身のなすべきに集中した。空気に乗せられ、付和雷同することは現に慎みたいものじゃな。

リーダーとして噛み締めたい名言

一忍可以支百勇一静可以制百動

一忍をもって百勇を支うべく、一静を以て百動を制す 

長岡の河井継之助記念館にこの書があった。元ネタは中国の詩人・蘇老の「一忍可以支百憂、一静可以制百動」で、継之助は「百憂」を「百勇」に変えて書を残したそうじゃ。リーダーの心得を説いたものだそうで、「人々の憂いを取り除くためには、指導者はつねに忍をもって対処しなければならない。人々を動かそうとするならば、静かに狼狽えることなく、信じて見守らなければならない」人というものは思うように動かないものじゃからな。忍んで、信じて、任せ見守る。そういうことじゃろうか。  

民は国の本、吏は民の雇

民は国の本、吏は民の雇

これは継之助が欧米人から聞いた社会制度の話をメモしたもののようである。「民は国の本」というのは儒教でも説かれている内容ではあるが、「吏は民の雇」というのは当時としては斬新である。幕府はもちろん、藩庁で働く者は民の暮らしをよくするために雇われているというこの思想があればこそ、継之助は大胆な藩政改革を進めることができたのじゃろう。

民を安ずるは恩威にあり。基本は公と明とにあり

民を安ずるは、恩威にあり。無恩の威と、無威の恩は、二つながら無益。基本は公と明とにあり。公なれば人怨まず、明らかなれば人欺かず。此心を以て、善と悪とを見分け、賞と罰とを行うときは、何事か成らざらん。有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ事立ず。誠を人の腹中に置くの御工夫、ご油断これ泣きよう、偏にこいねがわくなり。

長岡藩領で代官をつとめていた萩原貞左衛門に宛てた書簡の一部である。萩原は忠実な能吏ではあったが、そのため農民とのいざこざが絶えなかった。そこで継之助は萩原に役人としての心得を解いたのじゃ。「民を安ずるは、恩威にあり」「基本は公と明とにあり」。先の「民は国の本、吏は民の雇」とともに、継之助の為政者としての理念がよく表れている書簡である。

人を得ずして

人を得ずして、其法をのみ存するは、却って危険なり

これも組織を預かる立場の者であれば深く頷きたい言葉じゃろう。制度やシステム、仕組みというのはもちろん大事じゃが、それを動かす適正な人を得ないと、それはかえって危険だと言うのじゃ。これはシンプルで分かりやすいぶん、実に達見じゃな。

人生の指針となる名言

欲の一字より迷のさまざま、心をくらます種となり

欲の一字より迷のさまざま、心をくらます種となり。終りは身を失ひ、家をも失ふにいたるべし。心を直に悟るなら、現在未来の仕合あり。子々孫々にも栄ゆべし。ほめそやさるのは仇なり。悪みこなさるるは師匠なり。只々、一心真実つくすが身の守、此事、夢々忘るべからず。

長岡藩領山中村で起きた「山中騒動」を継之助が裁定したときの言葉である。継之助は情理を尽くして庄屋、農民双方を説き、この騒動を見事に収めている。人間は「欲の一字」に捉われがちじゃ。もちろん「欲」は人間の意欲の源泉であったり、原動力であったりもするから一概に否定はできない。じゃが、我欲は身を滅ぼし、家を滅ぼす元になる。「欲の一字」から解放されれば、人間は迷うことなく、穏やかに生きていけるというのじゃ。

出処進退の四つ

人と云ふものの世に居るには、出処進退の四つが大切なものでございます。其中の、進むと出づると云うことは、是非、上の人の助けを要さねばならぬが、処ルト退く方は、是は人の力を藉(か)らずに自分ですべきである。

江戸遊学中のときの継之助の言葉である。継之助に藩から横浜の警備にあたるよう命令が出たが、継之助はこれを断った。すると久敬舎の古賀謹一郎から、一介の書生に名誉なことだから受けてはどうかと説得されたが、このときの継之助の回答がこれである。結局、継之助は師の言うことを聞いてその任を引き受けたが、真面目にやれば金がかかって馬鹿馬鹿しいと、品川まで兵を連れていくとそこで解散してしまった。「出処進退」は人生における重要な分岐点である。じゃが、「出処」はともかく「進退」は自分で決められる。そこに私心や我欲、変なプライドを打ち消してどう決断できるか。考えさせられる名言じゃな。

死ぬ気になって致せば生きることも出来

死ぬ気になって致せば生きることも出来、若し死にたくない、危ない目に逢ひたくないと云ふ心があらうなら、夫こそ生ることも出来ず。

長岡城奪還のための八丁沖渡渉作戦の直前に、継之助が長岡藩兵に与えた檄文(口上書)の一部である。檄文にはこの戦いの意義、目的、そして心得が記されているが、当時としては珍しく口語文で書かれている(起草は山本帯刀であるという説あり)。この檄文は継之助の想いが迸る名文じゃとわしは思っておるんじゃが、この部分には、サムライの根源が刻まれているようで、わしのような太平楽な凡夫でも凛とした気持ちになる。どんな困難に出会っても、こういう気概で立ち向かっていきたいものである。

ということで、河井継之助の名言を拾ってきたがいかがだったじゃろうか、わしとは真逆の生き方、キャラの男じゃが、それだけに学びもまた深いものじゃ。みなの心を震わせる名言があったら紹介したかいがあるというものじゃ。

なお、今回の名言の出典の多くは『河井継之助のことば』(新潟日報事業社、稲川明雄著)じゃ。おすすめの一冊なので、ぜひ読んでくりゃれ。

河井継之助のことば

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