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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三浦大介義明と衣笠城合戦〜鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ!

鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ!。今回は三浦義明と衣笠城合戦についてじゃよ。

三浦義明坐像 満昌寺蔵

三浦大介義明坐像(満昌寺蔵)

三浦大介義明の出自

三浦氏は平良文の流れをくむ坂東八平氏の一つ。良文の孫である平忠通の子・為通が前九年の役で武功をあげ、源頼義殿からこの地を与えられて以後、「三浦」を名乗るようになった一族じゃ。もっとも、三浦の祖・為通については信頼性が高い史料での記載がなく、その出自、存在はどうもはっきりしないようじゃがな。

三浦為通から4代目に当たるのが三浦義明。この頃の三浦党は相模の有力在庁官人として三浦介となっており、三浦半島はもちろん安房にも勢力を伸ばしていたようじゃ。

三浦義明は多くの子女に恵まれた。 長男の杉本義宗は和田氏の祖、次男の義澄は父の後嗣となり、娘の一人は源義朝殿の側室となって悪源太義平を産んでいる。久寿2年(1155)に義平が叔父の源義賢を殺した大蔵合戦では、三浦党がこれを支援した。

三浦義明は「三浦大介(おおすけ)」を自称した。もちろんふつうの官名は「介」であり父の義継も息子の義澄も「三浦介」を名乗った。司馬遼太郎さんは義明について、諸事自負するところが多く「わしは単なる介ではないぞ。大介であるぞ」と言っていたのではないかと書いている。たしかにそんな人柄を思わせる風貌ではあるな。

義明は保元、平治の乱でも源義朝殿に従うが、義朝殿が敗れると三浦党も戦線を離脱して帰国。平氏全盛時には自領で逼塞を余儀なくされていたが、それでも密かに伊豆に頼朝公の配所を訪ねるなど、源氏との繋がりを保ち続けたようじゃ。

源頼朝挙兵と三浦党

治承4年(1180)源頼朝公が挙兵すると、三浦党は一族を挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃する。じゃが、酒匂川が氾濫して難渋しているところへ石橋山での頼朝公敗走の悲報が入ると、三浦党はやむなく衣笠へ引き返している。

 

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ほどなくして畠山重忠率いる軍勢が三浦に攻め込んでくる。重忠はもともと源氏に味方をしたかったが、父の重能が大番役で京都にいたため不本意ながら平氏方として戦うことにしたらしい。しかも重忠の母は三浦義明の娘じゃ。この戦さ、畠山にとっても三浦にとっても気が重いものじゃろう。

三浦と畠山には前哨戦があった。三浦党が衣笠城へ引き返す途中、鎌倉由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と遭遇したのじゃ。ただ三浦も畠山もお互いに同じ東国武士として見知った仲、縁戚も多いゆえ無駄な戦さはやめようと話がまとまっていた。ところが、そこへ遅れてやって来て事情を知らない和田義盛が畠山勢に討ちかかってしまう。これに怒った畠山勢が応戦して合戦となり、双方に少なからぬ犠牲者が出てしまったのじゃ(小坪合戦)。

衣笠城合戦、三浦大介自決

衣笠城跡

衣笠城跡

8月26日、重忠は同じ秩父氏の総領家である河越重頼に加勢を呼びかけ、重頼も同族の江戸重長と共に数千騎の武士団を率いて重忠軍に合流。三浦氏の本拠地・衣笠城の攻撃を開始した。衣笠城合戦の始まりである。

合戦の経過は「吾妻鏡」8月26日条に簡潔に記されている。

東の木戸口(大手)は次郎義澄・十郎義連、西の木戸口は和田太郎義盛・金田大夫頼次、中の陣は長江太郎義景・大多和三郎義久等なり。辰の刻に及び、河越太郎重頼・中山の次郎重實・江戸の太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。義澄等相戦うと雖も、昨(小坪合戦)今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。

先の小坪の合戦で消耗していた三浦党は力尽き、夜陰に紛れて城を脱け、安房へ向かった頼朝軍と合流することを決める。この時、義澄は義明を伴おうとしたが、義明はこれを断っている。

義明を相具せんと欲するに、義明云く、吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛(頼朝)に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。義澄以下涕泣度を失うと雖も、命に任せなまじいに以て離散しをはんぬ。

「我は源氏累代の家人として老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を頼朝に捧げ子孫の手柄としたい」義明はこう語り、一族は涙を流し別れたと伝わっている。

 

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衣笠城内にある大昌寺

衣笠城跡内にある大善寺

じゃが、これには異説もある。「延慶本平家物語」には、三浦党が城を脱出する際に、老齢の義明が足手まといとなったので置き去りにしたと記されている。

『義明幾程の命を惜しみて、城の中をば落ちけるぞ』と、後日にいはれむ事も口惜しければ、我をばすてて落ちよ。全く恨み有るべからず。急ぎ佐殿に落ち加はり奉りて、本意を遂ぐべし」

はじめ老齢の義明は城を抜けることを拒否した。しかし、そうは言っても捨て置くことはできない。そこで三浦の郎党は手輿を用意し、無理やり義明を乗せて連れ出すことにしたのじゃ。ところが……

宗との者共は、栗浜の御崎に有りける船共にはいのりはいのり、安房の方へぞ趣きける。大介が輿は、雑色共の舁きたりけるが、敵近く責めかかりければ、輿をもすてて逃げにけり。近く付き仕へける女一人ぞ付きたりける。敵が冠者原追ひかかりて、大介が衣装をはぎければ「我は三浦の大介と云ふ者なり。かくなせそ」と云ひけれども叶はず。直垂もはがれにけり。さるほどに夜もあけにければ、大介、「あはれ、我はよく云ひつるものを。城中にてこそ死なむと思ひつるに、若き者の云ふに付きて犬死にしてむずる事こそ口惜しけれ。さらば同じくは畠山が手に懸かりて死なばや」と云ひけれども、江戸太郎馳せ来りて、大介が頸をば打ちてけり。「いかにもおとなの云ふ事は様有るべし。元より大介が云ひつる様に、城中にすておきたらば、かほどの恥には及ばざらまし」とぞ人申しける。

義澄らは守備よく城から逃げられたものの、義明は敵に追いつかれそうになり、けっきょく三浦党の面々は輿を放り出して早々と逃げてしまっ。義明は無念にも敵の辱めを受け、首をとられて無念の死を遂げたというのじゃ。

おい三浦党、それでよかったのか?

地元に伝わる三浦大介腹切松の伝承

三浦大介腹切松

三浦大介腹切松(横須賀市大矢部)

 

もっとも地元では、「吾妻鏡」とも「平家物語」とも違う義明の最期が伝わっている。義明は義澄ら一族を逃がすために衣笠城に残って存分に戦って時を稼いだ。そして、頃合良しとみた義明は一族の墓所へ向かおうと愛馬に乗って城から出ていく。

じゃが、途中の松の木まで来ると、なぜか愛馬が立ち止まって動こうとしない。義明は、ここが死場所なのだと運命を悟り、立派に自害して果てたというのじゃ。

現在、その松の木がある一帯は「切腹松公園」という物騒な名前の公園になっている。わしが行ったときもこどもたちが元気に遊んでおり、ママ友どうしが談笑するふつうの公園じゃった。まあ、公園の名はともかく、こうした伝承が残されていることからも、義明が地元の人に愛されていることが伺えるじゃろうで。

ちなみにJR衣笠駅近くの商店街を歩くと、三浦党への地元民の愛をよりいっそう感じ流ことはできる。アーケードではアニメ「ハイフリ」と一緒に三浦一族を推す看板が随所にあり、聖地巡礼のためにやってくるハイフリと三浦党のファンを歓迎してくれている。歩いてみると実に微笑ましい気持ちにさせてくれるぞ。

鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ

さて、司馬遼太郎さんの『街道がゆく42三浦半島記』には、三浦義明の「鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ」という歌が紹介されている。江戸時代、物乞いの風俗の中に、めでたい歌をうたって鳥目(銭)をもらうというのがあったんじゃが、この歌もその一つで、「亀は鶴よりもめでたく、三浦大介はさらにめでたい」ということらしい。

安房に逃れ、そこで三浦党と合流し再開を果たした頼朝公は、三浦義澄らから義明の最期について伝え聴いたであろう(もちろん『平家物語』バージョンではないと思うぞw)。ただでさえ心細かったはずの頼朝公は、たいそう勇気づけられ、感じいったことじゃろう。

後年、衣笠山では三浦大介義明十七回忌が営まれた。もちろん、頼朝公は鎌倉からこの地を訪れて墳墓に拝礼している。

このとき、頼朝公は「私はあなたとともに生きている」と不思議なことを言ったらしい。「あなたはあのとき死んだのではない。私とともに17年間生きてきたんだ」と。これは頼朝公の三浦党へのリップサービスではなく、心からの思いとみてよいじゃろう。

義明の死は数え年89歳。じゃが、その後も義明は、鎌倉に武家の覇府をつくった頼朝公とともに17年を生きた。ということで「89+17=106」、つまり「三浦大介百六つ」ということになるわけじゃな。

死んでもなお生きるが如く禄六をもらった三浦大介義明は「鶴や亀よりさらにめでたい!」ということで、かような歌ができたということらしい。

三浦義明が眠る満昌寺

横須賀市にある満昌寺にも行ってきた。このお寺は建久5年(1194)、三浦義明による開基となっている。もちろん、そんなはずはなく、実際の創建は源頼朝公じゃ。頼朝公は老将の菩提を弔うべく義明を開基とする寺を創建したんじゃよ。

廟所にそっと手をあわせる。なお、湛慶作による「三浦大介義明坐像」も事前予約すれば宝物殿で見ることができるのでぜひ。

満昌寺・三浦義明の墓

三浦義明墓(満昌寺)

三浦党は頼朝公を支え、鎌倉幕府成立に尽力した。義澄は亡父の功もあり右衛門尉の官位を受け、ついには正五位下駿河守に任じられ、北条と並ぶ権勢の座についた。

じゃが、頼朝公亡き後、北条と三浦の蜜月は続かなかった。まず北条義時公は和田合戦で和田義盛を滅ぼした。その後、北条義時公と三浦義村は盟友関係を続けたが、執権・北条時頼公の時代に宝治合戦が起こり、三浦党は滅亡した。まあ、この一件は時頼公というよりも安達が暗躍したのが原因なんじゃが、さりとて執権政治、得宗専制の流れの中で、両雄は並び立たなかったじゃろう。

 

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三浦党はその後、支流の佐原氏が領袖となり、戦国時代まで続いていく。じゃが、そこでもけっきょく伊勢宗瑞の小田原北条氏に滅ぼされてしまうのじゃ。

二度までも北条に滅ぼされてしまう三浦党。何の因果かとも思うが、その系譜は里見氏の部将正木氏に繋がり、里見滅亡ごは徳川に仕え、姓を三浦に復して紀伊家重臣となり、明治維新を迎えている。

こんなちっぽけな半島から名をなした三浦党、大介爺も本望であったことじゃろう。