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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三浦道寸・義意 VS.北条早雲 油壺新井城の戦い〜討つものも討たるる者もかはらけよ

GWに油壺に行ってきたので、今回は三浦義同・義意父子について書いておく。三浦党といえば、義村、義澄、大介義明が有名じゃが、こちらは戦国時代の三浦氏じゃよ。

三浦道寸・三浦義意

三浦義意(左)、三浦義同(右)

戦国時代へとの続いた三浦氏

ご存知の通り、鎌倉幕府で一時北条と権勢を二分した三浦氏の嫡流は宝治合戦で滅亡した。じゃが、傍流の佐原氏は宝治合戦で北条に味方し、三浦盛時が三浦氏を継承、再興することになった。以降の三浦氏は御内人となって北条を支えていく。

鎌倉幕府滅亡の折には足利尊氏に味方し、建武新政下では相模、武蔵で地頭職を安堵されたようじゃ。その後、時行が「中先代の乱」を起こすと、父の三浦時継は北条方に、息子の高継は足利方に味方して戦っている。勝利した足利により、高継は父の本領を与えられ、南北朝騒乱では一貫して尊氏に尽くし、室町時代を生き延びていったのじゃ。

じゃが、室町幕府の治世というのはなかなか安定しなくてな。とくに鎌倉公方が将軍の言うことを聞かなかったため、関東は騒乱が続き酷いものであった。関東管領の上杉氏も本家の山内上杉と分家の扇谷上杉で分裂してしまい、とにかく争いが絶えなかったのじゃ。

享徳3年(1455)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害する事件が起こる。「享徳の乱」じゃ。全国的には「応仁の乱」を持って戦国時代の始まりとされるが、関東においてはこの「享徳の乱」をもって、一足早く戦国時代になったとするのが現代では定説となっておるぞ。

こうした戦乱のなか、三浦の当主・時高は、いつしか扇谷上杉氏の重臣に数えられる存在となっていた。同時に幕府からの信任も厚かったようで、時高の時代には三浦郡はもとより鎌倉郡へもその支配を広げていたようである。

三浦氏の内紛と三浦義同の台頭

新井城跡

新井城址碑(神奈川県三浦市)

三浦時高には男子がなかった。そこで、主家筋の扇谷上杉持朝の次男・高救を養子とすることになった。その後、高救は上杉氏に復したため、その子の義同を三浦の養子としていた。

ところが晩年になって、時高に実子が生まれた。こうなるとお家騒動に発展するのが歴史の常じゃな。時高は実子に家督を譲ろうと、ついには義同を殺害しようする。義同は母所縁の小田原城主大森氏頼の支配下にあったた足柄下郡の総世寺に逃れた。そして剃髪し「道寸」と称するようになったんじゃ。

じゃが、義同はなかなかの人物で器量があったようじゃ。三浦党の面々の中には道寸を慕うものも多く、かくして三浦は両派に分裂してしまう。その経緯について、『北条記』はこう記している。

彼義同、器量雙なく才覚人に越ければ、郎党共を初め三浦の一門、是を持賞ける処に、時高晩年に及ひて実子一人出来しを、時高夫婦大に悦ひ、是を養立て家督を継せ、猶子新介義同を追出はやと思けれは、折付触れて面目なく当りけれ共、義同は少も色不出

明応9年(1500)9月、道寸は外戚の大森氏らの支援を得て、新井城を攻めて時高を殺害し、三浦の家督を勝ちとった。そして義同は嫡男の義意を新井城主とし、自らは岡崎城主(現在の平塚市、伊勢原市あたり)を拠点に相模国での勢力を蓄えていくのじゃ。

北条早雲(伊勢宗瑞)との対立

相模湾

新井城址から相模湾を臨む

明応4年(1495)、小田原の大森藤頼が駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(後の北条早雲)に城を奪われてしまう。早雲は伊豆国と小田原を本拠に関東へ本格的に進出を始めたのじゃ。道寸は叔父の藤頼を保護し、早雲への警戒を強めていく。

早雲は山内上杉家と対抗するために、扇谷上杉家と同盟を結んだが、やがてこれが敗れると、扇谷上杉家傘下の三浦道寸氏との対立は決定的となる。道寸は永正7年(1510)、小田原城を攻め、早雲との戦いが始まったのじゃ。

永正9年(1510)、早雲は岡崎城を攻める。この猛攻に敗れた道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却する。じゃが、住吉城の攻防で道香は戦死。道寸はやむなく義意がいる新井城へ後退していった。

このとき道寸は扇谷上杉からの援軍を期待した。援軍に来たのは太田道灌の子で道寸の娘婿・太田資康じゃ。じゃが、資康は迎撃されて討死してしまう。隠して道寸義意父子は籠城を決意、凄惨な新井城攻防戦が始まるのじゃ。

新井城の戦い

新井城址

新井城址案内板

新井城は三浦半島の西岸、小網代湾と油壺湾の間の標高26メートルの高台に位置する。現在、現地には東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所があるが、周囲には堀切や土塁と見られる遺構が残っている。

現地に行ってみるとよくわかるが、新井城は三方を海に面したまさに天然の要害である。陸の進軍路は北方の大手のみで、そこの引橋を切り落としてしまえば力攻めは不可能じゃ。道寸はここに三浦水軍の実力をもってけ堅固な守備を敷く。これではいくら早雲でも、ちょっとやそっとでは落とせそうにない。

新井城

そこで早雲は力攻めを避けて持久戦をとり、三浦氏の力が弱まるのを待った。そして扇谷上杉が援軍として挟撃してくることへの備えとして、三浦半島の付け根にあたる地に玉縄城を築き、万全の体制をとった。

じっさいに上杉朝興は援軍を送ったがこの辺りで撃退されてしまう。援軍なき籠城に勝算はない。ここに三浦党は完全に詰んでしまったのじゃ。

三浦道寸・義意の最期

三浦道寸の墓

三浦道寸(義同)廟所

三浦党は早雲の攻撃に3年間も持ち堪えた。じゃが、頼みの扇谷上杉はもはや当てにならない。三浦道寸・義意父子は覚悟を決めた。

討つものも討たるる者もかはらけよ
くだけて後は もとの土くれ

道寸の辞世じゃ。道寸は古今伝授で知られる東常縁(とうのつねより)の門弟と伝えられている。単なる三浦の荒武者ではなく歌心もあったんじゃな。

永正13年(1516)7月11日、新井城は落城する。道寸は自害して果てたという。なお「北条五代記」では、道寸は夜もすがら最後の酒盛りをし、翌朝辰の刻に城を出て小田原勢を二町ばかり追い立て、切りに切りまくり壮絶な死を遂げたとある。

どことなく三浦大介義明と似ているのう。

三浦義意の墓

三浦義意(荒次郎)廟所

三浦義意は通称「荒次郎」、「八十五人力の勇士」との異名をもつ偉丈夫じゃ。背丈は7尺5寸(227cm)もあり、鉄の厚さが2分(6cm)の甲冑を身につけ、最後の戦いに挑んだ。武器は白樫の丸太に節金を通した金砕棒で、一振りで5人、10人をぶっ潰したという。棒に当たって死んだ者は500余名、周囲に敵が居なくなると、自ら首をかき切って自害した。こんな大男が棍棒ぶん回して命懸けで向かってきたんじゃから、小田原勢も恐怖でしかなかったじゃろうよ。

三浦党は次々に討たれ、あるいは海へ身投げして全滅した。この戦いの血のりにより、湾内の海面はまるで油を流したような様になったという。このことからこの地は「油壺」と呼ばれるようになったと伝えられている。

「北条五代記」には次のように記されている。

今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より雷輝き出て両方光入り乱れ風猛火を吹き上げ光の中に異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかり云々

「かながわの景勝50選」に選ばれ、北原白秋も歌に詠んだ風光明媚な景色からは想像がつき難いが、上から静かな水面を見つめているとなんだか恐ろしい気持ちになってきたぞ。

油壺湾

新井城址から眺める油壺湾

宝治合戦で北条に滅ぼされた三浦党。奇しくも450年の時を経て、同じ北条を名乗る伊勢宗瑞に滅ぼされてしまうというのは何の因果じゃろうか。

ちなみに、小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされるが、4代当主・北条氏政、弟の氏照が切腹したのは7月11日である。そして北条の治世下で新井城主をつとめたのは北条氏規で、断絶した北条の家を氏規の血筋が繋ぎ、河内狭山藩として明治維新を迎えておる。

討つものも討たるる者もかはらけよ くだけて後は もとの土くれ

それにしても…討たれた者でこそ、この歌の深みがよくわかるというものじゃな。