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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

明暗を分けた大庭景親と景義〜大庭城址公園に行ってきたぞ

先日、源義朝公による大庭御厨の濫妨事件について書いたが、たまたま大庭方面に行く用事があったので、ついでに大庭城趾公園へ立ち寄ってきた。近くまではしょっちゅう来ておるのじゃが、公園内に入るのは初めて。わし、なにかに引き寄せられたんじゃろうかw

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戦国期の大庭城と舟地蔵伝説

大庭城碑にはこうある。

此地大庭景親ノ居城ト伝フ 後上杉定正修メテ居城セシガ 永正九年子朝長ノ時北条早雲ニ 攻落サレ是ヨリ北条氏ノ持城ト ナッタ廃城ノ年代未詳空塹ノ 蹟等當代城郭ノ制ヲ見ルニ 足ルモノガアル
昭和七年九月 神奈川縣

今回、訪れてみてはじめてわかったんじゃが、大庭城はそこそこ大きな山城だったんじゃな。築城は扇谷上杉氏。現在でも土塁や空堀の遺構をみることができるし、付近には城下、駒寄、二番構といった往時を偲ばせる地名も残っている。昭和43年の発掘調査では、高床式建築の柱跡も確認されている。

のちに伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め落とされ、玉縄城が築城されると大庭城の戦略上の価値は低下し、小田原北条氏が滅亡すると、廃城になったという。 

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北条軍の大庭城攻めは、このあたりが一面の沼地であったため、大いに攻めあぐねたらしい。そこへ、ボタ餅売りの老婆がやってきて、「そこの堤を切れば水は干上がります」と教えてくれた。武将たちはそれは妙案と喜んだが、大事がもれるのを恐れて、老婆を斬り殺してしまったという。老婆の献策を実行した北条軍は大庭城を難なく落とすことができたが、土地の人々はこの老婆の死を哀れんで、近くにお地蔵様を祀った。これが近くにある「舟地蔵」にまつわる伝説じゃ。それにしても、なんとも酷い仕打ち。人の命をなんだと思っておるんじゃ!

ちなみに、空からみた大庭城趾はこんな感じ。ぽっこりと丘状になっているのがよくわかる。

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大庭景親と景義

この大庭の地を開いたのは、後三年の役で活躍した坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の権五朗景政。平安時代後期は律令制が崩れ、武家や公家による荘園経営が盛んにおこなわれており、景政は私領の拡大を目論んで大庭一帯の山野を開発し、伊勢神宮に寄進した。

これは、有力貴族や寺社に私領を寄進することでその保護を受けようという寄進型荘園の典型じゃ。荘園からの官物・雑役は国司に納めるのがふつうじゃが、寄進してしまえば年貢・公事を伊勢神宮に納めればよくなるので、国司の圧迫から逃れることができる。いわゆる「不輸の権」「不入の権」を得ることができ、安定した荘園経営ができるようになるという算段じゃな。これが大庭御厨のはじまりで、鎌倉景政の長男・景継からは大庭姓を名乗るようになったというわけじゃよ。

じゃが、順調な荘園経営に横槍が入る。先日も書いたとおり、源義朝公による大庭御厨への侵攻事件じゃ。「鵠沼郷は鎌倉郡に属する公領であり、大庭には関係無い!」という義朝公の論理は無茶苦茶な言いがかりじゃったが、この武力による乱暴狼藉をきっかけに、大庭氏は義朝公と従属関係をもつに至る。そのため保元の乱では大庭景義、景親兄弟は義朝公傘下で後白河天皇方として、崇徳上皇方の猛者、鎮西八郎源為朝殿と大激戦に及び、武功をあげている。この戦で景義は為朝殿の強弓に当たり負傷。家督を景親に任せて懐島郷(現在の茅ヶ崎市)に隠棲する。

じつはこれが兄弟の命運を分けることになる。つづく平治の乱で源氏が敗れて没落すると、景親は平氏に急速に接近、義朝公に合力した三浦氏らを尻目に相模国での勢力を伸ばしていくことになる。

兄弟の明暗を分けた石橋山の合戦

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源平盛衰記」の石橋山の合戦のくだりには、景親が囚われの身になったとき平清盛に助けられた御恩があるので平氏に味方する、と語る場面がある。これに対して、北条時政殿は「かつて源氏に仕えた鎌倉権五郎の子孫が平家に尻尾を振ってみっともないぞ!」と景親を挑発するが、もちろん景親は歯牙にかけない。

そもそも鎌倉は「鎌倉権五郎景正」が開墾した土地で、その中から伊勢神宮に寄進されたのが「大庭御厨」であり、開発領主はあくまでも大庭氏じゃ。そこへ後からやって来たのが平直方の婿になった源頼義殿であり、 その後、源義朝殿が鵠沼に乱入してきて狼藉を図る。大庭氏にしてみれば、自分らが開墾した土地を力で支配するようになってしまったんじゃから、面白いはずがない。むしろ、平治の乱で義朝殿に与したにもかかわらず、その罪を許し、厚く遇してくれた平家に恩顧を感じていても何ら不思議はな買ったじゃろう。

いっぽう兄の景義は、亡き義朝公への忠義を貫くとし、頼朝公の旗揚げに参陣する。鎌倉に北条政子さまをお迎えしたのも景義だといわれているが、これはどちらが勝っても大庭の家を残すための作戦だったといえなくもない。

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景親、景義の最期

結果として、景親はあと一歩というところで同族の梶原景時に謀られ、頼朝公を逃してしまう。そして再挙した頼朝公に関東の武士団がつぎつぎと味方する中、景親は富士川の合戦後に降伏する。

頼朝公は景親の処遇について景義に尋ねた。すると景義は「御大将の意のままに……」と答えたという。いくら弟とはいえ、追討軍の大将にもなった景親の助命を請うことはできなかったんじゃろう。最終的に頼朝公は景義に景親の斬首を命じている。

もののふの世界は非情である。坂東八平氏がみな御家人として鎌倉幕府に参画しているだけに、大庭景親は自ら決断したとはいえ、気の毒な感じもする。

鎌倉開府後、生き残った大庭景義は鎌倉の長老格として頼朝公の信任を得て重きをなす。じゃが、数年を経ずして、景義は老齢を理由に、やはり長老格の岡崎義実とともにとつぜん出家している。

建久6年(1195)、景義の書状には「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」とあることから、何らかの事件で失脚していたのじゃろう。

この時期、鎌倉で起きていた事件といえば、曾我兄弟による仇討ちじゃろうか。この書状にある「疑いをかけられ」というのが何なのかは謎じゃが、権謀術数渦巻く鎌倉のこと、お気の毒としか言葉はない。なお、景義の嫡男・大庭景兼は和田合戦の渦中で消息不明となっておる。中世鎌倉の権力争い、ほんとうに恐ろしい……

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閑話休題 大庭城趾公園は今日もファミリー客でいっぱいじゃった。そういうきな臭い話は似合わんな。わしの愛犬の写真で和んでいただければ幸いじゃ。