今日はぷらっと大庭に出かけたので大庭景親と景義について書いてみたいと思う。大庭景親は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では國村隼さんが実に味のある演技をしておったな。
「今思えば、伊東と北条のいさかいを収め、頼朝の命を救ったことが我が身の仇となったわ。面白いの。あの時、頼朝を殺しておけばと、おまえもそう思う時が来るかもしれんの、上総介。せいぜい気を付けることだ」
そう言い残して佐藤浩市さん演じる上総広常に斬首されたシーンは、今なお、脳裏に焼きついておるぞ。
鎌倉権五郎景政と大庭御厨
大庭の地を開いたのは、鎌倉権五郎景せいじゃ。坂東八平氏の祖で、後三年の役では源義家に従軍し、右目を射抜かれながらも奮戦した猛者として有名じゃ。
この権五郎景政が、現在の寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市にまたがる「大庭御厨」を開発し、伊勢大神宮に寄進したのが大庭のルーツじゃ。
平安後期は律令制が崩れ、武家や公家による荘園経営がおこなわれはじめていた。そんな中、景政は私領の拡大を目論んで大庭一帯の山野を開発し、それを伊勢神宮に寄進した。有力貴族や寺社に私領を寄進することで保護を受ける寄進型荘園の典型じゃ。
荘園からの官物・雑役は国司に納めねばならない。じゃが、寄進してしまえば年貢・公事を伊勢神宮に納めればよく、国司の圧迫から逃れることができる。いわゆる「不輸の権」「不入の権」を得て、安定した荘園経営ができるという算段じゃ。
これが大庭御厨のはじまりで、権五郎景政の長男・景継は「大庭」を名乗るようになったのじゃよ。
じゃが、こうした順調な荘園経営に横槍が入る。源義朝殿による大庭御厨への侵攻事件じゃ。「鵠沼郷は鎌倉郡に属する公領であり大庭には関係無い!」という義朝殿の無茶苦茶な論理で武力侵攻を受け、大庭氏は義朝殿に力づくで従属させられた。
なお、義朝殿と大庭御厨濫妨事件については、こちらを読んでもらうとしうて…先へ急ごう。
平清盛が信頼を寄せた大庭景親
大庭景継の子、景義・景親兄弟は、保元の乱では義朝殿に合力し、後白河天皇方として戦った。兄弟は白河北殿の西門を攻め、あの鎮西八郎源為朝と激戦に及んでいる。
この戦いで景義は為朝の強弓で左膝を撃ち抜かれてしまう。景親は落馬した兄を助け出したが、この矢傷が元で景義は歩行困難となり、家督を景親に譲って懐島郷(現在の茅ヶ崎市)に隠棲したのじゃ。
結局、源氏は平治の乱で没落する。ちなみに平治の乱に景義と景親が参陣した記録はない。じゃが、「源平盛衰記」には、景親が罪を得て斬られるところを平清盛に救われ、景親は「大恩」を感じて平家の家人として仕えるようになった、という記述がある。これを事実とするのであれば、平治の乱で敵になったのを許されたことへの恩義じゃろう。
そもそも景親は三浦などとは違い、義朝殿とは疎遠であったとされる。そんなこともあってか、平清盛の覚えもめでたかったのかもしれぬな。
「平家物語」には、清盛は景親が献上した坂東八カ国一の名馬を『望月』と名づけ大切にしていたが、 馬の尾にネズミが巣を作って子を生んだので、陰陽頭の安倍泰親に下げ渡したという逸話がある。逸話の解釈はともかく、景親と清盛が強い関係で結ばれていたことの証左じゃろう。
やがて景親は平家の威をもって相模国における後見ともいえる存在にのし上がっていくのじゃ。
景親、石橋山に頼朝公を攻める
治承4年(1180)5月、以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げる。京都にいた大庭景親は平家の命に従い、これを追討した。そして、平清盛の家人・伊藤忠清から、源頼朝公が密かに伊豆で謀反を企てていることを知らされる。しかも、兄・景義が頼朝公に同心しているというのじゃ。
坂東に戻った景親は、頼朝公討伐の密事を佐々木秀義に相談した。じゃが、これは相手が悪かった。すでに秀義は頼朝公に通じていたんじゃ。かくして頼朝公は座して死を待つよりは…と挙兵を急ぎ、伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃する。
治承4年8月23日、大庭景親ら平家軍3000は、石橋山で源氏軍300と対峙した。この当時の戦は「言葉戦い」、名乗り合いからはじまる。
まずはじめに景親は自らが後三年の役で奮戦した鎌倉権五郎景正の子孫であると名乗りをあげた。すると北条時政殿は「かつて源氏に仕えた鎌倉権五郎の子孫が平家に尻尾を振ってみっともないぞ!」と景親を挑発する。もちろん景親はそんなことは歯牙にもかけない。
「されば主にあらずとは申さず。但し、昔は主、今は敵。弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも深し。昔を存じて降人になるべきに非ず」( 延慶本『平家物語』石橋山合戦の事)
そもそも鎌倉は権五郎景正が開墾した土地じゃ。「大庭御厨」の開発領主はあくまでも大庭じゃ。そこへ京から源頼義殿がやってきて、その後、義朝殿が土地を横領した。大庭にしてみれば面白いはずはない。むしろ、平治の乱後、厚く遇してくれた平家に恩義を感じるのは当たり前だということじゃな。このあたりは大河ドラマでも、ややコメディタッチではあったが、しっかりと描かれていたぞ。
しかし、圧倒的な兵力差で攻め立てたにも関わらず、景親は頼朝公を討ち漏らしてしまう。ここが景親と頼朝公の運命の分かれ道になった。頼朝公は真鶴から安房へ逃れて再起し、あっという間に鎌倉へと進撃してきたのである。
景親の最期。富士川の戦いに敗れて斬首
いっぽう、兄の大庭景義は頼朝公の挙兵を聞くと、その追討に反対の立場をとった。源氏に権五郎景正が仕えて以来、主君は源氏であり大庭は源氏に味方すべきというのじゃ。
これにより大庭氏は分裂し、景義は頼朝公の旗揚げに参陣する。ひょっとしたら、これはどちらが勝っても大庭の家を残すための作戦だったという見方もできるじゃろう。
景義は戦働きはもうできない。そこで、元八幡からの鶴岡八幡宮移転や御所造営の奉行として頼朝公に貢献した。鎌倉に北条政子さまをお迎えする段取りをしたのも景義である。
治承4年10月、富士川の戦いで源氏は平氏を破った。これにより関東の趨勢は完全に決まった。景親はやむなく降伏し、上総広常に預けられた。
大庭平太景義、囚人河村の三郎義秀を斬罪に行うべき由仰せ含めらると。今日、固瀬河の辺に於いて景親梟首す。弟五郎景久は、志猶平家に有るの間、潛かに上洛すと(「吾妻鏡」治承4年10月26日条)。
ちなみに弟の俣野景久は逃亡し、平維盛軍に合流して戦い続けている。じゃが、木曽義仲軍に敗れ、加賀国篠原の戦いで討死している。
頼朝公は景親の処遇について景義に尋ねた。すると景義は「御大将の意のままに……」と答えた。いくら弟とはいえ、追討軍の大将にもなった景親の助命を請うことはできなかったじゃろう。頼朝公は景義に景親の斬首を命じた。
大庭景義は源頼朝の宿老となるが……
その後、大庭景義は鎌倉の長老格として頼朝公の信任を得て、重きをなしていく。じゃが、数年を経ずして、景義は老齢を理由にやはり長老格の岡崎義実と一緒にとつぜん出家している。
大庭平太景義・岡崎の四郎義實等出家す。殊なる所存無しと雖も、各々年齢の衰老に依って、御免を蒙り素懐を遂げをはんぬと(「吾妻鏡」建久4年8月24日条)
建久6年(1195)、景義の書状には「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」とある。
大庭平太景能入道申文を捧ぐ。これ義兵の最初より大功を抽んづるの処、疑刑を以て鎌倉中を追放せらるるの後、愁欝を含みながら、すでに三箇年を歴をはんぬ。今に於いては余命後年を期し難し。早く厚免に預かり、今度御上洛供奉の人数に列し、老後の眉目に備うべきの趣これを載す。仍って則ち免許し、剰え供奉せしむべきの旨仰せを蒙ると(「吾妻鏡」建久6年2月9日条)
どうやら景義は何らかの事件で失脚してようじゃ。この時期、鎌倉で起きていた事件といえば、曾我兄弟による仇討ち、蒲殿こと源範頼の弑殺である。この書状にある「疑いをかけられ」というのが一体何か、それは謎のままじゃが、何らかの権力闘争があったということじゃろう。そのあたりの考察はこちらを。
ちなみに、その後の大庭氏じゃが、景義没後は子の景兼が家督を継いだが、和田義盛の乱の合戦で消息をたったいる。おそらく粛清されたのであろう。この頃、弟(?)の景連が備後国新庄本郷の地頭に任命され、その後は現地で大場氏を名乗っているぞ。