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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

戦艦大和は無用の長物?世界3大バカ?~呉の大和ミュージアムに行ってきた

呉市にある「大和ミュージアム」にいってきたので、今日は戦艦大和についてじゃよ。

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大和ミュージアム

JR広島駅から瀬戸内海沿いを走る呉線で約30分。当日はあいにくの大雨じゃったが駅からミュージアムまで、ほぼ濡れずに着くことができたのはありがたかった。

「大和ミュージアム」の正式名称は「呉市海事歴史科学館」。開館以来ずっと大盛況で、呉市を一躍観光地に押し上げた立役者じゃ。軍港・鎮守府としての呉の歴史、造船に関する技術、日露戦争から太平洋戦争までの歴史的資料が展示されておるぞ。

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圧巻は1/10スケールの戦艦大和! そのほかにも、ゼロ戦や人間魚雷「回天」などの展示もある。わしはミリオタでないのでぷらっと寄ってぷらっと帰るつもりでおったのじゃが、それは甘かった。じっくり観るなら少なくとも3時間では足りないかも。

雨さえ降っていなければ、周辺をもっと歩きたかったんじゃがな。なお、すぐ近くにある「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」もおすすめじゃよ。掃海や潜水艦のことがよくわかるし、実物の巨大潜水艦「あきしお」の中も見学できるぞ。

大和は世界3大バカ? 無用の長物? 床の間の置物?

戦艦大和は呉海軍工廠で建造された。46センチ砲を搭載した史上最大の戦艦大和は、帝国海軍の秘密兵器になるはずじゃった。

じゃが、大和が登場したのは、海戦の主役が航空機にとってかわられる過度期だった。早くから航空主兵論を唱えた山本五十六は、戦艦を「金持ちの家の床の間の置物」と言ったという。こけおどしくらいにはなるが、もはや実用的な価値はないというのじゃ。

343空で有名な源田実も「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と発言した。真珠湾攻撃の後、いつまでも大艦巨砲主義に凝り固まっていた海軍首脳を批判してのものじゃろう。

じっさい、大和はそのポテンシャルを発揮することなく沈んでしまった。そのため、現代でも大和をピラミッド、万里の長城とともに「世界3大バカ」「無用の長物」と揶揄するむきもある。

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量の不足を卓越せる質で補うより道なし

じゃが、そこまで大和をバカにするのは、さすがにどうかと思うぞ。そもそも大和の建艦計画がスタートした昭和9年(1934)当時は、海軍の主力は航空機ではなく、あくまでも戦艦だったんじゃぞ。

日露戦争、第一次世界大戦を経て、日本は列強に肩を並べるところまできた。アメリカやイギリスはそれが面白くなかった。ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約で、日本の戦艦建造を制限しようとした。

いろいろあって、けっきょく日本はこの条約から抜けた。いつしか帝国海軍の仮想敵国はアメリカになっていた(ちなみに陸軍はソ連)。じゃが、国力で劣る日本はアメリカのように戦艦をたくさんつくることはできない。

ならば、「量の不足を卓越せる質で補うより道なし」と、帝国海軍は考えた。至極まっとうで理にかなっているではないか。そうして、当時の最新技術を結集し、必死になって建造したのが、大和と武蔵というわけじゃよ。

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昭和16年12月16日、開戦からほどなく大和は竣工した。本来は翌年の6月の予定だったが、前倒しで完成させたという。

排水量は世界最大、46センチ砲3基9門を備え、速力はこの規模の戦艦では驚異の27ノットを誇った。防御面でも重要区画には対46cm砲防御を施すなど、まさに「不沈艦」じゃった。

ミュージアムを訪れれば、大和がいかに超弩級で、世界最強の戦艦であったかがよくわかる。

そもそも日本が初めて国産の戦艦をつくったのは明治43年(1930)のこと。つまり、たった30年で世界一の戦艦を自前でつくれる国になったというわけじゃ。この日本人の技術力と気概は、賞賛に値するではないか。

壮大な無駄とか、無用の長物とか、先人たちを悪くいうものではない。世界を驚嘆させる立派な「床の間の置物」を日本人はつくったんじゃからな。

しかし、大和はさいごまで本領を発揮できず

とはいえ、大和はその実力を発揮することなく沈んでしまった。航空機が主役の時代に、戦艦をどう運用するかという研究が不十分だったことは、大和にとって不幸じゃった。

大和の初陣がミッドウェー海戦だったとのも、じつに皮肉じゃ。日本はミッドウェーで空母4隻を失っているが、このとき大和を含む主力部隊は空母機動部隊の500キロメートルも後方にいて、まったく戦闘には加わらなかった。

「航空機で先制攻撃して、艦隊決戦で敵を殲滅する」というのが海軍の基本戦術じゃった。じゃが、もし大和が空母機動部隊とともに行動していたらどうなったか。戦艦は空母より対空能力は強力じゃし、防御力も比べものにならない。武蔵だって沈没するまで20発の魚雷に耐えていたんじゃからな。

軍事にはまったく門外漢なわしの想像じゃが、大和なら空母の「盾」になれたかもしれない。あれほどの惨敗を喫することはなかったかもしれない。

快適だったらしい「大和ホテル」

ガダルカナルの戦いでも、大和と武蔵はトラック島の泊地に居座ったまま出撃しなかった。

なんでも大和の士官室は冷暖房完備。シャワーもあって居住性は快適。食事もおいしく、艦内にはラムネやアイスクリーム工場もあったとか。これでは必死に戦っているの兵から「大和ホテル」と悪口を言わても当然じゃろう。

レイテ沖海戦での栗田艦隊も不可解じゃな。陸上への艦砲攻撃で、主砲の威力を発揮する絶好の機会だったのに、なぜ戦わずしてすごすごと戻ってきたのか。謎である。

ミュージアムでは、大平洋戦争の帰趨を時系列に詳しく展示しているが、史実としてわかってはいることではあっても、ミッドウェー以後は暗澹たる気持ちにさせられる。

昭和20年(1945)4月7日14時23分、大和は沖縄水上特攻に向かう途中、九州坊ノ岬沖で米軍機による3波にわたる航空攻撃を受けて沈没した。この作戦における戦死者は4037人といわれる。

けっきょく帝国海軍は、虎の子の大和や武蔵をうまく使えなかった。じつに勿体無い話じゃ。

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「抑止力」としての大和の可能性

あれほどの超弩級戦艦なんじゃし、大和を「抑止力」として使うべきだったという識者もいる。いま、北朝鮮が核ミサイルをカードに政治的な駆け引きをしているが、それと同じじゃな。

当時、大和型戦艦は最高の軍事機密であった。戦術的な視点からみれば当然じゃろう。じゃが、あえてその存在を公表し、その威力を喧伝し、外交の駆け引き使うことはできなかったのじゃろうか。

たかが戦艦の一隻二隻でどうよ!というなかれ。当時はまだ大艦巨砲の時代じゃからな。立派な「床の間の置物」のおかけで、日米交渉も少しはましな展開になったかもしれない。ひょっとしたら、いきなりハルノートのような最後通牒を突きつけられることは避けられたかもしれぬぞ、知らんけど。

いずれも「もし」の話じゃから、今さら言っても詮無きことではある。そもそも末期には大和を動かす油もなかったわけじゃしな。ただ、5年、いや3年早く大和が完成していたら、やはり歴史は変わったんじゃないかと。

海底に沈む大和や武蔵、犠牲になった方々を思うとのう……

それからおよそ250年後、ガミラスの侵略に滅亡の危機を迎えた地球を救うために、大和は復活する。まあ、この話はここではやめておこう。

ちなみに、JR呉駅の駅メロは「宇宙戦艦ヤマト」だったぞ。

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