先日、「天空の城」「日本のマチュピチュ」として名高い竹田城に行ってきた。縄張りが虎が臥せているように見えることから別名は「虎臥城」。わしも早朝登山で雲海を目指したんじゃが、霧と雲海が出過ぎて眼下に眺めるというより、その真っ只中に入ってしまい、思っていた景色とは随分違っていたけどな。
天空の城・竹田城へのアクセス
竹田城の最寄はJR播但線の竹田駅。竹田駅周辺には立派な旅館もたくさんあるが、質素倹約を旨とするわしは、JR和田山駅のビジネスホテルに宿をとった。また強者は入城OKとなる朝4時から登山を開始するようじゃが、わしのようなヘタレにそれは無理。ただ、和田山駅の始発となる電車で竹田駅に向かっても雲海が出るであろう日の出時刻頃にちょうど到着することができる。
竹田駅付近からの登山道は駅裏登山道と表米神社登山道の2つがある。料金所までの所要時間は表米神社登山道で40分、駅裏登山道で30分とある。どうせなら早い方が良いと思い、わしは駅裏登山道を利用した。じゃが、駅裏登山道は歩道として整備されておるものの、なかなかに険しい。わしが登ったときはすでに日の出の後じゃったからよかったが、暗闇の中で懐中電灯で登るのは危険じゃから絶対にやめたほうがよいぞ。
道中には「料金所まであと◯◯m」という表示が随所に出てくるので頑張って歩く。ちなみに、わしが登ったときは健脚そうな女性が1人、わしを追い抜いていった。おなごに抜かされるのは格好悪いと思って途中まで頑張ったのじゃが、元来インドアでヘタレなわしではどうにもならない。「おはようございまーす」などと挨拶をして先に行ってもらった。ラピュタを歌いながらハイキング気分で、というのは甘かったようじゃ、
途中で休憩をしたが、登山口から30分かからずに料金所に到着。料金所のおじさんに「いちばんたいへんなルートからお疲れ様です」と労われると、朝の爽やかさもあってか清々しい気分になる。そして霧に煙る竹田城の立派な石垣を目にした瞬間、疲労が完全に吹き飛んだぞ。
山名宗全の命により、大田垣氏が竹田城を築く
ところで、竹田城はいつ、誰がつくったのじゃろうか。口碑によると、竹田城は室町時代の永享3年(1431)、山名宗全(持豊)が築城を命じ、嘉吉元年(1441)に完成したとわれておる。山名氏は関東山名荘(群馬県高崎市あたり)の出身で、足利に従って中央に出てきて、山陰地方に勢力をもった。応安5年(1372)には但馬守護に任じられ、京都に近く、東の丹波、南の播磨の国境を接するこの地を抑えておった。
嘉吉元年、播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害する事件が起こる(嘉吉の乱)。このとき山名宗全は赤松追討軍に志願し、一族を動員して播磨の赤松氏を攻めた。その功により宗全が播磨守護になると太田垣光景が守護代に任じられた。
そして光景は竹田城の初代城主となり(大田垣誠朝を初代城主とする説もあり)、赤松残党の掃討戦で活躍。竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点として重要な役割を果たしていたようじゃ。そして竹田城は以後、大田垣氏が7代にわたり城主をつとめることになる。なお、わしは行けなかったが、麓の常光寺には大田垣光景の墓(供養塔)もあるぞ。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、但馬は細川氏と山名氏の争いの場となる。翌応仁2年、細川軍が但馬に侵攻してきたとき、太田垣軍は竹田城から出陣し、夜久野で細川軍を破っている。その後も竹田城は細川氏や赤松氏の脅威にさらされたが、太田垣氏は竹田城を守り抜いている。
木下秀吉による但馬侵攻
竹田城の歴史を大きく揺るがしたのは織田信長と木下藤吉郎秀吉じゃった。戦国時代の永禄12年(1569)、秀吉は織田信長の命に従い但馬に侵攻する。事の次第はこうじゃ。
永禄9年(1566)、毛利元就に滅ぼされた出雲の尼子氏残党が挙兵すると、以前に尼子氏と同盟していた山名祐豊はその支援に動いた。すると元就は信長に但馬への出兵を要請する。背後から脅かしてくれというのじゃな。信長はこれに応じて秀吉軍2万を送り込む。此隅山城にいた山名祐豊は、これによりあっけなく堺に亡命した。じゃが、祐豊は一千貫を信長に献納することで、あらためて但馬復帰を許された。
天正元年(1573)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し、尼子残党軍を破ると、その勢いで但馬に迫ってきた。当時の竹田城主・太田垣輝延は抗しきれずに毛利に降伏。山名祐豊も吉川元春に誓紙を出し同盟を結んでいる。
するとこの直後、今度は丹波の赤鬼こと荻野直正が竹田城に攻め寄せた。祐豊は信長に救援を求め、信長は明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始する。
次第に織田と毛利の関係が悪化してい中、信長は播磨に秀吉を派遣し、天正5年(1577)、秀吉は黒田官兵衛に迎えられて姫路城に入城すると、あっという間に播磨の国衆たちを帰服させていく。
その後、秀吉は上月城に攻め込み、但馬には弟の羽柴秀長軍を進軍させる。織田毛利の全面戦争じゃな。このときの秀長軍の狙いは但馬諸将の制圧と生野銀山の確保であった。竹田城は生野銀山のほど近くであり、秀長軍の最大の攻撃目標とされていた。
羽柴秀長による竹田城攻め
かくして竹田城の戦いが始まった。『武功夜話』には、その戦の様子が記されている。
太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり(『武功夜話』)
『武功夜話』は史料としての信憑性が薄いとされているが、竹田城の戦いは『信長公記』にも記されている。
直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ(『信長公記』)
ちなみに竹田城を落とした秀長はそのまま城代になったらしいが、その後、秀長は信長の命で明智光秀を支援するために丹波へ攻め入った。
このとき、毛利方であった太田垣輝延は隙をついて竹田城に入城しているが天正8年(1580)、再び秀長が但馬攻めを開始すると、輝延はさしたる抵抗もせずに降伏。ここに山名四天王と呼ばれた太田垣氏による竹田城支配は終焉を迎えることになる。
竹田城と斎村政広(赤松広秀)
その後、竹田城には秀長配下の桑山重晴が入るが、やがて龍野城主であった斎村政広(赤松広秀)が城主をつとめている。
斎村政広は播磨龍野城主・赤松政秀の子で、父と兄の死によってわずか8歳で家督を継ぐ。この頃の赤松氏は荒木村重に人質を出すことで織田に服属しており、政広も15歳の時に信長に謁見している。政広は秀吉による播磨侵攻時に龍野城を引き渡し、以後は秀吉の家臣・蜂須賀正勝の与力となる。そして備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参戦し、四国攻めで武功を挙げ、秀吉の直臣として竹田城の城主となる。現在の竹田城も政広が完成させたといわれておるぞ。
じゃが、政広は関ヶ原の戦いで西軍に属し、田辺城を攻めた。その後、西軍敗戦の報せを聞くと亀井茲矩の誘いに乗って西軍に属する宮部継潤が籠る因幡の鳥取城を攻めた鳥取城を攻めた。じゃが、城下に火を放ったことを咎められ、家康の命により切腹させられてしまう。そして竹田城には一時、山名豊国が入城したが、江戸幕府の方針によりやがて廃城となるのじゃ。
そうだ竹田城、行こう
昭和18年(1943)、竹田城は「史蹟名勝天然紀念物保存法」により国の史跡に指定された。そして平成になると第1回全国山城サミットが和田山町で開催され「日本100名城」にも選定されている。
角川映画「天と地と」、高倉健主演映画『あなたへ』のロケ地になったり、GoogleのCMになったりしたことで、いつしか雲海に浮かぶ竹田城は「天空の城」「日本のマチュピチュ」として、多くの観光客が訪れるようになる。現在、年に60万人の観光客が訪れるというから驚きの人気である。じゃが、その一方で、観光客が増えすぎて、色々と問題が起こっているようじゃよ。
さて、わしが登城したときは眼下に雲海を眺めるというよりは、雲海の真っ只中にいるという感じで、想像した景色とは違っていた。じゃが、霧の中に屹立する城の縄張りと石垣は実に見事で、雲海があろうとなかろうと、城オタでなかろうと、十分に楽しめる山城であった。
とはいえ、やはり雲海は一度は見てみたいものじゃ。いちおう、雲海が発生しやすい条件をまとめておこう。
雲海が発生しやすい季節
9月から11月が良いとされている。雲海は円山川から発生する霧によって生じるとのことで、昼の間に温められた空気が夜に冷やされ、川の水温より下がると蒸蒸気が発生し、雲海になるらしい。そういう意味では昼と夜の寒暖差がポイントというわけじゃな
雲海をみられる時間帯
おおむね明け方から午前8時頃までとされている。猛者はかなり早い時間帯から粘るようじゃが、わしのようなヘタレは日の出を目処に行けば十分じゃ。和田山からの始発で竹田駅に到着し、頑張って駅の近くから登山道を登っていくので十分じゃ。ただ、登山中はともかく、現地はけっこう寒いので、防寒対策はしっかりしたいものじゃ。脱ぎ着できる服装で行くと良いぞ。
雲海の発生条件
だいたい次の4つらしい。
1)湿度が高く、放射冷却があること。
2)よく晴れていること
3)前日の日中と早朝の寒暖差が大きいこと
4)風が弱いこと
わしの場合は、7時に現地に到着したが、霧が出過ぎていた。現地のガイドさんが「待っていれば霧が下がってくるから、もう少し待てばよい雲海が観れますよ」と言っていたが、いい塩梅になってきた頃に風が強くなり、あっという間に雲海が消え去ってしまった。
こればかりは運じゃから仕方がない。またいつか、リベンジで訪れようと思うぞ。
雲海を見る場所:立雲峡か、竹田城内か
なお、よく見るこの景色は、竹田城そのものではなく立雲峡ということこからの景色じゃ。雲海を観るとき、お城からみるか、立雲峡から眺めるかがポイントとなる。
わしは、雲海の中の城そのものを攻めたかったので迷うことはなかったが、雲海に浮かぶ「天空の城」の風景を見たい人は夜な夜な立雲峡でスタンバイするらしい。この辺りは好みじゃが、雲海の中の石垣に佇むのは得難い経験であった。初めての人で迷ったら城そのものに向かうことをお勧めしたい。それと、立雲峡はマイカーかタクシーがないと行けないし、土日などで条件が良いであろう日は駐車場があっという間に埋まってしまうらしいから要注意じゃよ。
なお、天空バスが出ていてお土産も買える「山城の郷」のレストランでは、土日祝日のみ朝7時から9時30分に朝食営業をしているらしい。わしが下山した時はすでに閉まっていたが、ここで卵かけご飯の朝食というのも魅力的じゃな。次回はそうしようと思う。