仙台戊辰戦史所縁の地を歩いてみたシリーズその5は旗巻峠。ここは仙台藩と相馬中村藩の境にある要衝で、戊辰戦争で仙台藩最後の戦いとなった地じゃ。新政府軍と壮絶な激戦が展開されたが、けっきょく仙台藩は領内に敵の侵入を許し、藩論は降伏へと傾いていく。
源頼義・義家、伊達政宗が越えた旗巻峠
前九年の役の頃、源頼義・義家父子が安倍貞任を討つため、騎馬に旗を立てたままこの峠を越そうとした。じゃが、森が深く通行を阻まれたため、旗を巻いて通ったという。
天正の頃、このあたりは相馬義胤の所領じゃったが、伊達政宗が初陣のときに大軍を率いて襲い、大沢峠からこの峠、天明に至る稜線をもって藩境に定め、故事にちなん「旗巻」と命名したと伝えられている。
現在の旗巻峠はかつてのそれとは異なる。カーナビでは出てこないので、Googleマップで「旗巻峠古戦場」の位置を確認して、県道228号で宮城県と福島県の県境方面へ向かう。道は細く、すれちがうクルマもほとんどないので、少々心細くなったが、進んでいくと、うっかりすると見逃しそうな案内板が出てくる。さらに細い脇道を抜け、ようやく到着。とりあえず陣屋跡にクルマを止め、当時に想いを馳せながら散策開始じゃ。
まさに背水の陣、旗巻峠の戦い
旗巻峠は相馬中村城を眼科に望見できる要地じゃ。すでに浜街道の駒ケ嶺を抜かれた仙台藩は、背水の陣でこの地の守りを固め、北進する新政府軍を兵2000で迎え撃つ。鮎川太郎平を主将とする十六小隊に からす組の細谷十太夫も参戦。米沢藩、庄内藩から援軍もかけつけた。額兵隊からアームストロング砲を借りてきて備えつけたという話もあり、装備も悪くない。
旧旗巻街道を挟んで、左右に北砲台跡と南砲台跡があった。街道をすすんでくる敵に向けられたものじゃ。
こちらは北砲台跡からの眺め。山下、亘理方面の海岸に配置していた旧式海岸砲を外して運び込み、にわかに配備したという。木々が覆ってしまってはおるが、たしかに見通しがよく、要衝であることがわかる。
これに対して、新政府軍1000は3方面から攻め込む作戦をとった。右翼は長州、中央は館林、左翼は鳥取・広島・御親兵が受け持ち、それぞれに相馬の一小隊が付属していた。単純に兵数だけを比較すれば仙台藩優位じゃが、寡兵をあえて分散して攻めてくる戦法は白河口と同じじゃな。
戦い前夜、仙台藩兵の陣営に、敵がいよいよ旗巻を襲撃してくるとの諜報が入った。『仙台戊辰史』によれば、このとき細谷十太夫は、折からの風雨を利用して夜襲をかけることを進言したとある。機先を制すべく、仙台藩は密かに三小隊を出発させた。
このとき、長州藩兵もまた、同じように仙台藩兵を襲撃しようと計画していた。そのため両軍は意図せずに推木山で出くわし、9月10日未明、決戦の火蓋が切られたのじゃ。
当初戦況は仙台藩優勢で進んだ。さすがに峻険な峠を抜くのは簡単ではない。しかも「ドン五里兵」と呼ばれた仙台藩兵もこの日ばかりは必死の抵抗を見せた。そのため、正面の館林藩兵、右翼の長州藩兵は大いに苦戦した。
じゃが、このとき仙台藩兵は注意を二方面に向けるあまり、敵主力ともいうべき左翼の敵を見逃してしまった。旗巻峠からわずか2キロの羽黒山に陣した鳥取、広島藩兵らは山頂線を前進し、旗巻南方に達すると、一気に旗巻峠へとなだれこんできた。
このとき、仙台藩士・前島勘太夫は槍を奮って敵3人を斃し、11人を負傷させるなど血戦したとある。じゃが、敵の猛攻にもはや支えきることはできず、午前11時頃、仙台藩兵は総崩れとなった。この日の両軍の損害は、新政府軍が戦死者7名に対し、仙台藩は戦死者46名とある。
翌日、仙台藩兵は態勢を整え、旗巻を奪回すべく軍議を開いた。じゃがこのとき、仙台から「これより追撃無之事」との使節が到着する。仙台藩首脳はすでに降伏を決定したのじゃ。
盟主仙台藩、降伏を決める
そもそも仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主ではあったが、戦況が悪化するにつれ、これまで抗戦論であった一門宿老らも、日ごとに降伏論へと変じはじめていた。
じつは旗巻峠の戦いを前に、分家の宇和島藩から降伏謝罪をすすめる使者が到着していた。そして、青葉城では抗戦か、降伏か、評議が開かれることになった。この頃、松島には榎本艦隊が到着しており、松本要人ら主戦派は、その応援を得て徹底抗戦を主張していた。折しも、額兵隊の軍備も整い、主戦派は巻き返しをはかっておった。
じゃが、そんな矢先、旗巻峠の失陥の報が飛び込んでくる。こうなると主戦派の舌鋒はどうしても弱くなる。領内に敵の侵入を許した以上、リアルな危機感が仙台藩首脳を襲う。すでに米沢藩は降伏し、会津藩は出口のみえない籠城戦に突入していた。
かくして、最終結論は、藩主慶邦の裁決に委ねられた。
慶邦は病身で奥に臥せっていたが、家老らが判断を仰ぐと、やむなく降伏を決断したという。ただ、「仙台戊辰史」には、執政の遠藤允信が部下に命じて独断で降伏決定を城下に触れ回らせ、既成事実にしてしまったという話もある。
仙台藩の降伏を知った榎本武揚、土方歳三らは翻意を促すべく登城するが、遠藤ら恭順派はこれを黙殺。榎本艦隊は仙台藩に見切りをつけ、蝦夷へ向かうことになる。また額兵隊の星恂太郎は降伏に納得せず、養賢堂に屯集して反抗するが、慶邦自らの説得により領内での戦いを断念。榎本艦隊に合流して、箱館で戦争を継続する。
以後、主戦派の家老・但木土佐、松本要人、玉虫左太夫らに代わり、恭順派の遠藤允信、大条孫三郎らが藩政をとり仕切っていく。仙台藩は9月13日に降伏の正使を送り、15日に相馬中村城で総督府に降伏謝罪書を提出。これにより仙台藩の戊辰戦争は終了した。
政見の相違のみ。以って瞑すべし
仙台藩は62万石から28万石に減封され、但木土佐、坂英力は戦争首謀者として処刑された。さらに玉虫左太夫と若生文十郎が切腹させられている。
遠藤允信らによる主戦派の粛清は「仙台騒擾」と呼ばれる。これは自分を閑職に追いやった者たちへの意趣返しなのか。藩を守るための苦渋の選択なのか。いずれにせよ、最後まで仙台藩は一枚岩にはなれなかったことは間違いない。
戊辰戦争150年、旗巻峠古戦場に立てられた説明書にはこう記されている。
尊王攘夷、王政復古とこの戦、新生日本の創生をめぐる政見の相違のみ、国民、誰が朝廷に弓引く者あらんや。
はしなくも、妖賊の汚名を受け、この旗巻に眠る精霊よ、ここに百五十周年を迎えるに当たり、この真実は明らかなり。
以って瞑すべし。
旗巻峠の戦いの戦死者は、仙台藩にとって戊辰戦争最後の犠牲となった。ここには細谷十太夫の書による慰霊碑がある。「あと一日の差で…」と思うと、なんとも切なくなってくるではないか。