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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北越戦争の激戦地・榎峠古戦場、朝日山古戦場に行ってきたぞ

長岡探訪備忘録の続き。北越戊辰戦争の激戦地、摂田屋、榎峠古戦場、朝日山古戦場、森立峠など、ぶらぶらしてきたので、その旅日記じゃよ。

榎峠古戦場跡

榎峠古戦場パーク

長岡に迫る西軍

慶応4年(1868)、薩摩・長州を主力とする西軍(新政府軍)は、北陸道鎮撫総督府の山県狂介と黒田了介を指揮官として、長岡にほど近い小千谷へ進駐してきた。

小千谷談判の決裂後、河井継之助は本陣である摂田屋の光福寺に藩士たちを集め、開戦に至った事情を話し、徹底抗戦の決意を表明した。

「我藩一意誠意を表す、薩長の鼠輩、彼れ何物ぞ、漫りに王師の名を假りて我封土を蹂躙し、以て私憤を漏さむとす、今は是非なし、瓦全は意気ある男児の恥づる所、公論を百年の後に俟つて玉砕戦のみ」 

戊辰戦争長岡藩本陣碑

光福寺 戊辰戦争長岡藩本陣碑(新潟県長岡市)

長岡の中心部から南に約4kmの摂田屋には、最新鋭のガトリング砲と洋式武装した藩兵が配備されていた。継之助の演説に、長岡藩士たちは「薩長何するものぞ」という気概で奮い立ったことじゃろう。

ちなみに、北越戊辰戦争開戦のきっかけ、河井継之助と岩村精一郎による小千谷談判決裂についてはこちらの記事を読んでいただければ幸いじゃ。

光福寺(新潟県長岡市)

光福寺(新潟県長岡市)

光福寺のある摂田屋地区は醸造文化が栄えた土地で、現在も「味噌」「醤油」「日本酒」の醸造が行われている。国の登録有形文化財や歴史的建造物も多くゆっくり歩いてみたかったが、時間も限られているので先を急ぐことにする。

榎峠の戦い

じゃが、西軍はすでに長岡城下に肉薄していた。長岡藩はすぐさま奥羽列藩同盟に加盟し、会津・桑名両藩と共同で作戦を練った。

長岡防衛のカギは三国街道の要衝・榎峠である。長岡藩は当初、新政府に対して戦意がないことを示すために兵を出しておらず、榎峠はすでに西軍に占拠されてしまっていた。

榎峠古戦場パーク

現在の榎峠(新潟県長岡市)

現在の榎峠は信濃川沿いに国道17号(三国街道)が通っている。じゃが、かつての三国街道はこの山の上で、かなりの難所であったことが想像できる。ここを西軍に押さえられているのはいかにもまずい。

「一挙に奪るべし」

5月10日午前7時、藩兵は二手に分かれて動き出す。本道からは萩原要人率いる4小隊と会津兵が、間道からは川島億二郎率いる4小隊と桑名兵、旧幕府衝鋒隊が、それぞれ榎峠を目指した。

榎峠古戦場パーク

榎峠古戦場パーク

榎峠を守っていたのは尾張藩と上田藩の1小隊である。東軍の進軍に気づいた西軍は、信濃川の対岸からしきりに砲撃を仕掛けてきた。これにより本道軍は一時苦戦したが、迂回していた間道軍が側面と背後から攻めこみ、榎峠の奪還に成功する。さらに東軍は榎峠の南東にある朝日山の高地も確保した。さすがに継之助がつくりあげた精強な長岡藩軍である。

この頃、柏崎にいた山県狂介が小千谷の本陣に到着した。このとき岩村精一郎以下諸隊長は、のんびりと給仕をはべらせて晩餐中であっ。山県は怒り心頭で岩村の膳を蹴り上げ、一同を強烈に罵倒したという逸話が伝わっているぞ。

朝日山の戦い

朝日山

朝日山

山県は榎峠を攻撃するには朝日山の確保が必要と判断し、準備を進めた。このとき、山県の盟友でともに松下村塾で学んだ時山直八は、奇兵隊を中心にすぐさま朝日山を攻めることを主張した。薩摩長州以外の兵はあてにならないし、東軍の守りが固まる前に攻め込もうというわけじゃな。しかし、山県は兵力の少なさを心配し、援兵を手配しにいったん小千谷に引き上げている。

5月13日の早朝は濃霧であった。約束した山縣の援兵は遅れているようで、まだ来ていない。じゃが、この絶好の戦機を逃してはならないと判断した時山は、奇兵隊200余名で朝日山への攻撃を開始した。

朝日山古戦場記念碑

朝日山古戦場記念碑

朝日山の守備を担っていたのは長岡藩兵、会津藩の鎮将隊、そして桑名藩の雷神隊であった。雷神隊の隊長は後の西南戦争や日露戦争でも活躍した戦上手の立見鑑三郎である。奇兵隊の奇襲に正面からぶつかろうとした長岡藩槍隊の安田多膳を制し、立見は一計を案じた。

安田隊の戦記にはこうある。

十三日と相成候処、東雲朝霧に紛れ、敵二百人計襲来致候處、此方より早く見付、烈敷打懸候得處、敵少しも不畏、薮の中或は峰などより打居、其内に右手の方へ廻り、三四間の處迄進行、既に槍を入れんと致候處、桑名隊長立見鑑三郎と申す人、先暫く御控えあれ、其方隊計槍を御入れあれば味方打有之候間、此儀は相止、私謀計をご覧あれと被申候に付、無據相止待居候處、同人大声にて被申候には、敵十五六人討取、分捕品は不数敷、最早味方十分の勝に候間、今一息防戦と被申候處、敵是を聞き、辟易して鼠の逃げるが如くゾロゾロと引取候を、味方勝鬨を上げ、酒を乍呑逃る敵を追打致し、銃弾薬等を分捕候處、不残元込に候。其外首を取り、懐中をさがし、書付奪取見候處、長州藩と有之候」

朝日山古戦場にあるフランス兵法による塹壕跡

朝日山古戦場にあるフランス兵法による塹壕跡

立見の計略は図に当たった。時山は混乱を収めるべく自ら隊旗を振って督戦した。じゃが、雷神隊の三木重左衛門に狙撃されてあえなく即死。将を失った奇兵隊は戦勢を挽回できぬまま退却していった。

仇守る 峠のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

山県がこの時に吟じた陣中歌である。時山の亡骸をみて、山県はこの戦いの容易ならざることを痛感したことじゃろう。そしてキョロマ岩村を小千谷談判に臨ませたことの軽率を密かに悔やんだかもしれぬな。

朝日山、東軍兵士(新国英之助)の墓

朝日山、東軍兵士(会津藩士・新国英之助)の墓

この戦いでは、東軍にも悲劇が伝えられている。

会津藩白虎隊士、当時16歳の新国英之助は父親とともに見張りを任された。朝方、濃霧の中を敵兵が攻めてくるのに気づいた父親は、山頂に敵兵奇襲の報告に走った。この時、残された英之助は無念の最期を遂げた。

やがて戦が終わると、生き残った父は我が子の冥福を祈るためこの地に墓をつくった。そして33回忌がくるまで毎年墓参に訪れたという。

長岡落城

朝日山古戦場跡

朝日山から眺める長岡方面

東軍が榎峠、朝日山を確保したことにより、以後、戦線は膠着する。両軍は信濃川を挟んで砲戦に終始した。

こうした状況を打開するため、継之助は5月19日をもって長岡藩1大隊半の兵力で信濃川を渡河し、油断している西軍本陣を衝く計画を立てている。じゃが、軍略家というのは同じようなことを考えるらしい。山県もまた三好軍太郎と相談し、信濃川を渡河し、長岡城下を攻める作戦を立てていたのじゃ。

作戦決行は奇しくも同じ5月19日の早朝。わずか半日先んじられたがために長岡軍は完全に虚をつかれてしまう。

長岡市郷土博物館

長岡市郷土博物館

継之助はもちろん、このリスクには気づいていたじゃろう。じゃが、兵力は限られており、重点主義を取らざるを得ない。幸い、このときの信濃川は歴史的な降雨で増水しており、それを頼みにあえて精鋭部隊を榎峠、朝日山方面に送り込んでしまっていた。そのため城下はほぼガラ空きで、わずかに老兵がいるばかりじゃった。継之助は自らガトリング砲を操作して守備にあたるが衆寡敵せず、長岡城はあっけなく落城する。

長岡落城を聞いた榎峠、朝日山方面にいた東軍は、敵の追撃をおそれ、夜陰に紛れて密かに退却したという。

ちなみに現在、長岡城の遺構は跡形もない。明治31年(1898)の鉄道敷設で本丸跡に長岡駅が開業しており、街自体も北越戦争と太平洋戦争で丸焼けになっておるからな。今では城を偲ばせるものは石碑のほか、「城内町」「大手口」などの地名や名称のみである。なんじゃか、もxったいない気がするが、まあ、致し方なかろう。

森立峠から栃尾へ退却

森立峠(新潟県長岡市)

森立峠(新潟県長岡市)

長岡城落城後、河井継之助ら長岡藩士たちは、榎峠方面がら退いてきた精兵を吸収し、東山連峰の森立峠に集結する。

森立峠の御殿場からは、はるかに燃えさかる城下を眺めることができたはず。継之助の胸中はさぞかし無念であったじゃろうが、同時に再起を心に誓ったじゃろう。継之助は藩主一行を会津に逃し、藩兵は捲土重来を期して栃尾方面に退却する。

森立峠は長岡と栃尾を結ぶ主要道で、藩主が栃尾を巡視する時には行列が行き交ったことから「殿様街道」と呼ばれた。はるかに蒲原平野が見渡せ、長岡市街地を見下ろす峠で、そこには「見送り地蔵」(見返り地蔵)が立っている。この地蔵は、どちらの方角から峠にやってきても、人々を見つめているように見えることから、その名がついたらしい。

森立峠の見返り地蔵(見送り地蔵)

森立峠の見返り地蔵(見送り地蔵)

城を失った長岡藩士やその家族も、この優しいお顔の地蔵に見送られるようにして、栃尾へと落ち延びていったんじゃな。

その後、東軍は加茂に拠点を移す。北越戊辰戦争はここから約2ヶ月間、ますます苛烈になっていくのじゃが、それについてはまたあらためて。

司馬遼太郎 『峠』のこと碑文(全文)

司馬遼太郎『峠』文学碑

司馬遼太郎『峠』文学碑

榎峠、朝日山一帯を望む、信濃川にかかる越の大橋のたもとには、「司馬遼太郎『峠』文学碑」があるぞ。碑には小説『峠』の一節と、司馬遼太郎の思いが直筆で刻まれている。これ、司馬さんには謝礼も無しで快諾いただいたと聞いておる。以下、その全文を記す。

江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。

17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。

ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。  

平成5年11月 司馬遼太郎

この碑文から見ると、『峠』というタイトルは「榎峠」からきておるのじゃな。わしはてっきり、継之助の辞世「八十里 腰抜け武士の越す峠」からとったんだと思っておったぞ。

河井継之助

河井継之助

まあ、それは良いとして、以下は余計なことながら。わしは、榎峠や朝日山、慈眼寺、東忠のランチ、八丁沖も含めて、移動手段はレンタカーを利用した。長岡は立派な街じゃが、さりとて公共交通機関やレンタサイクル、テクシー(徒歩)で回るのはしんどいというか無理じゃ。この辺りは鎌倉とは違うぞ。

特に朝日山は道は整備されているものの、歩いて登ることはできるじゃろうが、よほど健脚な人じゃないとおすすめできない。前回行った時はタクシーじゃったが、やはり効率を考えればクルマがベストじゃな。

河井継之助記念館や山本五十六記念館、悠久山も行くのであれば最低1泊、できれば2泊はしたいところじゃ。

河井継之助の聖地巡礼をしたいという方の参考になれば幸いじゃ。

河井継之助のことば

河井継之助のことば

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