だいぶ間が空いてしまったけど、岐阜遠征のこぼれ話。「織田信長岐阜入城・岐阜命名450年」ということなので、試合前に15年ぶりに岐阜城に立ち寄ってみた。JR岐阜駅前では金ピカの信長殿がお出迎えじゃwww
美濃を制するものは天下を制す
美濃の蝮こと斎藤道三は「美濃を制するものは天下を制す」といったとか。たしかに、古来から美濃は交通の要衝で、天下を揺るがすような歴史的舞台として、しばしば登場してきた。
壬申の乱の折、大海人皇子は美濃で東国の軍勢を待ち、大友皇子の近江朝に攻め込んでいる。その後、大海女皇子が本営を構えた地には不破関がおかれ、日本三関のひとつよばれるようになる。
源平合戦では、木曽義仲が鎌倉軍が墨俣を越えて美濃不破関を越えたという知らせ聞いて、ひどく狼狽したという記録がある。あわてて平家との和平工作や後白河法皇の幽閉などを工作したものの、けっきょくは京都を守れず敗死している。
南北朝の動乱では、北畠顕家が奥州軍を率いて京都を目指し、美濃の青野原で足利軍と大激戦を繰り広げている。このとき北条時行も合流して足利軍を破ったものの、最終的に奥州軍は長駆遠征に疲弊。顕家は伊勢に転進し京都奪還は叶わなかった。
そして斎藤道三、織田信長の時代を経て、言わずと知れた天下分け目の関ヶ原。東西20万の軍勢がぶつかった日本史上最大の合戦を制した徳川家康はパックストクガワーナの世をつくりあげた。
近年でも首都機能移転問題が盛り上がったとき、岐阜を含む東濃地域が候補地にあげられていた記憶もある。もういまとなってはどうなっているのか知らんが、いまも昔も美濃国は「日本のへそ」ともいうことじゃな。
そんなふうに岐阜をリスペクトしながら、信長のラッピングバスで岐阜公園へと向かう。
さあ、金華山攻めじゃ!
金華山は長良川の西岸に位置する標高は329mの山で旧名は稲葉山。江戸時代から「天領・お留め山」とされ、入山や伐採が制限されていたため、豊かな自然が今なおのこっており、人口40万の県都のシンボルとして親しまれている。
岐阜城は鎌倉時代初頭、幕府の有力御家人・二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが、そのはじまり。一時廃城となったものの、室町時代の15世紀中頃には、美濃守護代・斎藤氏の居城・稲葉山城となる。そして戦国期、美濃を乗っとったのが戦国の梟雄・斎藤道三というわけじゃ。
司馬遼太郎さんの『国盗物語』では、斎藤道三が油商人から身を起こし、美濃の主人になるまでが描かれているが、近年の研究では、この事績は親子二代に渡るものであったことが解明されている。このあたり、書き出すと長くなるので今日は割愛。
岐阜公園に到着したら、まずは山麓の信長居館跡をチェック。織田信長はもちろん、斎藤道三や義龍、龍興など、岐阜城の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷にあっり、ふだんはここで過ごしていたという。まあ、いつも山頂にいたんじゃ、景色はよいかもしれんが、政務をおこなうにはいささか不便じゃからな。
信長は居館を大規模に拡張したが、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「日本史」の中で、その「宮殿」を「壮麗なもの」として紹介している。まだ発掘調査は続いているが、復元写真をみながら、「ここで信長と帰蝶ちゃんが過ごしていたんだな」などと想像しながら歩くことをお薦めするぞ。
難攻不落、稲葉山城
本来であれば、山道を自分の足で歩いてこその歴ヲタなんじゃろうが、この日のメインはサッカーJリーグなので、金華山ロープーウェイで登山を開始。何人かのベルサポも同乗していたので、軽く目で会釈し、山頂をめざすことに。
ロープーウェイを降りてから、緑と青のタオマフをまいた湘南サポと知れ違うたびに軽く会釈を交わしながら山頂を目指す。ちなみに、山頂にそびえ立つ天守は観光用の模擬天守で、もちろん当時のものではない。池田輝政が岐阜を治めた時代に岐阜城が廃城となり、加納城が築城されるときに二の丸北東隅櫓に「御三階櫓」として移築されていたものを模したものらしい。
山頂への歩道はしっかりと整備されているので、なんということもないが、この城を攻めるとなるとこれはたいへんじゃな、などと思いながら歩いていく。
竹中半兵衛と安藤守就は斎藤龍興を諌めるために、その智謀をもってわずか16人で稲葉山城を半年間占拠したとか。そのまま美濃をとっちゃえばよかったのに、などと思ったが、半兵衛さんも安藤さんもそんなことはしない。とはいえ、さいごは織田についてしまうわけだがな。
また、木下藤吉郎は蜂須賀小六らとともに東の山から密かに登山し、ちょうどこのあたり、二の丸の食料庫に火をかけたという。そのとき、槍の先に千成瓢箪をつけて信長本体に合図をしたことから、以後、秀吉は千成瓢箪を馬印にしたらしい。秀吉の出世話の出発点ともいえるのがこの地というわけじゃ。
「岐阜」命名の由来とは?
織田信長が斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃を制圧したのは永禄10年(1567)のこと。『信長公記』には、このとき「井ノ口」を「岐阜」にあらためたとある。岐阜命名の由来は諸説あるが、やはりこれは沢彦宗恩のアイデアじゃとわしは思う。沢彦宗恩は平手政秀の依頼により吉法師(信長)の学問の師をつとめた僧侶。自刃した平手政秀の菩提を弔うために政秀寺の開山をつとめたのも沢彦じゃ。
沢彦は中国の故事にならい、この地を「岐阜」にあらためるよう進言する。周の文王は「岐山」から起こり、800年の天下泰平をもたらした。孔子は「曲阜」に生まれ、儒学はここを発祥とする。つまり「岐阜」という地名には、天下泰平と学問興隆という願いがこめられているというわけじゃな。
そしてこの時期から信長は「天下布武」の印章を用いるようになる。これは「天下に武を布(し)く」、つまり「武」をもって暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にし、天下に安寧をもたらすという意味じゃ。
このとき、信長の「天下」がどの程度の範囲をさすのかはよくわからない。歴史学者の間では、せいぜい京都を中心とする五畿内程度ではないかといわれており、たぶんそうじゃろうとわしも思う。少なくとも、唐入りなんて大それたことは考えてはいなかったはず。とはいえ、将軍・足利義昭を擁して上洛し、戦国の世に秩序を回復しようという青雲の志に燃えていたことは確かじゃろう。
ここからは濃尾平野を一望。晴れていれば伊勢湾まで見渡せるという。まあ、こんな景色をみておったら、だれでもそういう気分になるかもしれんがな。
関ヶ原前夜、岐阜城の戦い
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦が起こる。当時の岐阜城主は織田秀信。織田信忠の子で、清洲会議で秀吉に担がれた三法師じゃ。秀信は家臣の反対をよそに、石田三成の挙兵に呼応して西軍につく。
秀信は木曽川を渡河する福島正則、池田輝政らに備えて、数箇所に陣を張っていた。じゃが、そのために兵力が分散してしまい、東軍に木曽川の防衛網を破られると、岐阜城に戻り、抵抗を続ける。秀信は大垣城、犬山城からの救援を期待していたが、衆寡敵せず落城。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、池田輝政の説得で降伏。関ヶ原終結後、岐阜13万石は没収され、秀信は高野山へと送られることになる。
ということで、岐阜城の攻防に想いを馳せながら、展望レストランでビールを一杯。そして城下を見下ろて、B級グルメの信長どて丼をいただく。ちなみに「どて」とは、豚のホルモンと牛すじを味噌でコトコトと煮込んだもの。味噌カツか、飛騨牛カレーか悩んだんじゃが、これを選んで正解。ご飯との相性がよく、辛子をつけて食べるとこれまた美味。決戦場である長良川陸上競技場を眼下に眺めながら、ガツガツとかっこんでいく。うまい。幸せ。
まあ、このあと、しばらくはここに来る予定はなし。じゃが、FC岐阜さんがJ1にあがってきたら、またここで信長どて丼を堪能するとしよう。