長崎円喜(高綱)のこと
長崎円喜は北条高時の乳母夫、得宗家執事(内管領)として高時の父・貞時のおぼえめでたく、安達時顕とともに、高時の将来やら、幕府の行く末やらを託された男じゃ。父・貞時の死後、9歳で家督をついだワシに代わって政務をとりしきり、わしが14歳で執権につくと、円喜は内管領の職を息子の高資に譲り、政務を後見する。
「増鏡」には、北条高時と長崎円喜について、こう記されている。
相模守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。
心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ愛しける。
これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。
此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。
世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。
暗愚といわれるのは心外じゃが、わしはたしかに病弱じゃった。そんななわしをよそに思いのまま政務をとりしきる円喜。その専横ぶりはあまり評判はよくなかったようじゃ。じゃが、円喜は北条のため、得宗家のために、御家人たちに嫌われるのも厭わず、よろず取り仕切っていたわけじゃ。後醍醐天皇の当今御謀反のときも、ともすれば優柔不断になるわしに迫り、テキパキと事をすすめてくれたんじゃ。鎌倉最期の日、円喜はわしとともに東勝寺で自刃した。最期までわしを心配してくれたのは、実は円喜だったんじゃよ。<・/p>
長崎高資のこと
長崎高資のこと。こやつはちょっと、いかがなものかと思うぞ。もともと鎌倉幕府の最高機関評定衆だったんじゃが、わしが執権のころには北条得宗家の身内による寄合衆のほうが力をもつようになっておっての。高資は、その両方に専任されていたわけで、その権力は推して知るべし。専横ぶりには御家人たちもかなり不満をもっておったはずじゃが、文句をいえる者はいなかった。わしですら、高資にはものすごく気をつかっていたんじゃからの。そしてその頃、得宗被官で、蝦夷代官をつとめていた安藤家に内紛がおこる。安藤氏の乱じゃ。このとき、高資はなんと当事者双方から賄賂をうけとり、事態を混乱させるんじゃ。結果、蝦夷が反乱を起こしたため、幕府はその鎮圧に相当苦労させられるんじゃ。後醍醐天皇は、これをみて幕府の弱体ぶりを見抜き、倒幕の決意をかためたという説すらあるわけで、ほんとに、とんでもないことをしてくれたもんじゃ。
元亨二年ノ春奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ、彼等ガ先祖安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシ津軽ニ置タリケルガ末也、此両人相論スル事アリ、高資数々賄賂ヲ両方ヨリ取リテ、両方ヘ下知ヲナス、彼等ガ方人ノ夷等合戦ヲス、是ニ依テ関東ヨリ打手ヲ度々下ス、多クノ軍勢亡ヒケレドモ、年ヲ重テ事行ヌ、承久三年ヨリ以来、関東ノ下知スル事少モ人背ク事ナカリキ、賤キ者マデモ御教書ナドヲ対スル事ヲ軽シムル事憚リシニ、高資政道不道ヲ行フニヨリ、武威モ軽ク成、世モ乱レソメテ、人モ背キ始シ基成ケリ、爰ニ懸ル折ヲ得テ、内裏ノ近習月卿雲客、依々主上ヲ勧申ス事アリ
すでにこのとき、幕府は内から崩れつつあったわけじゃ。組織はまさに、内側から腐る。現代の経営者や政治家は、このことを忘れないでほしい。まあ、ワシにいわれたくはないかもしれんがの。