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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

土牢に押し込められた大塔宮・護良親王

鎌倉宮祭神護良親王大塔宮とも呼ばれる。そう、鎌倉幕府討伐に尽力した後醍醐天皇の皇子のことじゃ。

 
鎌倉宮

鎌倉宮

後醍醐天皇の皇子は、みな辛い、悲しい人生を送っている。を引き起こしたご本人の息子だから、それは仕方がないんじゃろうが、護良親王の生涯はなんとも苛烈じゃな。

護良親王は各地に討幕の檄をとばし、楠木正成らとともにゲリラ戦を展開、鎌倉軍を手玉にとる。幕府滅亡後は征夷大将軍に任じられると、早くから足利尊氏建武政権から離反するであろうことを予測し、対抗策を講じる。じゃが、天皇の寵姫 阿野廉子足利尊氏の奸策により、鎌倉に幽閉されてしまうのじゃ。

わしの愛犬の寝ぐらよりひどいぞ、これ。

しかも、こんなとこに1年近く押し込められたうえ、建武2年(1335)、中先代の乱のどさくさの中で、足利直義によって殺害されてしまうのじゃ。御年28歳。

ちなみに、首をはねられた護良親王は、あまりの無念さから、刺客となった渕部義博を睨みつけたまま死んでいったので、義博は宮の首級を、足利直義に差し出すことができず、牢獄近くの竹薮に捨てて逃げ去ったとか。

やがて、時は流れて明治2年2月……明治天皇は非業の最期を遂げた護良親王を讃え、親王終焉のこの地に神社造営の勅命を発する。御自らつけた宮号は「鎌倉宮」。

このあたりは鎌倉でも有数の紅葉の名所じゃが、この日は軽く色づきはじめた程度じゃった。見頃は2−3週間くらいあとか? ちょっと残念じゃな。