吹田スタジアム遠征のときにホテルの近くに高松神明神社があったので参拝してきた。この姉小路釜座御池あたりはかつて源高明の広大な邸宅「高松殿」があったところ。高松神明神社は邸内に天照大神をお迎えしてつくった鎮守の社がそのはじまりとするらしい。
源高明と安和の変
源高明は延喜14年(914)、醍醐天皇の第10皇子として生まれる。臣籍降下して源姓を賜ると、高貴な家柄に加えて、学問もでき、朝議に通じていたことから、参議、中納言、大納言、右大臣、最後は左大臣まで出世した、光源氏のモデルともいわれたお公家さんじゃ。
源氏といえば源頼朝公のように、みんな武士のように思う人もいるようじゃが、こちらは清和天皇の流れをくむ源氏。源性を賜った人は他にもたくさんいて、武家になったのはごく一部なんじゃよ。
康保4年(967)、村上天皇崩御により冷泉天皇が即位する。じゃが、冷泉天皇は病弱で子がなく、つぎの皇位継承者を決めておこうということになる。源高明の娘を妃とする村上天皇の第4皇子・為平親王妃は年長ということもあり、その最有力候補じゃった。なのに豈図らんや、蓋を開ければ弟の守平親王が東宮になってしまい、源高明の落胆はかなりのものじゃったらしい。
そのうえ源高明は、「為平親王を皇位につかせるために冷泉天皇を廃そうとしている」という謀反の嫌疑がかけられてしまう。検非違使に屋敷を取り囲まれると、源高明はろくに弁明もさせてもらえぬまま、太宰員外権帥に左遷がいいわたされ、九州へ流罪となってしまった。これが世に言う「安和の変」じゃ。
為平親王が東宮になると将来、源高明が外戚として力をもつことを憂いた藤原氏の隠謀と断じてよいじゃろう。
しかし、この直後、変の首謀者である右大臣・藤原師尹が急病死。都の人々の間には、源高明の生霊がもたらした禍だと噂が流れる中、高明は罪を許され帰京する。ただ、高明は政界に復帰することなく隠棲し、69歳まで余生をゆるりと過ごしている。
源明子、倫子と藤原道長
安和の変の後、高明の末娘・源明子は叔父の盛明親王の養女となり、その後に藤原道長の2番目の妻となる。「この世をばわが世とぞ思う望月の……」の御堂関白じゃな。ただ、このときの道長は藤原家の四男坊だから、まだまだ大した存在ではなかった。
道長はその前年、源倫子と結婚していたのだが、そのとき、父親の源雅信は倫子を天皇の后にと考えていたため、道長との結婚には難色を示したといわれている。しかし、母穆子が「道長はぜったいに大人物になる!」との強い勧めもあって、倫子は道長と結婚したといわれているから、それなりの器量はみせておったんじゃろう。
源倫子が鷹司殿と呼ばれ、土御門殿で道長とともに暮らしたのに対して、源明子は父の邸宅であった高松殿で道長の来訪を待つ暮らしだったという。まあ、今でいう2号さんということじゃな。
とはいえ、明子も倫子も源氏、まったく引けを取らない高貴な生まれだし、道長との間には4人の男子と2人の女子が生まれたというから、仲睦まじく、幸せな日々を過ごしたのだろう。倫子の子の中宮彰子や嫡子・藤原頼通らと比べてしまうとややパッとしないが、こればかりはしかたがない。
もっとも藤原能信は母ちがいの兄・頼通・教通に反抗的な態度をとり、それが後三条・白河天皇による親政とその後の院政へとつながり、摂関政治衰退を招くことになるのだが、それはまた機会があるときに書こうと思う。
その後、高松殿は焼失したが、久安2年(1146)に再建、久寿2年(1155)には、後白河天皇がここで即位し、以後は里内裏となる。
保元の乱(1156)では、後白河天皇にお味方した源義朝公や平清盛らの軍がここに参集。崇徳上皇や藤原頼長、源為義・為朝、平忠正のいる白河北殿への夜討をしかけ、勝利している。その後、平治の乱で再び焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松神明は、現在も高松神明神社として、地域の人々の守られてきた。
真田幸村の知恵地蔵
ちなみに、この神社にあるお地蔵さんは、真田幸村(信繁)所縁のものらしい。
案内板にはこうある。
寛政6年(1794)紀州九度山の伽藍陀山、真田庵より拝領して参りました。 智将として有名な真田幸村の念持仏でありまして、「幸村の知恵地蔵」として信仰されています。 正面の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かる御徳がございます。
知将・真田幸村にあやかろうというわけか。真田絵馬なるものもあって、大河ドラマ「真田丸」がお好きな方にはよいかもしれんな。