佐渡旅行の帰路に春日山・林泉寺に立ち寄ってきた。林泉寺はご存知、上杉謙信ゆかりの曹洞宗の寺院。上越の歴史をいまに伝える名刹じゃ。この惣門も、春日山城の搦手門から移築したものと伝えられている。
林泉寺と越後長尾氏
林泉寺は、越後守護代長尾重景が諸国を行脚していた曇英慧応に深く帰依し、小さな庵を立てたのがそのはじまり。重景没後の明応6年(1497))、息子の能景は、父の17回忌供養のために曇英慧応を開山に林泉寺を創建、七堂伽藍が落慶した。以後、このお寺は越後国主の菩提寺となる。
長尾氏は坂東八平氏のひとつ長尾氏の支流でもともとは三浦氏の被官。宝治合戦では長尾景茂が三浦泰村とともに北条時頼公と戦い、敗れて本領を没収されているが、孫の景為のときから上杉氏に仕えている。鎌倉幕府が倒れ、南北朝の動乱がはじまると上杉憲顕は足利尊氏の命で越後に進撃。長尾景為の子・景忠はその執事として従軍している。
その後、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、長尾氏は上杉氏との婚姻関係を重ね、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させていく。長尾能景も守護代として越後を統治したが、永正3年(1506)、越中一向一揆との般若野の戦いで討死。長尾氏の家督は息子・為景がつぐこととなる。そう、越後守護、関東管領を自害に追い込み、「天下無二の奸雄」と呼ばれた長尾為景じゃ。為景の代で長尾氏は戦国時代に名乗りを上げたといってよいじゃろう。
天室光育と上杉謙信
享禄3年(1530年)1月21日、この奸雄・為景の末子として生まれたのが虎千代こと長尾景虎、のちの上杉謙信というわけじゃ。虎千代は7歳でこの山門をくぐり、幼少時を林泉寺で過ごしている。一説によると、実父の為景に疎んじられていたとの話もある。
それはともかく、幼い虎千代はここで天室光育に薫陶を受ける。のちに自らを毘沙門天の化身とまで考えた篤い信仰心はこのときに端を発しているのじゃろう。さらに天室光育は、虎千代に仏道や教養の他に兵学を教えていたというから驚きじゃ。虎千代は城の攻城模型を使ったシミュレーションにはまっていたとも伝えられておる。
長尾為景没後の長尾家は、兄・晴景が家督をついでいたが、その性格は温厚で病がちな人物だったという。戦よりも芸事を好んだというから、ひょっとしたらわしみたいなタイプじゃったのかもしれん。じゃが、そんな人間が戦国乱世を往々しく乗り切っていくことは難しい。かくして虎千代は7年間の雌伏の時をこえ、春日山城へ呼び戻される。14歳で元服した虎千代は長尾景虎を名乗る。初陣は栃尾城の戦いで、謀反を起こした越後の国人衆を撃退している。
かくして景虎の名声は上がり、晴景の影はますます薄くなる。当然、兄弟の中は険悪となり争いも起こったが、最終的には越後守護・上杉定実の仲介により、謙信は晴景の養子となって家督をつぐ。ここに「越後の虎」が登場してくるというわけじゃ。
第一義…不識庵謙信の誕生
ところで、謙信は戦の大義名分を重んじた武将といわれる。領土的な野心は持たず、「天下静謐」のため、「義」のない戦はしなかったらしい。武田信玄との「敵に塩を送る」という逸話もそうじゃし、川中島の戦いも村上義清を救うための義戦、小田原北条攻めも関東管領としての義戦。謙信死後に上杉景勝が徳川家康に挑んだのも謙信以来の「義」の精神じゃという。これらがどこまでほんとうかはともかく、上杉家は謙信以来の「義」の家を大いに喧伝。見事な広報戦略じゃ。毘沙門天の化身として「義」のために戦う上杉謙信のイメージはいつも颯爽としておる。演じた役者もGacktとか阿部寛とか柴田恭兵などなど。陰湿な鎌倉北条氏とは正反対で、じつにうらやましい限りじゃな。
謙信は「第一義」という言葉を座右の銘にしたという。林泉寺の山門には「春日山」「第一義」の大額が掲げられているが、これは上杉謙信によるもの(これはレプリカで実物は宝物館に展示してある)。この「第一義」というのはいったい何じゃ? それを知るための謙信の逸話が伝えられている。
あるとき謙信は林泉寺住職の益翁宗謙から、武帝と達磨大師が行った問答について尋ねられた。その問答とは禅の公案としても有名じゃ。
武帝「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧枷を度すこと、勝て紀す可からず。何の功徳有りや」(即位以来、仏道のために尽くしてきたけど、どんなご利益があるんだ?)
達磨「並びに功徳無し」(ご利益なんてないよ)
武帝「何を以て功徳無しや」(なんでご利益がないの?)
達磨「此れ但だ人天の小果にして有漏の因なり。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」(そんなの煩悩の原因をつくっているだけ。大したことじゃないし)
武帝「如何が是れ聖諦の第一義なるや」(じゃあ、仏の教えの最も聖なる大切なものは何なの?)
達磨「廓然無聖なり」(そんなものはないよ)
武帝「朕に対する者は誰ぞ」(じゃあ、私にいろいろ教えてくれているあなたは何者なんだ?)
達磨「不識」(そんなこと知らん!)
達磨大師がなぜ、武帝に「不識」と答えたのかを問いただしたという。謙信は、その意図を考え抜く。そして何かを悟ったのか、剃髪して以後は「不識庵謙信」を名乗り、林泉寺の山門に「第一義」と大書し、それを掲げさせたという。
禅問答を解釈するのも無粋ではあるが、おそらく益翁宗謙は謙信に、武帝のようになってはいかんぞ、といいたかったのではないか。ご利益を求めているようじゃダメだ、自分の名声や見返りを求めているようじゃダメだぞ、と。
ちなみに辞書によれば「第一義」とは、最高の道理であり、究極の真理、もっとも大切な根本義、または価値とある。よくわからんが、わしも宝物館の売店で「第一義」と印刷された奉書紙を購入しておいた。とりあえず寝所に貼っておこうかと。
ということで謙信の墓前へ
天正5年(1577年)12月、謙信は春日山城に戻ると領内に大動員令を発した。遠征の目的は、上洛して織田信長を撃とうとしたものか、関東に再度侵攻しようとしていたものか、それは定かではない。じゃが、出兵直前に謙信は春日山城内の厠で倒れ、天正6年3月13日の未の刻(午後2時)に没する。享年49。死因は脳溢血といわれている。謙信は生涯不犯で淫することを禁じて女性を遠ざけたが、そのぶん大酒のみじゃったらしいから、それが仇になったんじゃろうか。
なお、謙信の遺骸は甲冑を着けた姿で甕に漆で密封され、ここに葬られた。上杉家は後に会津、米沢へと転封となるが、甕もまた移され、明治維新後には歴代藩主が眠る御廟へと埋葬されたらしい。
ここに謙信の遺骨はないのかもしれんが、凛としたこのお寺の空気や苔むす五輪塔をみていると、そんなことはどうでもいいような気がしてくる。林泉寺が謙信にとって精神修養の場であったことを思えば、墓前では自然と身が引き締まるし、春日山城にいったらセットで立ち寄るべきスポットじゃな。
上杉謙信の辞世。
極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
辞世もやっぱり酒かw
なお、今回は春日山城は時間がなかったので訪問しなかった。以前に訪ねたときの記事がこちらにあるので 、ついでに読んでもらえれば幸いじゃ。
林泉寺には長尾能景、為景の墓もあったが、晴景の墓はみつからなかった。やはり兄弟の仲は修復されずじまいじゃったということか。まあ、これはこれでいたしかたないことじゃて。