みちのくひとり旅の備忘録は、弘前から五能線にのってどこどこと秋田へ。佐竹氏の居城・久保田城跡にいってきた。現在は千秋公園として整備され、市民の憩いの場になっておる。桜の名所としても有名じゃが、わしが訪れたときには、残念なからすでに散ってしまっておったがな。
津軽や新発田もそうだが、秋田も戊辰の裏切者といわれる。じゃが、もともと奥羽越列藩同盟は会津庄内の救済を嘆願し、東北に戦禍を及ぼさないための平和同盟だったはず。それがいつの間にか攻守同盟に変質していったわけだからな。しかも秋田には新政府の鎮撫総督軍がきていたから他藩と事情は異なる。そもそも佐竹氏は関ケ原で徳川に恨みこそあれ恩顧なんぞなんもない。じゃから、そのあたりも勘案しないといけないと思うぞ。
関ケ原の後、佐竹義宣が秋田に入封
秋田・仙北地方は戦国時代には秋田(安東)氏、戸沢氏、小野寺氏らが治めていた。じゃが、関ヶ原の後、西軍についた小野寺氏は改易、秋田氏、戸沢氏は東軍についたものの、上杉景勝に攻められた最上義光の救援に積極姿勢をみせなかったため、常陸国へ減転封となる。かわって常陸国から入封してきたのが佐竹義宣じゃ。
佐竹氏は河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の名門。源平の合戦では、はじめ平家に味方したことから不遇をかこったものの、鎌倉幕府が滅んで南北朝の騒乱がはじまると足利尊氏に合力し、室町期には鎌倉府の重鎮として活躍した。その後は戦国大名として常陸国を治め、小田原北条氏や伊達氏と激しく争った。
天正18年、当主・佐竹義宣は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。その後は徳川、前田、島津、毛利、上杉と並ぶ豊臣政権六大将と呼ばれるまでになる。秀吉との間をとりもってくれた石田三成とはたいへん昵懇だった。加藤清正や福島正則らが三成を殺そうと決起したとき、義宣は三成を匿って、女輿に乗せて脱出させ、恩義に報いている。佐竹義宣は律儀な男だった。
義宣もまた徳川家康の天下簒奪を見通していた。関ヶ原の合戦直前には上杉景勝と密約を交わし、家康の会津征伐には協力姿勢をみせなかった。じゃが、西国での石田三成挙兵を知って家康が引き返すと、上杉はそれを追わず割拠の姿勢をみせたため、義宣は家康に釈明の使者を送り、秀忠軍に佐竹義久を遣わした。三成が関ヶ原で敗れると、あらためて家康に謝罪の使者を送り、お家の安泰のために奔走した。
「今の世に義宣ほど律儀な男はいないが、あまりに律儀すぎても困る」…義宣のことを家康はそう評したといわれているが、けっきょく義宣は常陸54万石から秋田20万石へと減転封になり、以後、慢性的な財税難に苦しむことになる。
戊辰戦争での秋田藩の裏切り
そして話は幕末へ。鳥羽伏見の戦いがおこり江戸開城が成ると、新政府は奥羽鎮撫総督を派遣し、東北諸藩へ会津庄内追討を命じた。これに対し奥州諸藩は仙台米沢が主導して奥羽列藩同盟を結成。会津庄内救済に動き出し、秋田藩もこれに参加した。じゃが、奥羽鎮撫総督との交渉は不調に終わり、奥羽列藩同盟と新政府とは全面戦争の様相を呈してくる。これに秋田の藩論は大きく揺れ始めるのじゃ。
もともと秋田は平田篤胤、佐藤信淵が生まれた地でもあり、勤王思想が強い。雷風義塾には平田国学を信奉する者が多く集まり、秋田藩の藩論を左右するほどの勢力をもっていた。しかもこのとき、秋田には仙台から移って来た奥羽鎮撫総督があり、薩摩、長州、佐賀藩兵が少数とはえ駐屯していた。そのため久保田城内では勤王派と同盟派が激しく対立した。
秋田藩にも同盟堅持派はいた。家老の戸村十太夫は白石の列藩会議に参加しており、薩長につくか、同盟諸藩につくか、議論は抜刀騒ぎにもなった。じゃが、薩摩の大山格之助は平田門下生を巧みに焚きつけた。そして最終的には藩主・佐竹義堯が「我に於いて勤王に一決せり」と同盟離脱を決断した。
じゃが、ここで薩摩の大山格之助にそそのかされて、仙台藩の使節を殺害し、城下に梟首したのは、さすがにやりすぎじゃった。この一事がなければ、ここまで秋田藩が悪く言われることはなかったのではないかと。まあ、それはともかく、ここに秋田戦争が始まるというわけじゃ。
こちら、いまは千秋公園となっている久保田城跡に建つ佐竹義堯の銅像。大正4年、勤王秋田を象徴する人物として建立されたが、太平洋戦争時に金属回収のために供出され、台座だけが残ってたらしい。戦後、佐竹家から銅像が寄贈されたものの、市民から「小さな銅像では寂しい」との声が寄せられ、平成元年に復元された。
秋田戦争の詳細は省くが、四面楚歌になった秋田は庄内、南部藩兵に攻め込まれ、藩土の3分の2が兵火にさらされ、人家の4割が焼失するなど、散々じゃったらしい。それでも薩摩、佐賀藩兵の支援もあって、どうにかもちこたえているうちに、米沢、仙台、会津が降伏すると形勢は逆転。官軍として、栄えある維新の勝者として歴史に名を連ねることになるのじゃ。
秋田県民歌 錦旗を護りし戊辰の栄
こうした秋田の栄光ある歴史は当初、「秋田県民歌」として県民の誇りとして歌い継がれていた。
篤胤信淵 巨人の訓
久遠に輝く 北斗と高く
錦旗を護りし戊辰の栄は
矢留の城頭 花とぞ薫る
歴史はかぐわし 誉の秋田
じゃが、この県民歌、今ではこの部分は歌われなくなったらしい。というのも、秋田県には列藩同盟の一員として支藩の亀田藩や旧南部藩領も含まれているため、声高らかに歌うことができない、というわけじゃ。まあ、そりゃあ、そうなるわな。
ちなみに、かつて開催された「戊辰戦争百三十年 in 角館」というイベントでは、白石市長が「奥羽越列藩同盟は秋田の裏切りのせいで負けた」とかまし、秋田市長と一悶着あったらしい。このあたり、南部と津軽の確執と同様、なかなかに根深いのじゃが、まあ、まったくの部外者のわしがここに意見をさしはさむ余地はなさそうじゃ。
なお、津軽と南部の確執については、こちらを読んでいただくとして……
南部と津軽が仲が悪い歴史的な理由を、部外者があらためて整理してみた - 鎌倉ではたらく太守のブログ
秋田藩は戊辰戦の戦費が原因で、莫大な負債をかかえることになる。そこで太政官に50万両の借入を申し出たが、20万両しか借りられず、戦後の論功行賞でもわずかに2万石しか加増されなかったため、藩士は大いに不満をもったらしい。しかも、奥州での戦が終わり、東京へ凱旋した官軍の兵士たちの間には、こんな歌が流行ったという。
花は会津、難儀は越後、ものの哀れは秋田口
会津は賊の巨魁。たしかに会津籠城戦は凄惨をきわめたが、攻めている薩摩や土佐の兵にとっては家財は分捕り三昧、女子も好き勝手にできて、まさにこれぞ戦の花。いっぽう越後口は河井継之助率いる長岡藩の抵抗の前にさんざん手こずり、長州勢ら主力は、花の会津戦線に間に合わず。 それに対して、官軍として決然と立ち上がった秋田藩は勝ったとはいえ藩土は焼かれ、これといった恩恵もなく「裏切り者」のそしりを受ける始末。けっきょく薩摩や長州から見れば、秋田もまた「白河以北一山百文」ということだったんじゃろう。佐竹義堯の銅像にしろ、「秋田県民歌」にしろ、秋田の勤王を讃え、後世に伝えたいという気持ちは、わしにはよくわかる。
ということで、秋田を裏切り者と呼ぶのはもうやめよう。秋田は飯がうまいじゃないか。比内鶏の親子丼とか超絶美味じゃったぞ。ちなみに秋田美人は確認できなかったが、その片鱗はみたことだけは付記しておく。
追記
この度の記録的な豪雨による冠水、土砂災害の被害にあわれたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。