北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

楠木立つ〜木に南と書きたるは楠と云字也。大河ドラマ「太平記」第11回の感想など

鎌倉に六波羅から急報。なんでも六波羅勢が後醍醐帝が立て籠る笠置山の攻撃に失敗したというのじゃ。まったく、時益も仲時も何をやっておるのじゃ。

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喪中の足利への出陣命令

東慶寺のわしと母御前のところへ、長崎高資と二階堂道蘊がやってくる。わしはちょうど、亡くなった足利貞氏殿の御霊を弔うため、手ずから法華経を写して霊前に備えようとしていたところじゃ。

少し前まで犬猿の仲であった母御前と高資も今ではすっかり仲良うなっておる。この変わり身の早さよ。つむりの悪いわしには、なぜこうも器用にできるのかがとんとわからん。

「太守におかれましては写経でございますか。それはようございますな。貞氏殿にはわれらも一方ならぬ温情を受けましたゆえ」
「高資、そちや円喜ほど足利をいじめにいた者はおらん。しらじらしい」
「それはひとえに北条家の御為の思し召されたく……」

白々しい挨拶と前振りの後、高資が此度、笠置へ軍勢督促の名簿を出してきて、わしに承認せよという。中を見ると、大仏貞直をはじめ錚々たるメンバーの中に「足利治部大輔高氏」の名がある。昨夕、お父上を亡くしたばかりで、これから喪に服さねばならぬ足利に出陣を命じるのはさすがに無体ではないか? じゃが、高資は意に返さない。足利はまだ心中をはかり難きゆえ、此度の出陣命令にどう出るのかを見極めると言うのじゃ。

足利に世話になったと言った矢先、舌の根も乾かぬうちにこれじゃ。なんか言ってやろうかと思うたが、母御前も納得のご様子じゃし、そもそもわしの意見など聞き入れる高資ではない。もう、好きにすればよいのじゃ。

さっそく赤橋守時が足利屋敷へ出向いて出陣を命じる。守時もまたかかるときゆえ、足利への出兵要請は躊躇していたが、高氏は鎌倉の大事ゆえとこれを受ける。じゃが、直義はじめ家中の者はあからさまに「憎き北条の嫌がらせ」と口にし、屋敷はたちまち沸点へ。無理もない。喪中なうえに、戦の相手は帝じゃからな。

じっさい、高氏はやる気、戦意がまったくない。それどころか心配顔の登子にとぼけたことを言い出す始末。

「大袈裟じゃのう。わしは兵を出すのはお受けしたが、戦をするとは申しておらん。笠置を見に行くだけじゃ。足利は帝の兵に矢は一本も撃たぬ」

そして9月、高氏は直義、師直らとともに鎌倉を出立する。ちなみに「古典太平記」では、高氏が鎌倉を裏切った理由は、この出兵要請を恨みに思ったからとしている。高氏はじっさいに出兵しているが、もちろんそんなことだけが理由なはずはない。ただ、北条の傲慢を描く「演出」としては効果的といえるじゃろう。

後醍醐天皇霊夢をみる 

さて、笠置山の帝も焦燥感をつのらせていた。反北条の火の手はなかなか上がらず、なんとか持ち堪えてはおるものの、このままでは明らかにジリ貧になるから。

後醍醐天皇が期待しておるのは河内の楠木正成じゃった。じゃが、すでに日野俊基を通じて楠木とは接触しておるし、綸旨を数回送っているが、たものの正成は参陣しない。公家たちは「北条についたのでは?」と騒ぎ出す。

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その夜、後醍醐天皇は夢を見る。童子二人が帝の前に現れ「大樹の南の陰に天子の御座がある」といって消えた。なお「古典太平記」にはこのように記されている。

所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり。其下に三公百官位に依て列坐す。南へ向たる上座に御坐の畳を高く敷、未坐したる人はなし。主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思食て、立せ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上の御前に跪き、涙を袖に掛て、「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是御為に設たる玉座にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申て、童子は遥の天に上り去ぬと御覧じて、御夢はやがて覚にけり。

翌朝、帝は公家たちこの夢告について話す。「木に南と書たるは楠と云字也」「木の南じゃ。『楠』じゃ!」「すぐに勅使を」 。こうまで言われてしまえばやむを得ない。「楠木ごとき悪党に勅使など…」と馬鹿にしていた公家どもも感じ入り、万里小路藤房が勅使となって正成のもとへ遣わされることになる。

帝は夜を徹して正成を口説き落とす作戦を考え続けたんじゃろうか。なかなかよくできた話じゃな。

楠木正成が立つ

この頃、楠木の本拠・水分でも北条方の手により、笠置攻めのための物資調達がはじまっていた。民たちはこれを略奪として正成に訴えるが、笠置攻めの出兵を拒んだ手前、正成にはどうすることもできない。

「もはや笠置でもない、北条でもないは通用しませぬ。しからば御免!」

家臣の神宮寺正房、和田五郎は正成の制止を振り切り、正季とともに兵をあげるべく飛び出していく。  

「行きたい者はみな行けばよい……のう久子。愚かな事じゃ。わずか二百の兵で笠置へ行ってみたところで、みな討たれてしまう。正房も五郎も妻も子もある。どうするつもりじゃ」

久子に問いかける正成。自分に言い聞かせておるかのようじゃ。そしてその刹那、笠置からの勅使がタイミングよくやってくるのじゃ。

「詔である。謹んで承れ」

万里小路藤房は正成に即刻笠置へ馳せ参じるよう命じる。じゃが、正成はこれを受けない。当たり前である。いくら帝の勅であっても、立てば一族を露頭に迷わせることになりかねないからな。

藤房は、あの手この手で正成を説得を試み、引き受けてくれるまではここに居座ると言い張る。そして、問わず語りに後醍醐帝が見た夢告について話し、泣き落としにかかる。じゃが、正成はそう単純ではない。

じゃが、存外単純じゃったのは妻の久子じゃ。最終的に久子は正成に決起を決断させてしまう。正成の館には柿の木があった。久子が嫁いで来たときに植えたものらしい。

「男はこう言われるのじゃ。木を間違っても自分で切らぬようにと。じゃが、男には戦がある。戦は女こどもを巻き込み、木を切らねばならぬ。わしはそれが嫌なのじゃ」
「 殿、木も生き物でございます。家の主人が誉となれば木も誉。主人が沈めば木も沈みます。殿がお嫌でも楠木党は走り出します。帝直々のお召しとは武門の誉、家門の誉、久子の誉にございます。木のためにお迷いなさいますな。木のために迷うなら、いっそ……」

久子は突然、斧を手に取り柿の木を切りつけた。目からは涙がこぼれている。

「久子…長い戦になるぞ…長い戦に。多聞丸を頼む」

うーむ。正成、よいのか? 縁遠くなったとはいえ、そちはもともと北条の被官ではないか。

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「古典太平記」の正成は、天皇のお召しに感極まり、即座に参陣している。これが戦前の「忠臣正成」じゃ。じゃが、実際のところ、事はそんなに単純な話ではない。

たしかに帝に頼みにされるのは誉じゃろう。じゃが、何ら軍事的後ろ盾もなく、自らの皇統を守りたいがため、追い込まれた挙句に挙兵した後醍醐帝に味方するのは、お家の破滅につながりかねない。衰えたりとはいえ、鎌倉幕府はまだ強大じゃからな。

家族と民を預かる正成としては悩んで当然で、この大河でもそこはよく描かれていた。正成のこの苦悩は、戦はしとうない、何事も穏やかをモットーとする得宗高時に通じるものがあると思う。

そもそも歴史を振り返れば、朝廷の御楯となった武門が後に厚く報われた例などほとんどない。それは後醍醐帝の周りにいる公家たちの言動を見れば明らかじゃし、日野俊基万里小路藤房ですら随所に武家を蔑む心底をみてとることができる。足利の小倅にはそれは全くわからんようじゃが正成ならそれも看破していたはず。

それだけに、久子の「柿の木云々」の説得で正成が翻意してしまったのは、いかにも残念でならぬのじゃよ。