すでに2022年のNHK大河ドラマが三谷幸喜さんによる「鎌倉殿の13人」と発表された。久しぶりの鎌倉時代、しかも主役は得宗の祖・北条義時公。わしとしてもうれしい限りじゃが、「ところで13人ってだれ?」という人もいると思うので、今日はそのお話じゃよ。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とは
「鎌倉殿の13人」について、NHKの公式ページにはこうある。
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打ばくちに乗った。 頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。 “飾り” に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿すげ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵かじを取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ。
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。頼朝の天下取りは十三人の家臣団が支えていた。頼朝の死後、彼らは激しい内部抗争を繰り広げるが、その中で最後まで生き残り、遂ついに権力を手中に収めたのが、十三人中もっとも若かった北条義時である。
主演の北条義時公を演じるのは小栗旬さん。かつて「草燃える」では松平健さんが義時公を好演したがどんなドラマになるのか。三谷幸喜さんの大河と言えば、「新選組!」「真田丸」に続く3作目。毎回、小ネタを効かせてくる三谷さんゆえ、どんなふうに「鎌倉」を描いてくれるのか、今から楽しみでしかたがない。
「十三人の合議制」とは
おそらくこのタイトルは「十三人の合議制」に参画した御家人たちということじゃろう。「十三人の合議制」は、源頼朝公の死後にスタートした鎌倉幕府の集団指導体制のことで、後の「評定衆」の原型とされている。
建久10年(1199)正月13日、源頼朝公が急逝すると嫡子・頼家公が18歳で第二代鎌倉殿となる。はじめ頼家公は大江広元らの補佐を受けて政務を行っていたが、評判がよくなかったようで、有力御家人13人による合議に移行することになった。
ちなみに、その13人は以下の通りじゃ。
- 大江広元
朝廷に仕える下級貴族だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、政所初代別当をつとめた。頼朝死後も、北条政子さまや執権・北条義時公と協調して幕政を支えた。 - 三善康信
母が源頼朝の乳母の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、都の情勢を知らせていた。頼朝の挙兵に尽力し、後に幕府の初代問注所執事をつとめる。 - 中原親能
下級貴族だったが、頼朝公とは「年来の知音」であったという。幕府の公文所寄人、政所公事奉行人をつとめるとともに、朝幕間の折衝にもあたり、京都守護とよばれた。 - 二階堂行政
母方に頼朝公の縁があった下級貴族で、代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。二階堂の名は、二階建ての仏堂があった永福寺周辺に邸宅を構えたことに由来する。 - 梶原景時
石橋山の戦いで頼朝公を救ったことから重用された。侍所所司、厩別当をつとめ、源義経を讒訴した人物としても有名。頼朝公の死後は鎌倉を追放され、一族は滅ぼされた。 - 足立遠元
武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族で、遠元から足立を名乗ったとされる。平治の乱で源義朝に従い、源義平率いる17騎の一人として戦った。公文所寄人。 - 安達盛長
頼朝公の乳母の比企尼の長女・丹後内侍を妻とし、頼朝公が伊豆の流人であった頃から従者として仕えた。「曽我物語」によれば、頼朝公と政子さまの間を取り持ったとも。 - 八田知家
下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。保元の乱では源義朝に従い、頼朝公挙兵にも早くから参加した有力御家人。奥州征伐でも功を上げている。 - 比企能員
比企尼の縁から2代将軍・源頼家公の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだことから権勢を強めたが、北条時政公にはめられ一族は滅亡した。 - 北条時政
伊豆国の在地豪族で北条政子さまの父。頼朝公の挙兵を助け、幕府創業に貢献した。頼朝公死後は頼家公を謀殺して初代執権となるが、実朝公を除く陰謀が露見し追放される。 - 北条義時
時政公の次男で政子さまの弟で、頼朝公に家人として仕える。源氏将軍が途絶えると2代執権として幕府の実権を握り、承久の乱では朝廷を制圧し、鎌倉に安寧をもたらす。得宗の祖である。 - 三浦義澄
桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で三浦介義明の次男。平治の乱では源義平に従い参戦。一ノ谷、壇ノ浦の戦い、奥州合戦でも武功をあげた幕府の宿老である。 - 和田義盛
三浦氏の一族として頼朝公の挙兵に参加。数々の武功をあげ、頼朝の信認を受け、初代侍所別当をつとめる。頼朝公没後、北条義時公の挑発にのり挙兵し、鎌倉で討死にした。
「鎌倉殿」とは?
ちなみに「鎌倉殿」という言葉についても少々。「平家物語」では「鎌倉殿」とは頼朝公のことを指しており、一般的に「鎌倉殿」といえば、鎌倉幕府の棟梁のことをいう。そもそも、「幕府」という言葉は江戸中期以降に用いられたもので、当時の人々は「鎌倉幕府」とは呼ばず、「鎌倉殿」と呼んでいたんじゃ。
ちなみに「征夷大将軍」=「鎌倉殿」というわけでもない。もちろん「鎌倉殿」は「征夷大将軍」に任命されるわけじゃが、2代将軍の頼家公も、4代将軍の九条頼経も、「征夷大将軍」に任命される以前から「鎌倉殿」と呼ばれていた。「鎌倉殿」の地位は「日本国惣追捕使」(守護の任免権を持つ)「日本国惣地頭」(地頭の任免権を持つ)に担保されるものではないかという説もある。
ちなみに室町時代は、将軍は「室町殿」、室町殿の分家の鎌倉公方が「鎌倉殿」と呼ばれていたんじゃよ。
なぜ北条氏は将軍にならなかったのか?
ちなみに北条氏が代々就任した「執権」とは何かについても解説しておこう。「執権」とは「鎌倉殿」を補佐し、政務を統括する職務のことじゃ。鎌倉においては、北条時政公が政所別当となったのが「執権」のはじまりじゃが、2代執権となった義時公は和田義盛を滅ぼすと侍所別当を兼任し、政事と軍事両方の長となった。
ついでによく、「なぜ北条氏は将軍にならなかったのか?」という質問がなされるので、これに答えておこう。
よくいわれるのが、北条は伊豆の卑しい在地豪族の出だから武家の棟梁になれる血筋ではないということじゃ。ただ、これはちょっと違う。というのも、北条は伊勢平氏であり、平清盛と同じ貞盛流平氏の出である。血筋はそんなに酷くはない。
しかし、北条はそんなことはまったく望まない。なぜなら、北条が守りたかったのは、あくまでも幕府であり、鎌倉であり、武家政権そのものなのだ。そこが足利高氏や徳川家康とは違うんじゃよ。
鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の御恩と奉公による主従関係で成立している。もちろん北条もまた御家人だ。不幸にして源家将軍は3代で絶えてしまったが、多くの御家人は、これからも鎌倉殿と御家人の体制を守り、平和で穏やかな武家の世を紡ぎたいと考えた。義時公は朝敵にされてしまったが、承久の乱はそれを勝ち取るための戦であった。そして、その勝利の結果、鎌倉(=幕府)は守られたのじゃ。
以後、摂家将軍や親王将軍をお迎えし、義時公の子孫たちは得宗と呼ばれ、代々、鎌倉を守り続けることになるのじゃが、「鎌倉殿の13人」では、そうした連綿と繋がる得宗の「思い」がお茶の間に伝わることを切に願いたい。
鎌倉北条氏というと、なんとなく陰湿なイメージをもたれがちじゃが、三谷幸喜さんがそれを払しょくしてくれることを願っておる。