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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

安達藤九郎盛長のこと~流人時代から源頼朝に仕えた側近

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の7人目は安達盛長のこと。盛長は源頼朝公の伊豆流人時代からの側近で、鎌倉幕府を代々支え続けた安達氏の祖じゃ。

安達盛長座像

安達藤九郎盛長坐像(放光寺所蔵)

源頼朝と北条政子の縁をとりもったのは盛長だった?

安達藤九郎盛長の前半生はどうもはっきりしない。安達氏はいちおう、藤原北家魚名流の末裔で、盛長は藤原遠兼の弟とされる。藤原遠兼の子が足立遠元だから、盛長は遠元の叔父にあたる。そのため、はじめは「足立」を名乗ったともいわれる。ただ、半生の記録に出てくるのは「盛長」「藤九郎」であり、晩年に陸奥国安達郡を拝領してから「安達」を名乗るようになったといわれている。

盛長は源頼朝公との出会いで運命を開いていく。頼朝公が伊豆蛭が小島に流されると、乳母である比企尼と夫・比企掃部允が、そのお世話をした。盛長はふたりの長女・丹後内侍を妻としていたため、その関係から頼朝公の郎党として招かれ、以後、つねに傍近くに仕えるようになる。

『曽我物語』によれば、頼朝公と北条政子さまの縁をとりもったのは盛長だったらしい。はじめ頼朝公は、政子さまの妹に艶書をしたためたが、盛長は政子さまのほうがふさわしいと、勝手に宛名を政子さまに書き替えて届けてしまったというのじゃ。もちろん真偽の程はあやしいが、流人時代の頼朝公と盛長の親しさを垣間見ることができる。また、その後の政子さま、北条と安達との強い関係を思えば、じつに興味深い逸話である。

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源頼朝公の側近「藤九郎」として活躍

治承4年(1180)、頼朝公が挙兵を決断すると、藤九郎盛長は各地の関東武士を糾合する使者を担った。しかし、この役回りは当初、なかなか苦労したようじゃ。

藤九郎盛長申して云く、厳命に従うの趣、先ず相模の国内進奉の輩これ多し。而るに波多野右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え條々の過言を吐くと。(『吾妻鏡』治承4年7月10日の条) 

伊豆の目代・山木兼隆を討ち、石橋山に挙兵した頼朝公じゃったが、三浦党の合流が遅れたこともあり一敗地に塗れ、安房国に逃れる。盛長は頼朝公と行動を共にし、下総国では千葉常胤を説得し、味方につけることに成功する。

盛長千葉より帰参す。申して云く、常胤が門前に至り案内するの処、幾程を経ず、客亭に招請す。常胤兼ねて以て彼の座に在り。子息胤正・胤頼等座の傍らに在り。常胤具に盛長が述べる所を聞くと雖も、暫く発言せず。ただ眠るが如し。而るに件の両息同音に云く、武衛(頼朝)虎牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う。縡の最初にその召し有り。服応 何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献らるべしてえり。常胤が心中、領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。その後盃酒有り。次いで、当時の御居所、指せる要害の地に非ず。また御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。(『吾妻鏡』治承4年9月9日の条)

頼朝公は千葉常胤の進言の通り、鎌倉に進出して東国の支配を固めていくが、その後の盛長は、とくに大きな武功はみられない。ただ『吾妻鏡』には、頼朝公が盛長の屋敷を訪れての椀飯(おうばん)の記録がたびたび出てくる。

武衛(頼朝)御行初め。藤九郎盛長が甘縄の家に渡御す。佐々木の四郎高綱御調度を懸き、御駕の傍らに在り。足利の冠者・北条殿・畠山の次郎重忠・三浦の介義澄・和田の小太郎義盛以下、御後に列すと。(養和2年正月3日の条)

他にも私用でふらっと出かけることも多かったようじゃ。そこでどんな話がなされたのか、その子細はわからない。他愛のない話も少なくなかったじゃろう。しかし、いずれにせよ頼朝公にとって、心から本音で相談できた人物は、流人時代から苦楽を共にした盛長ただ一人だったかもしれない。

いずれにせよ、御恩と奉公による主従関係というより私的な従者といった感じであり、頼朝公にとってはいつまでもかわらぬ「藤九郎」であったのじゃろう。

甘縄神明神社(安達盛長邸跡)

安達盛長邸があったとされる鎌倉・甘縄神明神社

安達景盛は、じつは源頼朝ご落胤?

正室の丹後内侍についてもふれねばなるまい。景長と丹後内侍とのは間には、嫡男の景盛、時長、源範頼室の3人の子がいた。源範頼殿の系譜である『吉見系図』によると、はじめ丹後内侍は京の二条院に仕えて「無双の歌人」と呼ばれ、惟宗広言との間に島津忠久をもうけたとある。その後、東国へ下って景長に再嫁し、頼朝公の近くに招かれたというんじゃな。

ところで、わりと知られている話ではあるが、頼朝公と丹後内侍にはちょっとしたゴシップがある。まず、島津忠久は源頼朝公と丹後内侍の子だというのじゃ。

丹後内侍は頼朝公の寵愛を受けて子どもを身ごもるが、これを知った北条政子さまに妬まれたため、鎌倉を逃れて摂津国住吉大社までたどり着いて忠久を産んだという逸話がある。じっさい、住吉大社の境内には忠久誕生石があり、『島津国史』『島津氏正統系図』も、忠久の出自を丹後内侍の子としている。

もうひとつは、安達景盛は頼朝公のご落胤だという噂じゃ。後年、安達泰盛が平頼綱に滅ぼされ霜月騒動がおこっているが、『保暦間記』はその原因として、泰盛の嫡男・宗景が頼朝の血を引く一族だからと源氏の姓を名乗ったため、頼綱が「将軍になろうとする謀反の意思」として討伐したとの記載がある。

たしかに、頼朝公はかなりの色好みだったといわれるが、本件はいずれも単なる噂であり、『吾妻鏡』や同時代の史料にこれを裏付けるものはない。しかし先にも書いたが、当時、頼朝公は安達の屋敷を頻繁に訪れている。とくに文治2年(1186)6月10日の条では、病になった丹後内侍を密かに頼朝公が見舞ったことを、わざわざ記録に残しているのじゃ。

今日、丹後内侍甘縄の家に於いて病脳す。二品(頼朝)その躰を訪わしめ給わんが為、潛かに彼の所に渡御す。朝光・胤頼の外御共に候すの者無しと。 

なぜ、この程度のどうでもよいことを『吾妻鏡』は記載しているのか。一般的には安達氏の幕府重臣としての正当性を歴史的に喧伝しようしたためと考えられる。しかし、あえて勘繰らせてもらうと、編纂者が頼朝公と丹後内侍の「不適切な関係」を後世に伝えるための臭わせ記事を載せたようにも考えられるではないか。

まあ、鎌倉ゴシップはほどほどにしておいて、丹後内侍を母とする二つの「頼朝公落胤」話は、少なくとも当時の人々が、頼朝公と安達が単なる将軍と御家人の主従関係を超えた親密さを感じていた、ということだけは間違いなく言えるじゃろう。

源頼朝

源頼朝

源頼家との確執、北条政子との蜜月

正治元年(1199)1月、頼朝公が没すると、盛長は出家して蓮西を名乗り、隠居する。そして、2代将軍に頼家公が就任すると、宿老十三人による合議制がしかれるようになり、盛長は入道ながら、そこに名を連ねて幕政に参画する。しかし、ここでとんでもない事件が起こる。

三河国で賊が暴れだしたため、景盛が討伐に向かうことになった。すると、その隙をついて頼家公は、景盛が京都から呼び寄せていた自慢の妾を強引に連れ去り、自分の側室にしてしまったのじゃ。

先ほどの鎌倉ゴシップがほんとうであれば、頼家公にしてみれば、「父と同じことをしただけじゃないか」ということになる。大江広元も「こいういう女性問題はよくあることで、白河院も同じようなことをして臣下を島流しにした」と語ったという。広元は「頼朝公にやられた安達ならよくわかっているでしょ」と言わんばかりじゃ。

それはともかく、景盛が三河から戻ると、期せずして景盛が頼家公に対して妾を取られた恨みをもっているという風聞が流れる。すると頼家公は和田義盛らに景盛成敗の命を下し、鎌倉はなにやらきな臭くなってゆく。

この安達の窮地を救ったのが北条政子さまじゃ。政子さまは急ぎ安達邸に入ると、景盛には叛心がない旨の誓約書を出させ、頼家公に使いを出して、これを諫めた。

政子さまは、「昨日景盛を誅せられんと擬すこと、粗忽の至り、不義甚だしきなり」と断じ、そのうえで「政務はいいかげんで、お馬鹿ばかりの奸臣を傍におき、忠臣を遠ざけて、世を乱している」と頼家公を強く非難した。

幕府にはさまざまな御家人がいるが、その中でも北条、安達、比企は頼朝公とは格別な重臣である。それなのに頼家公は比企ばかりを頼って北条を蔑ろにし、安達にはこの仕打ちである。

比企は頼家公を育てたことから権勢を強めており、政子さまはこのことを強く心配しておったようじゃ。そこでこの事件をきっかけに、北条と安達は強く結びつき、以後代々の蜜月関係をつくっていく。

北条政子

北条政子

正治元年10月24日(1199)、御家人66名による梶原景時弾劾状が出される。安達景長・景盛父子はもちろん名を連ねているが、梶原弾劾強硬派の一人は景盛であった。先の事件で、景時に「将軍に女を寝取られたぐらいでガタガタいうな」と言われたんじゃろうか。ともかく景盛は事件以後、北条とべったりじゃ。梶原景時排斥には北条は直接関与してないといわれているが、案外、景盛が北条の意を呈して動いてたのかもしれぬな。

こうした事件が続く中、景長は正治2年4月26日(1200)に没している。享年66。自身は生涯官職に就くことはなく、「藤九郎」として頼朝公に一身を捧げた人生であった。

北条と供に鎌倉を支え続ける

その後の安達についても少しだけ。頼家公は、北条と与して縁戚の比企を滅ぼし、自分を将軍から追いやった安達を終生敵視したが、あとを継いだ実朝公は北条の庇護下で育ったこともあり、安達に信頼を寄せ、景盛もまた実朝公によく仕えた。

そして景盛は北条とタッグを組むことで、安達の家の興隆に努めた。畠山重忠討伐では先陣を担い、牧氏事件では平賀朝雅を誅殺し、北条のために尽力した。承久の乱での有名な政子さまの演説を代読したのもは景盛である。そして景盛の娘は執権・北条泰時公の長男・時氏へ嫁いでいる。

経時公、時頼公の代でも安達は北条氏外戚として大きな力を持ち、「宝治合戦」では三浦討伐に主導的役割を果たす。

時宗公の代には、安達泰盛が大きな権勢を誇り、蒙古襲来という国難に対処する。そして時宗公没後は幕政改革に積極的に乗り出している。

ただ、それが仇となったのか、得宗専制がすすむ中、御内人筆頭の平頼綱と対立し、「霜月騒動」に敗れて安達嫡流は滅亡する。

じゃが、 生き残った安達諸流はその後すぐに復権する。わし高時の外戚である安達時顕はわしの貢献として、長崎円喜とともに幕政に参与。鎌倉滅亡の日まで、北条を支えていくのじゃ。

安達盛長の屋敷は、現在の甘縄神明神社にあったという。神社の前には、「安達盛長邸址」の石碑がある。ここは、時頼公の母・松下禅尼の生まれた家であり、時宗公の誕生の地である。また、霜月騒動で安達泰盛が攻められ、安達が滅亡した場所でもある。

安達なくして鎌倉幕府はなく、安達なくして北条執権政治はなかったかもしれない。それほど、鎌倉にとって、北条にとって安達の存在は大きく、その礎をつくったのは藤九郎景長であったといってよいじゃろう。

ちなみに、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、安達景長役を野添義弘さんが演じる。朴訥とした芸風は景長にぴったりかもしれぬな。