先日、久しぶりに所用で長岡に行ってきたが、映画「峠 最後のサムライ」も観たことじゃし、小千谷に立ち寄り、河井継之助と岩村精一郎の小千谷談判が行われた慈眼寺にも行ってきた。今回は、小千谷談判がなぜ決裂したのか、河井継之助の真意はどこにあったのかを、旅の備忘録がわりに書き留めておくぞ。
- 大政奉還、鳥羽伏見の戦いと越後長岡藩
- 風雲!越後に迫る西軍
- 河井継之助 vs. 岩村精一郎 小千谷談判
- なぜ、小千谷談判は決裂したのか
- 武装中立? 河井継之助の真意とは
- 河井継之助、開戦を決意〜百年兵を養うは?
大政奉還、鳥羽伏見の戦いと越後長岡藩
慶応3年(1867)10月、徳川慶喜は大政奉還を上表し、幕末の京都は風雲急を告げる。薩摩藩は御所の九門を固めてクーデターを起こして王政復古の大号令を発令。徳川慶喜は辞官納地を迫られた。
徳川だけが官位と領地を返上しなければいけないというのはおかしな話ではある。じゃが、あくまでも武力倒幕をめざす薩摩にとって、そんな理屈はどうでもよいんじゃ。そのことをわかっているだけに、慶喜は激昂する会津桑名の兵を率いて、不測の事態が起こらぬよう大坂へ退いたんじゃ。河井継之助が藩主・牧野忠訓とともに京都に入ったのは、そんなタイミングじゃった。
継之助は藩主名代として御所に参内すると、引き続き徳川に政権を委任するように太政官に建白書を提出した。たかだか7万5000石の小藩が朝幕間を周旋しようと建白したところで、何の役にも立たないであろうことは継之助も承知していたはず。じゃが、徳川譜代の臣としてこの事態を拱手傍観することを潔しとしなかったんじゃな。
結局、この建白は黙殺され、やがて鳥羽・伏見では旧幕府軍と薩長軍の戦闘が始まる。継之助らの長岡藩は大坂警衛の任についた。前線に送られなかったのは寡兵であり、戦力として期待されていなかったからじゃろう。
その後、薩長軍に錦旗が翻ると、なんと慶喜は兵を置き去りにして密かに江戸へ逃げ帰ってしまう。前代未聞の珍事に、継之助ら長岡藩兵もまた急ぎ江戸へ戻る。継之助は藩主を先に長岡へ帰らせると、江戸藩邸を処分し、家宝などを全て売却し金をつくった。そして西洋の最新式の銃やガトリング砲などの兵器を買い込み、海路から箱館を経由して長岡に帰還した。
相場の違いに着目し、江戸で仕入れた米と銅銭を箱館、新潟で売り捌いて莫大な利益を上げたのはこの時のことで、継之助の商才は「三井の番頭」もつとまったじゃろう。
風雲!越後に迫る西軍
薩長による新政府は東征軍を組織し、東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍を開始。北陸道鎮撫総督は高田藩に越後諸藩の集合を命じた。去就が注目されたのは徳川四天王・榊原家の高田藩であったが、早々に恭順を決めた。長岡藩は家老の河井継之助が不在のため、代わりに植田十兵衛を高田に送り込んだ。
このとき、長岡藩は他藩とは異なり、兵士を差し出すよう求められている。植田は長岡は徳川譜代の臣であること、会津藩とは交友が深いことを理由に出兵を拒む。すると西軍は、「ならば軍資金3万両を供出せよ」との代替案を提示してきた。さすがに植田もそれ以上は拒みきれず、藩に戻って相談したいと回答し、猶予を得て長岡に戻った。
長岡藩では恭順か、抗戦か、議論は割れていたが、とりあえず嘆願書を出そうということになった。起草したのは、あの「米百俵」で有名な小林虎三郎じゃ。継之助が帰藩したのはそんなタイミングであった。
継之助は嘆願書も献金も必要なしと断じた。「西軍必ず北下の日、あるべし。此時を待って委曲我藩の苦衷を訴ふるも遅しと為さず」「余は一切の責任を負うて善後の処置を講ずければ、今は強いて応諾を確答するの要なし」
かくしてこの話は立ち消えとなるのじゃが、この時の判断、行動が、後年、継之助を「長岡を焼土にした戦犯」として非難される理由のひとつになっているようじゃ。
継之助は老公・雪堂(牧野忠恭)、藩主・忠訓の信任を得ていたが、一藩の向背については深く蔵して語ることがなかった。じゃが4月17日、諸士を城中に集めると、老公藩主隣席のもと、その胸中を語っている。
今般姦臣天子を挟んで幕府を陥れ、御譜代の諸侯、往々幕を背いて薩長に通す、大いに怪しむに堪へたり。余小藩と雖も、孤城に據りて国中に独立し、存亡唯天に任せ、以て三百年来の主恩に酬ひ、且義藩の嚆矢たらん」(「追考昔誌」)
これが継之助の「独立特行論」「武装中立論」である。こうした言動を恭順派は危険とみた。藩校崇徳館教授の酒井貞蔵は斬奸状をつくり、恭順派の壮士は密かに暗殺計画を企てる動きもあった。そこで継之助は恭順派の拠点となっていた崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門率いる小隊を送り、その動きを封じ込めている。
いっぽうで、継之助は主戦派からも疑われていた。というのも、越後では会津や桑名、旧幕府軍がすでに西軍と戦い始めていた。それは長岡を守るために戦っているようなものであった。痺れを切らした会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡に同盟参加を強く申し入れたが、継之助はそれを断固拒絶している。しかも西軍が藩境に迫ってくると戦意のないことを示すため、要衝の榎峠など南方領地の藩兵を撤退させてしまったのじゃ。
継之助はこの頃、「戦をしてはならんでや」とよく口にしたという。胸中を明かさない継之助に、恭順派も主戦派も疑心暗鬼になり始めていたようじゃ。
河井継之助 vs. 岩村精一郎 小千谷談判
慶応4年5月2日、西軍が小千谷に進出してくると、継之助は尾張藩の仲介を得て、軍目付の二見虎三郎と家僕の松蔵を伴い、談判に赴いた。これが運命の「小千谷談判」じゃ。
はじめ談判の用向きを伝えに西軍の本陣を訪れた花輪彦左衛門は「遇すること極めて厚かりし」であったと語っている。継之助は出発にあたり、「こうして居ってもポッかり遣られて仕舞えばそれ迄なり」と首を撫し、冗談を言うくらい上機嫌であったという。小千谷に赴く道中も、「河井氏であれば下輿には及ばず。一同警護仕るべし」と西軍の兵はとても丁重であったらしい。
しかし、継之助が西軍の陣屋に到着すると、会津兵が片貝方面に攻め込んだという報せが入り、本陣は大騒ぎになる。とても談判どころではなくなってしまい、継之助はやむなく近くの旅籠で待たされることになった。
絶妙のタイミングで会津藩は攻めてきたわけじゃが、じつはこのとき、敗走する会津兵は長岡藩の「五間梯子」の旗印を戦場に遺棄していったという噂がある。事の真偽は定かではないが、いずれにせよこの騒動で西軍の態度が一変してしまう。
談判の仕切り直しとして指定され、継之助が赴いたのは、陣屋ではなく慈眼寺である。西軍側で応じたのは軍艦の岩村精一郎(土佐)の他、長州の杉山荘一と白井小助、薩摩の淵辺直右衛門という4人である。
継之助の談判の口上については、岩村精一郎の談話が伝わっている。
「事変以来今日迄、長岡藩の挙動は不都合の廉甚だ少なからず、出兵、献金、何れも其の命に従はず、誠に謝する所を知らず、併し乍ら弊藩主人に於いては固より恭順して決して異志ある者に非図、只藩内議論自から相分れて一定せず、且つ種々の内情の已むを得ざるあり、然るに會津米澤桑名の諸兵城下に入り来り、薩長は私心を挟める者、真の官軍に非ず、故に抵抗すべしと迫り、若し之を峻拒すれば、忽ち開戦となるべき恐あるを以て已むを得ず直ちに朝命にも応ぜず今日に至りしない、願くば假すに時日を以てせられよ。然れば先ず反論を一定し、又一方には會桑米等の諸般を説得して無事に其の局を結ぶに至らしめん、今直ちに軍兵を進められるるに至りては、忽ち大乱を惹起し、人民塗炭の苦を受くるに至るべく、是れ主人が最も憂慮する所なり、猶主人委曲の心事は、別に書中に認めあり、願くば之を大総督府に取り次がれんことを」(「河井継之助伝」)
じゃが、岩村は嘆願を一蹴した。そもそも長岡藩は当初から新政府の討伐目標とされていた。長岡藩の行動、内情は明らかに佐幕傾向が強く、恭順の姿勢は見られない。岩村はこれを単なる時間稼ぎとみた。
「既に是れ迄、一たびも朝命を奉ぜずして、今更斯かる言訳の相立つべきに非ず、願の趣聞届け難し、命を封する能はざれば、唯兵馬の間に相見るの外なく、嘆願書の如きは固より取り次ぐの必要無し」(「河井継之助伝」)
岩村に、継之助は繰り返し嘆願に及んだ。じゃが、岩村は聞き入れず、裾をとらえて訴える継之助を振り払い、奥に退いてしまう。この間、わずか30分。とりつく島もないとはこのことじゃな。
それでも継之助は諦めきれず、深夜まで本陣の周りで再度の面会を求めたらしい。じゃが、再談判は実現せず、継之助は虚しく小千谷を後にする。かくして談判は決裂し、凄惨な北越戦争が始まるというわけじゃ。
なぜ、小千谷談判は決裂したのか
以上が小千谷談判の様子である。映画「峠 最後のサムライ」でも継之助役の役所広司さんが生意気な岩村役の吉岡秀隆さんに「帰って戦の支度をしろ!」と甲高い声で怒鳴られているシーンに、わしもムカついた。
このように世間一般では、継之助が平和裡に事を収めようとしたのに、キョロマ(長州弁で短慮なダメ男の意)の岩村がぶち壊したことになっている。これについては岩村自身も後年、こう述懐している。
「余此時僅に二十三歳、血気方に盛んに、且つ河井の人物経歴は、今に至りて漸く知る所にして、当時固より之を知らん由もなし。封建時代の常として、各藩の重役は皆藩の門閥家のみ、所謂馬鹿家老に過ぎざるべしと推察したり。河井の人物を知ること今日の如くならば、まだ談判の仕様もありしなるべけれど、右の次第なりしかば、頭掛けに之を斥けて取り合はず、遂に破裂に及びたり」
「今に至りて此を熟考すれば、河井が斯くも繰返して嘆願したるは、或いは真に戦意なかりしにしてもあらんか、去れど当時は勢之を信じざりし。」(「河井継之助伝」)
長州の品川弥二郎は「岩村のような小僧を出したのが誤りじゃ」と述べ、山縣狂介や黒田了介が対応するべきだったとしている。仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督をつとめた四条隆謌も岩村が高飛車な態度をとったから新政府は北越で苦戦を強いられたと述べている。さらに熊本藩の米田虎雄は、岩村が意驕り官軍風を吹かせ継之助を追い詰めたのが問題で、西郷であればこうはならなかったと語っている。
すべては岩村が悪いことになっており、司馬遼太郎の『峠』を読んだわしもキョロマの短慮には憤慨した。じゃが最近わしは、継之助はすでに戦うことを決めて談判に臨んだのではないか、という気がしはじめておるのじゃよ。
武装中立? 河井継之助の真意とは
継之助は江戸で分家の小諸藩・牧野隼之進から今後の相談をされた時に、「政変近きに来るべし。ご分家三家のうち、一家だけは残したきものなり」と語り、小諸藩には朝廷に恭順することを勧めた。そして自身は「今より忠良の臣たらんか、英雄の人たらんか」と戦争をにおわす発言をしているのじゃ。
そもそも継之助は大政奉還後に建白書を提出したものの、以後は一切の外交交渉をしていない。岩村も出兵も献金もしない長岡藩の態度を詰問したが、高田にやってきた新政府を長岡藩は黙殺しているしな。
それどころか継之助は武器を買い込み、会津藩にも武器商人のスネルを紹介するなど、明らかに会津寄りである。江戸から長岡へ戻るときは会津藩家老の梶原平馬や桑名藩主・松平容敬一行と同じ船に乗っており、その行動はどう見ても佐幕的である。また旧幕府陸軍脱走兵の衝鋒隊が新潟にやってくると、古屋佐久左衛門と直接談判して退去させているが、これとて穿った見方をすれば後日の同盟を約したようにすら見えなくもない。
さらに言えば談判に臨んだ継之助の態度である。岩村は「此の時河井は固より嘆願に来たりし者なれども、意気傲然、論詰の語を帯び、気焔揚がり居れり」とその印象を語っている。岩村も尊大だったかもしれないが継之助も尊大。そういうキャラなのは分かるが、それにしたって藩の命運をかけての談判なんじゃから、もっとやりようはあったはずじゃ。わざと怒らせたとまでは言わぬが、少なくとも江戸無血開城に向けて入念に準備して臨んだ勝海舟とは違いすぎる。
そして、気になるのは談判決裂後のこと。あまり知られていないが、長岡を敵にすることは得策ではないと気づいた西軍は、尾張藩を使者として長岡藩に再交渉を求めてきているのじゃ。しかし、継之助はこれを西軍の時間稼ぎと断じて使者を拘束し、ついに戦を始めてしまった。
もちろん、すでに会津桑名を味方に引き入れた後だったということはある。「いまさら遅えよ!」という怒りもあったじゃろう。じゃが、継之助は戦いを回避する最後の機会を無視した事実は、やはり見逃すことはできぬじゃろう。
長岡藩には恭順派もいた。徳川慶喜が恭順しているのに臣である牧野家が戦うのはおかしいという主張じゃ。じゃが、老公忠恭も藩主忠訓も「徳川の冤を雪いでほしい」という思いが強かった。藩士もまた薩長の走狗となって友藩の会津に攻め込むことは潔しとしなかった。継之助ももちろんその思いは同じ。
じゃがしかし!そもそも「長岡が会津を説いて和平に導く」なんて言い分を西軍が認めると、継之助ほどの男が本気で考えていたのじゃろうか。仙台や米沢が説いても会津との和解はならなかった。新政府にとってこの周旋はすでに決着済み。仮に新政府が継之助に調停を任せたとして、破談になったら長岡藩は会津攻めに加わるのじゃろうか。
そうしたことを考えていくと、小千谷談判の決裂は岩村がキョロマであったことはどうでもよくて、継之助はすでに戦う決意を固めていたようにしか思えないのじゃが、いかがじゃろうか。
「薩長の鼠輩、彼れ何物ぞ、漫りに王師の名を假りて我封土を蹂躙し、以て私憤を漏さむとす、今は是非なし、瓦全は意気ある男児の恥づる所、公論を百年の後に俟つて玉砕戦のみ」
いかにも陽明学徒の河井継之助らしい所じゃな。事をおこすにあたり、それが成功するかしないかは第一義ではない。結果がどうかということは問わない。むしろ結果の利益を論ずることは陽明学恥ずるところ。大切なことはその行為そのものが美しいかどうかだけである。継之助はそれだけを考えつめ、開戦を決断したのじゃ。
河井継之助、開戦を決意〜百年兵を養うは?
談判決裂後、継之助は前島村の守備のために駐屯している親友の川島億二郎のもとを訪れ、開戦の決意を伝えた。このとき億二郎は「それはお前の今までの主張と違うではないか。短慮はいけない」と何度も再考求め、反対した。すると継之助はたった一つだけ戦を回避する方法があるとして、「俺の首をとり3万両を添えて西軍に届けよ」と言ったという。それを聞いた億二郎は「お前だけを死地に陥れるわけにはいかない。今は是非なし」と、継之助とともに戦うことに同意したと伝えられている。
この話もいい話ではあるんだが、穿った見方をすれば人がよい億二郎をまんまと懐柔しただけのようにも思ったりもする。億二郎は人望がある。賛同してもらえないとまずいからな。そもそも継之助の芝居がかって首など差し出さなくても家老を辞任させ、その上で3万両を添えて恭順すれば、長岡は無事でいられたのではないか。
もっとも恭順した後は、会津攻めの先兵を言い渡されるのは間違いない。結局、戦いには巻き込まれる。長岡にしてみれば戦うのであれば敵は会津ではなく薩長である。継之助と億二郎は、あるいはそんな話をしたかもしれない。
継之助は西軍と戦いを決意しており、小千谷談判は開戦の大義名分を得るためだった、と考える人は少なくない。わしもなんとなくそんな気がしてきた。継之助は陽明学徒じゃし、武士じゃ。薩長の走狗に成り下がるくらいなら戦いを選ぶのは当然じゃろう。
そういえば……連合艦隊司令長官・山本五十六の逸話を思い出した。山本五十六は長岡出身。戊辰戦争で斬首された長岡藩家老・山本帯刀を再興するために請われて養子に入ったが、山本は継之助を深く尊敬していたらしい。
真珠湾攻撃の前夜、山本は日米交渉の成功に戦争回避のため一縷の望みをつないでいた。そこで「交渉成立の時には、全機直ちに反転してもらいたい」と部下の南雲忠一に述べたという。すると南雲は「一度攻撃に向かったならば、反転は無理です」と反論した。この時、山本五十六は「百年兵を養うは、ただ平和を護らんがためである」と叱ったというのじゃ。
ただ、山本のこの名言は「百年兵を養うは、一日これを用いんがためなり」というふうにも伝わっている。いざという時、ここぞという時に用いるのだという、全く逆の意味でも伝わっている。
継之助は長岡藩を当時の最新兵器で重武装した。当初は「平和を護らんがため」であったことはおそらく確かじゃろう。じゃが、結果としては「一日これを用いんがため」となってしまった。もちろん継之助は軍事の才もあり、西軍は戊辰最大の苦戦を強いられ、長岡武士の意地をみせることはできた。じゃが、最終的に長岡は焦土となってしまう。
司馬遼太郎は「長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった。継之助は、長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした」と記している。他藩のように平凡な門閥家老が藩政を担っていれば、同じ徳川譜代の彦根藩や越後高田藩のように無事に御一新を迎えられたかもしれぬな。
ということで、随分長々と好き勝手なことを書いたゆえ、あの世から河井継之助に「勝手なことを言うな」と怒鳴られそうな気がしてきたので、この辺りでやめておきたい。
、慶応4年8月16日、継之助は戦で左膝下に受けた銃創がもとで、八十里峠を超えて会津に向かう途中、塩沢村(現・福島県只見町)で没した。享年41。遺骨は従僕の松蔵が長岡に持ち帰り、埋葬したそうじゃ。
継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたらしい。河井継之助邸趾に建てられた河井継之助記念館から歩いて数分のところに、現在も継之助は眠っている。忠良院殿が継之助様であります。