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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

二階堂行政のこと~永福寺を造営した政所執事

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の5人目は二階堂行政のこと。行政は代々幕府政所執事をつとめた二階堂氏の祖じゃ。

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人

二階堂行政の生涯

行政の出自

二階堂行政は、藤原南家乙麻呂流・工藤行遠の子。母は源頼朝公の外祖父で熱田神宮大宮司・藤原季範の妹である。生年は不肖じゃが、頼朝公よりは年長であったじゃろう。行政は下級官人として朝廷に仕え、平氏政権下では主計少允に任じられている。

鎌倉に出仕したのは頼朝公との縁によるものじゃろう。『吾妻鏡』に初めて行政が出てくるのは元暦元年8月24日の記述で、「公文所を新造せらる。今日立柱上棟。大夫属入道(三善康信)・主計の允(二階堂行政)等奉行なり」とある。そして同年10月6日の新造公文所の吉書始の記録では、別当・大江(中原)広元の下で寄人として列席している。大江広元や三善康信と同様、貴重な文官として鎌倉に招かれたんじゃな。

行政は奥州藤原征伐にも従軍している。『吾妻鏡』には、藤原泰衡の郎党・由利八郎維平を生け捕りにしたとき、その相論を行政がとり裁いたという記述がある。また、朝廷に差し出す合戦報告書も行政が担当しており、軍奉行として高い実務能力を発揮していた様子がうかがえる。

永福寺の造営奉行として活躍

もともと公家だった行政は初め「藤原(工藤)」の姓を名乗っていた。しかし奥州合戦後、頼朝公が平泉の中尊寺を真似て永福寺の建立を計画すると、行政はその造営奉行をつとめることになり、姓を「二階堂」に改めている。

永福寺は、平家や源義経殿、藤原泰衡ら数万の怨霊をしずめるために建立された寺院。建久3年(1192)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。今は跡形もないが、中尊寺の二階大堂を模したもので、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つだった。当時の鎌倉では二階建ての建物とはたいへん珍しく、この仏堂を人々は「二階堂」と呼んでいた。

行政はこの「二階堂」周辺を拝領し、屋敷を構えていたことから、「二階堂」を名乗るようになったというわけじゃ。

『吾妻鏡』には、永福寺落慶直前の8月24日、頼朝公が工事の監督のために行政邸を訪れたことが記されている。

二階堂の地に始めて池を掘らる。地形本より水木相応の所なり。近国の御家人に仰せて各々三人の疋夫を召すと。将軍家監臨し給う。御帰りの時に及び行政が家に入御す。義澄已下宿老の類一種一瓶を持参すと。

三浦義澄ら宿老たちが酒と肴を持参したとあるから、さぞかし宴は盛り上がったことじゃろう。

永福寺阿弥陀堂復元CG

永福寺阿弥陀堂復元CG(湘南工科大学)

鎌倉幕府の文官として活躍

その後、建久元年(1190)の頼朝公の上洛では、路次の事、貢金、その他全体の雑事を沙汰する諸事奉行人の筆頭に行政の名がみえる。翌建久2年(1191)には大江広元に次ぐ政所令となり、政所別当が複数制になると別当に昇格している。そして、こうした実務能力が評価されたのか、民部大夫に叙せられ、頼朝公のブレーンとしての重責を果たしていくことになるわけじゃ。

頼朝公が没し頼家公が将軍になると、鎌倉では宿老13人による合議制がしかれるが、もちろん、そこには行政も名を連ねている。じゃが、実朝公の時代になると政所下文に行政の署名が出てこなくなる。また、『吾妻鏡』でも息子の二階堂行村・行光の記述が増えてくるので、じょじょに政治の第一線から身を退いていったのであろう。ざんねんながら没年も不明である。

ちなみに、二階堂行政は、京都の抑えとして稲葉山に砦を築いたといわれている。これが斎藤道三や織田信長が拠点とした稲葉山城(岐阜城)のいうわけじゃが、もちろん確実な証拠はない。

政所執事を世襲する家柄として

さて、行政没後の二階堂氏のこと。行政には行村・行光というふたりの子がいたが、行政と同様、北条とともによく鎌倉を支えた。『吾妻鏡』には建保元年(1213)12月19日、実朝公が行光邸を訪れたときの逸話が記されている。

乙巳 雪降る 将軍家山家の景趣を御覧ぜんが為、民部大夫行光が宅に入御す。この次いでを以て行光盃酒を献る。山城判官行村等群参す。和歌・管弦等の御遊宴有り。夜に入り還御す。行光龍蹄(黒い馬)を進すと。

京への憧れが強かった実朝公にとって、二階堂のもてなしはうれしいものであったじゃろう。そして、この話には続きがある。翌日のことである。

今朝、将軍家去夕行光が進す所の馬を御覧ず。而るに紙をその立髪に結い付く。これを召し寄せ披覧するの処、

この雪をわけてこころの君にあれは主しるこまのためしをそひく

此の如くこれを載す。将軍家数反御詠吟を以て、行光が所為優美の由、再三御感に及 ぶ。賢慮に相叶うが故なり。即ち自筆を染め御返歌を遣わさる。好士を撰び、内藤馬 の允知親を以て御使いと為す。

主しれとひきける駒の雪をわけはかしこきあとにかへれとそおもふ

実朝公の行光への返歌は金槐和歌集にも収録されているが、二階堂はさすが文筆の家。坂東の猪武者ではこうした芸当はとても無理じゃな。

永福寺跡

永福寺跡(鎌倉市二階堂)

長男の二階堂行村は京で検非違使となっていたことから「山城判官」と呼ばれ、父とともに鎌倉に赴いてからは、侍所の検断奉行として活躍している。和田合戦では北条方の軍奉行をつとめ、論功行賞にあたっている。その後、建保7年(1219)、実朝公の鶴岡八幡宮拝賀を奉行したが、そこで実朝公が暗殺されると出家。その後も評定衆をつとめるなど、北条執権政治を支えた。なお、行村の子孫はこの後、鎌倉の評定衆や引付衆、京の検非違使などをつとめている。ちなみに、わしによく仕えてくれた政所執事・二階堂道蘊(貞藤)は、行村の系譜じゃよ。

次男の二階堂行光も実務官僚として幕政に貢献した。実朝公が右大臣に就任した後の政所始めでは、北条義時公の次席・政所執事として登場してくる。尼将軍・政子さまの信頼も厚かったようで、実朝公暗殺後には政子の使者として朝廷に赴き、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えるための交渉を担っている。 

ちなみに、二階堂行政は、娘を伊賀朝光に嫁がせている。伊賀朝光は建久元年(1190年)11月の頼朝公の上洛にも供奉した御家人で、その娘は義時公の後妻として嫁いでいる(伊賀の方)。こうしたこともあり、伊賀氏は北条氏外戚として幕府内で重用され、朝光の長男・伊賀光季は京都守護に、次男・光宗は政所執事に就任している。

このとき二階堂氏も北条との縁をさらに深めたと思われる。もっとも伊賀氏は義時公没後、尼将軍・政子さまに警戒されて失脚してしまうが、伊賀光宗の後の政所執事には二階堂行光の子・行盛が就任している。そしてこれ以後、政所執事は二階堂氏の世襲となり、わし高時の代まで幕府重臣として鎌倉を支え続けるのじゃ。

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で二階堂行政を誰が演じるのかはまだ発表されていない。地味な存在ゆえ、もしかしたらちょい役で終わってしまうかもしれない。じゃが、二階堂行政ら京都から赴任してきた文官たちがいなければ、荒くれ者ばかりの鎌倉幕府は早々につぶれていたとしてもおかしくない。大河で行政がどんな活躍をするのか、今から注目しておきたい。