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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

中原親能のこと~公家出身の鎌倉幕府宿老

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく2人目は中原親能じゃ。現時点では、大河で親能を演じる役者は発表されていないが、大江広元の義兄で鎌倉開府の重要人物のひとりじゃから、誰が演じるのかは注目じゃな。

鎌倉殿の13人

頼朝が鎌倉にヘッドハンティング

中原親能は康治2年(1143年)の生まれ。『尊卑分脈』によれば、中原親能は明法博士・中原広季の子とされている。ただ、後白河院の側近で参議・藤原光能を実父とし、母が中原広季の娘だった縁で中原家の養子になったという記録もあり、詳細は不明じゃ。ちなみに、幕府初代政所別当の大江広元は親能の義弟であり、広元が登用されたのは親能の縁によるものじゃろう。

治承4年(1180)12月、権中納言・源雅頼の家人として在京していた親能は、京都を出奔して鎌倉に下向した。これは頼朝公によるヘッドハンティングだった。旗揚げに成功した源頼朝公は、武家の府をつくるために文官を求めており、明経道・明法道に明るい親能はうってつけの人材だったのじゃ。

親能は幼いころ、相模国・波多野義通の弟で足柄上郡大友郷(小田原市東大友)を本拠とする大友四郎経家に養育され、経家の娘を正室に迎えている。

波多野氏は源氏と縁の深い武家。前九年の役では、波多野経範が八幡太郎義家公の父・頼義公の身代わりとなって討死している。嫡孫の波多野義通も源義朝公の信任が厚く、義通の妹と義朝公との間には源朝長殿も生まれている。保元の乱では義朝公の下で戦い、戦後に義朝公の父・為義殿を処刑する嫌な役回りを担った。

頼朝公と親能はすでに面識があったようじゃが、波多野氏の推挙・仲立ちもあったのじゃろう。親能は頼朝公に仕えるようになる。そこには親能自身の野望もあったはずじゃ。というのも、中原氏は学問に明るい家とはいえ、所詮は下級武士である。朝廷内での出世の道もたかが知れている。しかもこの頃は平家がわが世の春を謳歌している。源氏に所縁のある親能はおもしろくなかったであろう。そんな矢先の頼朝公の旗揚げである。親能はそれに人生を懸けたのじゃな。

朝廷と鎌倉の折衝に東奔西走

頼朝公に仕えた親能は東西に奔走する。寿永2年(1183)9月、国衙領・荘園の年貢を滞りなく調達するため、義経殿とともに親能が上洛している。九条兼実はこのときの日記に「次官親能(広季の子)并びに頼朝の弟(九郎)」と親能の名を先に記しており、この頃は親能のほうが京では著名であったことをうかがい知ることができる。

寿永3年(1184年)源範頼殿・義経殿の軍が木曽義仲を破って入京するが、このときも親能は頼朝公の代官として万事を奉行し、公家との交渉に活躍している。

そして、公文所が設置されると別当には義弟の大江(中原)広元が就任し、親能は寄人の一人をつとめている。広元を鎌倉に呼んだのは親能じゃろう。

ところで、親能は文官一辺倒かといえば、そうでもない。平氏追討戦では範頼の参謀として西海を転戦し、文治元年(1185年)には北条義時、小山朝政、小山宗政、加藤景廉、工藤祐経、仁田忠常らとともに頼朝から感状を受けている。また、奥州藤原氏攻めでも武功をあげており、親能は武人としての顔もみせている。

文治元年(1185)、大仏開眼の儀式がおこなわれた折には、後白河法皇を雨の中で介添えし、開眼の儀を終えている。また、木曽義仲に焼かれた「法住寺殿」を修造するとき、親能は大江広元とともに指揮をとり、後白河法皇から剣を下賜されている。

その後もたびたび上洛と下向を繰り返し、朝廷と幕府の折衝役をつとめたことから、やがて親能は京都守護と称されるようになる。

そして長年の功績が認められ、親能は建長6年(1195)に鎮西守護となり、豊後、筑前、肥前、日向、大隅、薩摩などに広範囲の荘園を得ている。頼朝公の信認がいかに大きかったがわかるな。

大倉幕府址碑

大倉幕府址碑

幕府宿老としての晩年

建久10年(1199)、頼朝公が没すると頼家公が2代将軍に就任する。しかし、頼家公の独断は御家人たちの反発を招き、やがて宿老十三人による合議制が執り行われるようになった。このとき、親能もその一人として名を連ねている。

親能の妻は、文治2年(1186年)に誕生した頼朝公の次女・三幡(乙姫)の乳母となった。当初、頼朝公は長女の大姫を後鳥羽院に入内させようとしていたが、大姫が亡くなると今度は三幡を入内させることとし、親能もまた朝廷との折衝をすすめていた。そのかいあって、三幡は女御の称を与えられることとなり、頼朝公は最後の仕上げに三幡を伴って上洛する計画であったが、建久10年1月13日、とつぜん亡くなってしまう。そして同年6月には、三幡が危篤となる。親能は急ぎ京から鎌倉へ駆け戻るが、三幡は30日に亡くなり、遺体は親能の屋敷がある鎌倉亀谷堂の傍らに葬られた。

なお、頼朝公の死も三幡の死も、いずれもとつぜんすぎてさまざまな陰謀論が語られているが、ここではふれるのはやめておこう。『吾妻鏡』には記載がない部分じゃし、大河ドラマで三谷さんがどう描くのかを楽しみに待ちたい。

さて、親能のことじゃが、同日出家して「掃部頭入道寂忍」と名乗った。その後も嫡男の季時とともに京都に滞在していたようじゃが、承元2年12月18日(1209年1月25日)、数え66歳で卒去した。

なお、近江の石山寺(滋賀県大津市)には、親能が平氏追討に向かう途中に先勝祈願をし、毘沙門天を安置したという逸話がある。妻の亀谷禅尼も剃髪後は石山寺に住して宝塔院を建立。大日如来の胎内に頼朝公の髪を収めて、日々勤行したと伝えられている。

中原親能の末裔……摂津氏と大友氏

亀谷周辺にあった中原親能の屋地は、その後、摂津氏と大友氏に分割相続されたようじゃ。親能には嫡子・季時がいたが、他に能直、親実、師員、師俊、親家など、猶子を多く迎えている。

大友氏の祖となったのが能直である。親能の妻と能成の妻が姉妹であることがきっかけで猶子となったようじゃ。大友氏が後世、鎮西(九州)で勢力を伸ばすことができたのは、親能の豊後の所領を相続したからであろう。

じつはこの能直は頼朝公の御落胤だとする説がある。というのも、母の利根局はもともと頼朝公の愛妾で、正室の北条政子殿が嫉妬し、むりやり御家人の近藤能成に嫁がせ、そのあとに能直が生まれたという。それを猶子として引き取ったのが親能じゃ。

これ、頼朝公が大友能直に目をかけていたことを伺わせる逸話もたしかにあるし、ありそうな話ではある。このネタはまたいずれ調査してここに書いてみたいと思うが、大河ドラマでもぜひとりあげてほしいものじゃな。 

ちなみに、摂津氏の祖となったのは師員で、親能の従兄弟・師茂の三男を養子に迎え入れたものじゃ。摂津氏は鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝の内乱も生き残り、室町幕府でも重臣として仕えている。

大河ドラマ「麒麟がくる」で、わしと似たような顔した摂津晴門というのが出てきたじゃろう? あやつにつながるんじゃよ。

摂津晴門(大河ドラマ「麒麟がくる」)

摂津晴門(大河ドラマ「麒麟がくる」)