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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

壱岐の歴史をざっくり解説〜一支国から防人、元寇、文禄・慶長の役、壱岐焼酎まで

壱岐に行きましたーと、ダジャレなどかましてみたが…過日、所用で壱岐・対馬に行ってきたので、その歴史について調べてみた。壱岐・対馬といえば「国生み伝説」の島で、「壱岐守」「対馬守」なんて官職もあるわけじゃが、今ではどちらも長崎県に属しておる。今回はまずは壱岐の歴史について旅の備忘録も兼ねてまとめておくぞ。

九州郵船ヴィーナス2(壱岐、芦辺)

九州郵船ヴィーナス2(壱岐 芦辺)

なお、対馬の歴史と旅の備忘録はこちらにまとめておいたぞ。

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壱岐島へのアクセス

壱岐島は九州と対馬の間に位置する南北17 km・東西14 kmほどの島。わしは博多港から九州郵船のヴィーナス号というジェットフォイルを利用したが、壱岐の芦辺港までの所要時間は約1時間。壱岐には空港もあって、長崎空港からだと30分くらいで着くらしい。壱岐は対馬と同じく九州と朝鮮半島との間にあり、古くから朝鮮半島と九州とを結ぶ交通の中継地の1つとして栄えたというのもうなずける。

ちなみに現地での移動はレンタカーを使った。島はコンパクトで東西南北、どこの史跡名勝にもすぐに行ける距離感じゃった。このあたりは南北にどーんと長くでかい対馬とは違って、多少行き当たりばったりでも旅がしやすい島出会ったぞ。

神話の時代〜国生み伝説、三韓征伐

壱岐は『古事記』に「伊伎島」として登場する。高天原の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が「天の沼矛」で海を掻き回して日本をつくった「国生み伝説」(←超ざっくり)はご存知じゃと思うが、それによると壱岐は淡路島、四国、隠岐島、九州についで5番目にできたことになっておる。

なお、日本の建国神話についてはこちらにも書いたので参考にしてほしいぞ。

そんなわけで壱岐は「天比登都柱(アメノヒトツバシラ)」とも呼ばれ、天地を結ぶ島と言われている。島内には150社以上もの神社があり、島全体がまさにパワースポットなんじゃよ。

月読神社(長崎県壱岐市)

月読神社

こちらの月読神社の御祭神は月讀命。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の間に生まれ、天照大御神、須佐之男命とともに日本三貴神に数えられる神様じゃ。月讀命は月を司どり、夜を統べる神として崇められておる。よく運がいいことを「ツイている」「ツキがある」というが、月讀命はその語源ともされ、運を呼び込む神様というわけじゃな。

『日本書紀』によれば、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が朝鮮半島の任那に赴くときに託宣を受けたことから、朝廷は壱岐の県主である忍見宿禰(おしみのすくね)に命じ、山城国に月読神社(松尾大社の摂社)を分霊したとされている。

もっともこの地は、古来から「山の神」として崇められてはいたものの、託宣があった「月読神社」に比定されたのは江戸時代のことで、結構いい加減じゃったらしい。現代では、託宣があったのは壱岐のここではなく、筥崎八幡神社であったというのが定説じゃよ。

聖母宮(長崎県壱岐市)

聖母宮

勝本にある奈「聖母宮」。勝本の町は、神功皇后が三韓征伐の際にここで風待ちをしたことから、はじめ「風本(かざもと)」と名付られたという。その後、神功皇后は三韓からの帰路に再びここに立ち寄ると、戦勝を祝して「勝本」に改めたという伝承がある。

神功皇后は行宮をこの地に建てたが、その後は長らく放置されていた。しかし夜毎、海から光る物が上がってきたことから、里人はこの地に鏡を奉納し皇后を祀った。それが聖母宮の始まりじゃ。また一説には、皇后は異敵の首を持ち帰りこの地に埋めて社を建てたとも伝わっている。

神功皇后の実在はともかく、この時期、倭国から朝鮮半島へ大規模な軍事侵攻があったことが朝鮮や中国の史料や碑文に記されている。まったくの架空というわけじゃないようじゃな。

なお、近くには神功皇后御乗馬の足跡が残るという馬蹄石もあるぞ。

内海湾と小島神社

内海湾と小島神社

内海湾には神が宿るとされる小島が鎮座しておる。小島神社は干潮時にしか参拝できず、「日本のモン・サン・ミシェル」として人気が高く、五穀豊穣、航海安全、商売繁盛、恋愛成就のパワースポットとして人気じゃ。祭神は須佐之男命。わしも干潮時にここを渡り、日の本の安寧と繁栄を祈ってきたぞ。

弥生時代〜一支国と原の辻遺跡

原の辻遺跡

原の辻遺跡

九州から近い壱岐には、早くから人が住み着いたようじゃ。島内からは旧石器時代後期の痕跡として、ナイフなどの石器が出土しており、ステゴゾン象、ナウマン象、オオツノジカの骨も見つかっている。また、郷ノ浦町には、縄文時代後期と推定される片原触吉ヶ崎遺跡がある。

大陸から稲作が伝わっていた弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと考えられている。そんな中、一つのクニが生まれる。中国の史書『魏志倭人伝』には、邪馬台国の支配下の「一大國」(一支國)が存在したことが記されている。

又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海(玄界灘?)と曰ふ、一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千許りの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食らふに足らず。亦、南北に市糴す。

原の辻遺跡は一支国の中心集落とされている。当時、壱岐は中国大陸、朝鮮半島との交易拠点として栄えていたのじゃろう。小島神社が鎮座する内海湾は、古代船が往来した玄関口であり、一支国は入港した古代船から荷物を小舟に積み替えて、川を利用して王都・原の辻に運んでいた。

また、壱岐には確認されているだけで256基もの古墳がある。この小さな島に当時、強大な権力を持った勢力があったという証左でもある。

一支国博物館

一支国博物館

原の辻遺跡を見渡せる丘の上には一支国博物館がある。王都跡や島内の遺跡に関する資料や出土品を展示しており、原の辻遺跡から出土された国重要文化財「人面石」もみられるぞ。

律令時代〜卜部の輩出、防人と白村江の戦い

大和朝廷の時代になると、この地は令制国として壱岐国となり、国府、国分寺(嶋分寺)が置かれた。

ところで、古代律令国家では、国家の吉凶を占う方法の一つとして亀卜が採用されていた。亀卜とは、カメの甲を焼いて、現れた割れ目をみて吉凶を占うというものじゃ。

日本では、古くからシカの肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)が行われていたが、大陸から亀卜の占法が伝えられ、やがて対馬、壱岐、伊豆(←なぜ?)で盛んに行われるようになったという。

単なる占いという勿れ。当時においては科学の最先端技術であり、亀卜はやがて律令国家体制の天皇祭祀と結びついていったのじゃ。この一族を卜部といい、彼らは神祇官の管理下で仕事をし、人員は対馬から10人、壱岐と伊豆から5人を選ぶという規程があったんじゃよ。

まさに専門技術集団であったわけじゃな。

壱岐、辰の島

天智2年(663年)、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間に戦いが起こった。世にいう「白村江の戦い」である。

この頃、朝鮮半島では新羅が唐と結び、百済と高句麗を滅ぼした。このとき百済の遺臣は日本(倭)に亡命し、復興のためのロビー活動をした。天智天皇はこれにより朝鮮に義勇軍を送るが、白村江で唐・新羅連合軍にコテンパンにやられてしまう。

この敗戦を受けて中大兄皇子は対馬、壱岐、筑紫に防衛体制を敷いた。古代朝鮮式山城や烽を築き、現地には防人を駐屯させた。防人として徴兵された人は東国出身者がほとんどじゃ。防人たちは国司に連れられて難波津(大阪)に集められ、船でに太宰府へ護送された。そこで訓練を受けて実戦配備されたのじゃ。

幸い、唐・新羅は攻めては来なかったが、壱岐には150人ぐらいの防人が駐屯していたとみられている。

唐衣、すそに取りつき泣く子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして

忘らむと 野行き山行きわれ来れど わが父母はわすれせぬかも

わが妻も 絵にかきとらむ暇もが 旅行く我は見つつしのはむ

「万葉集」には防人の歌が収録されている。壱岐の美しい海を眺めながらも、遠く離れた故郷に家族を残して3年もの間、この地に駐屯した東国人を思うと、涙が出そうになるではないか…

平安時代〜女真族・刀伊の入寇

壱岐、片苗湾

刀伊が襲来したとされる壱岐・片苗湾

国防という点で忘れてはいけないのが刀伊の入寇じゃ。寛仁3年(1019)、女真族とみられる「刀伊」が船50隻、3,000人の船団を組んで対馬に来襲した。刀伊は対馬で殺人や放火、略奪を繰り返し、その勢いで壱岐にも押し寄せた。

国司の壱岐守・藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒征伐に向かった。じゃが、多勢に無勢で玉砕し、賊徒は略奪を繰り返しながら壱岐嶋分寺へ向かった。

壱岐国分寺跡

壱岐国分寺跡

嶋分寺の常覚は僧侶や地元住民たちとともに抵抗し、賊徒を3度まで撃退したという。じゃが、最後は猛攻に耐えきれず、僧侶たちは全滅、嶋分寺は陥落した。常覚は島を脱出し、大宰府に急を知らせたが、この時、島民148名が虐殺、女性239人が拉致され、生存者はわずか35名という大惨事であった。

刀伊の賊徒は、片苗湾から侵攻してきたという。この辺りには藤原理忠の顕彰碑と墓があるらしいが、日没のため訪れることができなかったのは心残りである。

ちなみに藤原理忠は地元では「りちゅうさん」として愛されているぞ。

中世・武家の時代〜蒙古襲来と倭寇

文永の役 新城古戦場

文永の役 新城古戦場

鎌倉時代になると、全国に守護地頭が置かれるようになり、壱岐は武藤(少弐)氏が守護となり、現地は守護代が統治した。

鎌倉時代の日の本を震撼させた事件といえば、やはり蒙古襲来(元寇)じゃ。鎌倉も対応におおわらわで、防衛戦争ゆえ十分な恩賞を与えられなかった御家人の不満が高まり、幕府の命脈を縮めたともいわれておる、まさに国難であった。

元・高麗軍は対馬を蹂躙し、文永11年(1274)10月14日、浦海海岸などから壱岐に上陸し、勝本町の各地で戦いとなった。壱岐守護代・平景隆は100余騎で奮戦するも圧倒的兵力差の前に敗れ、景隆は樋詰城(守護代館)で自害した。 

壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし

日蓮は壱岐の惨状をこう伝えている。

新城神社(樋詰城跡)

新城神社(樋詰城跡)

弘安4年(1281)、元は再びやってきた(弘安の役)。このときの襲来は、軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3千500隻に10万の兵を乗せた江南軍の大軍を二手に分けた大規模な進軍であった。

壱岐には5月21日、東路軍が瀬戸浦から上陸し、芦辺町あたりで激戦が繰り広げられた。この戦いで少弐資時は奮戦虚しく壮絶な最期を遂げている。人々は山へ逃れたが、子どもの泣き声で見つかってしまい皆殺しにされ、怯えて泣き止まない子は親の手で殺されたという記録もある。

こうした恐怖は壱岐で何世代にも渡って語り継がれる。親は泣き止まない子どもに「ムクリコクリが来るぞ」と嗜めたという習慣があるそうで、この「ムクリ」は蒙古兵、「コクリ」は高麗兵を指す。拭い去れない島の記憶、じつに「ムゴイ」話である。

少弐資時像

少弐資時像

ちなみに、壱岐に壊滅的な打撃を与えた元の東路軍は、その後、博多湾へ侵攻したが、九州の御家人が築いた石塁に阻まれ上陸することができなかった。鎌倉武士たちは夜陰に紛れて小船で元の軍船に漕ぎ寄せて夜襲を仕掛け、元軍を大いに悩ませた。

そこで壱岐へ退却し、壱岐でを江南軍との合流を図ったが日本軍はこれを追撃。少弐資時の父・経資、祖父・資能は資時の仇討ちに奮戦し元軍に大損害を与えている。

蒙古襲来はかつて教科書では神風によって助けられたと教えていたが、近年では同時代史料により鎌倉武士が実力で撃退したとの見直しが進んでいる。壱岐対馬はその最前線であったんじゃよ。

その後、蒙古襲来を経験した壱岐、対馬、松浦、五島列島の民は、「それならばこっちからもやってやれ!」とばかりに、朝鮮半島や中国沿岸に乗り出し、海賊行為をするようになる。いわゆる「倭寇」じゃ。

ちなみに倭寇には前期と後期がある。前期倭寇は日本の海賊勢力じゃが、後期倭寇は中国人の武装海商である。前期倭寇は室町幕府による日明貿易が活発化する頃には勢力は衰えていくが、倭寇は高麗王朝の滅亡を早めたのは確かで、元寇の報復という結果になったようじゃ。

戦国・江戸時代〜文禄・慶長の役、平戸藩の統治

壱岐にももちろん戦国時代はあった。じゃが、小さな島の中で土豪が争い合う程度で地生えの勢力は育たず、支配者は常に本土からやってきた。最終的に残った日高氏も自立できず、戦国大名・松浦氏に従属し、その家老として明治維新まで壱岐を治めている。

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、壱岐と対馬とともに兵站地としての役割を担う。松浦鎮信は秀吉の命により勝本城を築城。工期約は4ヶ月というスピード築城であったが、秀吉没後には破却されている。家康は朝鮮との国交回復を進めていたから当然じゃろう。

時間の関係でわしは勝本城跡には行けなかったが、近世初頭の陣城遺構として、実に立派な石垣が残っておるそうじゃよ。

勝本城跡

勝本城跡(WikiPediaより)

徳川幕藩体制では、壱岐は平戸藩松浦氏が支配し、家老の日高氏が郷ノ浦に行政府をおいて統治した。壱岐は小さい島じゃが、農耕には適した土地であり、平戸藩の搾取の対象になった。司馬遼太郎さんは「平戸藩は、壱岐を自由自在に料理していたのではないか」と書いている。

平戸の役人の意識のどこかに、壱岐一円など植民地のようなものだという感覚が多少とでもあったのではないか。平戸城下のそばの平戸島農民に対して決してやらなかったことを壱岐に対してはあるいは平然とやったのではないかという感じがある。 司馬遼太郎『街道をゆく 13 壱岐・対馬の道』

江戸初期の年貢は四公六民が一般的だが、平戸藩は壱岐に六公四民を課した。平戸は痩せた土地で農耕には適さない。壱岐から搾るだけ搾ったというのじゃな。

岳ノ辻展望台

岳ノ辻展望台

壱岐を旅していると田中触、牛方触など「○○触」という知名が目につく。これは江戸時代の壱岐では行政単位の名残りで、下々に対する通達「御触」の「触」から来ている。

普通は「村」「字」などが使われるが、「触」という上位下達の語感がある単位を使ってしまうあたりに、司馬遼太郎さんは平戸藩領壱岐の役人意識がどんなものであったのかを想像できるとしている。

ちなみに18世紀の壱岐の米の穫れ高は2万石強、人口3万4千余。平戸藩の表高は6万1千石であり、この小島が藩財政にどれほど重要であったかがわかるではないか。

猿岩

猿岩

明治維新が成ると、壱岐は廃藩置県により平戸県、ついで長崎県に編入された。明治から昭和にかけて、日本は日清、日露、太平洋戦争へと突き進んでいく。本土大陸間の対馬海峡は国防の要衝であり、壱岐にも堡塁砲台が建造されていく(壱岐要塞)。

壱岐の人気観光地である猿岩の近くには「黒崎砲台跡」があるぞ。口径約41㎝、砲身約18m、弾丸の重さ約1トンという東洋一と呼ばれた巨大砲台跡じゃよ。

おまけ:壱岐焼酎のこと

壱岐焼酎

壱岐は海産物を中心に美味いものがたくさんあるが、特産品としてはなんといっても焼酎じゃな。壱岐は穀類作りが盛んで、16世紀頃から麦焼酎作りが始まった「麦焼酎発祥の地」とされている。

WTO世界貿易機関からも「壱岐焼酎」の保護産地指定を受けておる。ウイスキーのスコッチ、ブランデーのコニャック、ワインのボルドーらと同じように「壱岐」が名を連ねておるのじゃから、これはなかなか大したものじゃ。

2013年には「壱岐焼酎による乾杯を推進する条例」が制定されている。この条例では、市は壱岐焼酎による乾杯の推進に必要な措置を講じることとし、事業者の主体的な取り組みと市民の協力を求めている。

今回は平山旅館さんにお世話になったが、温泉にゆっくり浸かり、美味しい海の幸を味わいながら壱岐焼酎のまろやかな味わいを堪能してきたぞ。

ということで観光の備忘録を兼ねて壱岐の歴史をまとめてみたがいかがじゃろうか。コンパクトに神話・古代から近現代までの歴史スポットが島内には点在しており、歴ヲタであれば楽しめること間違いなし。

鎌倉ではみられない風景、感じられない空気。機会があればぜひ訪れてほしいものじゃな。