赤穂浪士の討入、伊賀越の仇討とならんで、日本三大仇討のひとつとされる曾我兄弟の仇討。この事件、たんに曾我兄弟が親の仇を討ったというだけではなく、じつは源頼朝公暗殺を目的としたものであったという説があるようじゃ。
『曾我物語』について
『曾我物語』で知られるこの仇討は、源頼朝公による富士の裾野の巻狩において、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討った事件である。そもそもの発端は伊豆国の伊東祐親と工藤祐経のいざこざじゃ。
京に赴任中、工藤祐経は所領を義理の叔父である伊東祐親に奪われてしまう。怒った祐経は、平重盛に訴えたものの埒があかず、ついに郎党に、祐親とその息子・河津祐泰・の暗殺を命じる。このとき、祐親はあやうく難を免れるのじゃが、祐泰は殺されてしまう。残された祐泰の妻はふたりの息子を連れて相模の曾我祐信に再嫁。その息子が曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟じゃ。
伊東祐親といえば、伊豆に流された源頼朝公の監視役で、娘の八重姫が頼朝公の間に生まれた千鶴丸を殺害した人物じゃ。石橋山で頼朝公が挙兵したときも平家方についたため没落し、最後は頼朝公の御慈悲で生きのびることに堪えられず、自殺に追い込まれている。
いっぽうの工藤祐経は、都に仕えた経験をかわれて頼朝公に御家人として重用される。やがて伊東祐親の所領を継承することになるが、曾我兄弟にとって工藤祐経は父の仇! ふたりは源平の争いとは無関係に、父の仇討ちを虎視眈々とねらっていたというわけじゃよ。
曾我兄弟の仇討ちの黒幕は北条時政?
曾我兄弟は夜、酩酊して女と寝ていた工藤祐経を寝所で討ち取り、見事に父の仇討ちに成功した。その後、兄の祐成は討ちとられているが、弟の時致はなぜか頼朝公の館に押し入ったんじゃ。
曾我時致は、今回の仇討ちに至った無念を頼朝公に述べるつもりだったと釈明した。じっさい、頼朝公は曾我時致の助命を考えたが、それでは工藤祐経の遺児がおさまらないということで、けっきょく時致は斬首されている。ということで、この事件は一件落着のはずなんじゃが……
ところで曽我時致の「時」という字……そう、そうなんじゃよ。時致の烏帽子親はじつは北条時政殿なんじゃよ。
河津祐泰が暗殺されたあと、兄の一萬丸(曾我十郎祐成)は曾我の家督を継いだが、弟の筥王丸(曾我五郎時致)は箱根権現社に稚児として預けられた。
文治3年(1187)、源頼朝公が箱根権現に参拝したとき、箱王丸は随参する工藤祐経を付け狙うが失敗。逆に祐経から諭されたうえ、「赤木柄の短刀」を授けられている。
しかし、箱王丸は仇討ちの心を忘れず、出家を拒否して箱根を抜け出す。そして、伊東祐親の娘が時政殿の前妻であった縁を頼って、北条の庇護をうけてることになる。
北条の下で虎視眈々と父の仇討ちの機会をうかがう時致。それをなだめる時政公。「もう水に流せ。それをいうんなら、頼朝公も爺ちゃんの仇として討たなければならんではないか……」
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そんなわけで、この仇討ち事件の黒幕には時政殿がいて、工藤祐経といっしょに頼朝公の暗殺もそそのかしたのでは? という疑惑がもたれているのじゃ。
じゃが、これはどうじゃろう? この時期、頼朝公が暗殺されて北条にはデメリットこそあれ、メリットはなにもない。この説はありえないじゃろう。
源範頼を担いだ御家人によるクーデターという説も?
この事件で気の毒というか、いちばんの被害者となったのが蒲殿こと源範頼殿。この事件を鎌倉で聞いた蒲殿は、頼朝公の安否を心配する政子殿に「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と見舞いの言葉を送った。じゃが、これがもとで謀反の嫌疑をかけられて、伊豆に流される事件が起きている。
頼朝公と蒲殿の関係は微妙だったという話もある。またこの時期、頼朝公は朝廷にすり寄り、北条ばかりが優遇されていることに相模の武士団の不満が高まっていたともいう。そうしたことから、曾我兄弟の仇討ちの真相は、相模国の御家人が頼朝公と時政殿を暗殺し、蒲殿を担ごうとしたクーデターだったという説があるのじゃ。
富士裾野では相模武士団と北条親派の武力衝突が発生した。じゃが、このクーデターは失敗し、両者は妥協して事件は兄弟の仇討ち事件に美化して真相を隠した。そしてケジメとして大庭景義と岡崎義実はともに出家、後に首謀者の大庭景義は鎌倉を追放されたというわけじゃ。
もちろん蒲殿も伊豆に追放され、やがて殺される。このとき曾我兄弟の同母兄にあたる原小次郎という人物が連座して処刑されている。やはり蒲殿もからんでいたのか、とこうなるわけじゃな。
ということで、曾我事件は私的な仇討ちではなく、じつは政治的な権力闘争が隠されているという見解には、なるほど、とうなずけないこともない。真相はもちろん藪の中じゃし、『吾妻鏡』にそんなことは書くわけにはいかんわな。
常陸国でも不穏な動きが……
ちなみにこの事件では、常陸守護・八田知家も怪しげな動きをしている。仇討のどさくさにまぎれて常陸で権勢を争っていた多気義幹を追い落としてしまったのじゃ。
八田知家は自ら多気氏を攻めると噂を流した。そして仇討ち事件が起こると、頼朝公を助けに富士に向かおうと義幹を誘う。じゃが、義幹は警戒して居城から出てこない。
そこで知家は、鎌倉に戻ってきた頼朝公に多気氏が反逆を企てていると讒言し、義幹は所領を没収され、知家は常陸を手中に収めている。
じつは曾我兄弟が頼朝公を襲った時、常陸国の御家人たちは頼朝公を守らずに早々に逃亡したという。そんなこともあって、頼朝公は常陸国の御家人の粛正に動いたのかもしれない。
また、この事件、じつは頼朝公の了解のもとで八田知家と時政殿が画策して、常陸国武士団の追い落としを図ったという説もあるらしい。そして、常陸国に影響力を持っていた蒲殿一党も粛正されたという。