先日、横須賀をぶらぶらと歩いておったら、坂本龍馬の妻・お龍さんと会ったぞ。そういえばこの日は旧暦で、お龍さんの誕生日なんじゃな。竜馬の妻・楢崎龍は天保12年6月6日(1841年7月23日)の生まれ。幕末最大のヒーローの妻にしては、その晩年は寂しく、悲しい人生だったようじゃな。
お龍の生い立ち
お龍は京都富小路のあたりで、医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として生まれた。実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったという説もある。妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。
楢崎家は長州の士分じゃったが、お龍の曽祖父の代に没落する。それでも父・将作はが青蓮院宮の侍医であったため、一家はそこそこ裕福な暮らしをしていたらしい。じゃが、将作が勤王にかぶれて安政の大獄で捕縛され、それがもとで病死すると、たちまち困窮してしまう。貧乏のあまり、妹の起美と光枝が売り飛ばされることになってしまう。
それ知ったお龍は、大坂に下っていく。そして刃物を懐に男2人を相手に「殺せ殺せ、大阪に殺されに来たぞ!」と啖呵を切り、見事に妹を取り返してきたという逸話が伝わっておる。かなりの豪傑、女丈夫だったんじゃな。
坂本龍馬との出会い
その後、母の貞が土佐の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをすることになったのがきっかけで、お龍は坂本龍馬と出会った。ふたりはとても気が合ったようで、龍馬はお龍を妻とし、姉・乙女に宛てた手紙では、お龍のことを「まことにおもしろき女」と評している。
その後、龍馬は伏見寺田屋のお登勢にお龍を預ける。この時期、お龍は龍馬と歩いていると新選組と出くわし、龍馬が慌てて逃げていった話や、中村半次郎に夜這いされた話、新選組局長・近藤勇がお龍に懸想して櫛や簪を買って来たという話を後年、回顧している。
そして、なんといっても有名なのは慶応2年(1866年)1月22日の寺田屋遭難じゃ。薩長同盟を成立させた龍馬に追手が迫る。入浴中に異変に気付いたお龍は、袷(あわせ)一枚で2階に駆け上がり、龍馬に危機を知らせたという事件じゃな。
龍馬は姉・乙女宛ての手紙に、「お龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」とお感謝の気持を表している。
こうしてみると、いわゆる良妻賢母という感じの女性ではないようじゃ。まあ、龍馬の妻じゃから、ふつうの女子ではおもしろくないしな。
寺田屋遭難で両手指に重傷を負った龍馬は、西郷隆盛の勧めもあって、刀傷治療のために薩摩を旅している。これが日本最初の「ホネー、ムーン」(ハネムーン)、新婚旅行とされているんじゃよ。
龍馬の死と流転
傷がいえた龍馬は第二次長州征伐にあたり、長州藩の求めに応じてユニオン号を指揮して海戦に参加。その後は「新政府綱領八策」を起草し、大政奉還に向けて奔走する。お龍は長崎、下関で龍馬を待つことになったのじゃが、慶応3年(1867)11月15日、龍馬は京都近江屋で暗殺されてしまう。
お龍がそれを聞いたのは12月2日のこと。お龍は髪を切って仏前に添えると、大泣きしたと伝えられている。後年、お龍は龍馬が亡くなった晩に、血だらけの龍馬が夢枕に立っていたと語っている。
龍馬の死後、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入った。じゃが、義兄の権平夫婦とうまくいかず、追い出されてしまう。お龍は後年の回顧談で、権平夫婦が龍馬に下る褒賞金欲しさに自分を苛めて追い出したと恨み事を述べている。ちなみに、乙女姉さんがいけずをしたというふうに世間ではいわれているが、本人によれば、そうでもなかったようじゃよ。
その後、お龍は妹・起美の嫁ぎ先の千屋家の世話になる。起美は、生前の龍馬の遺志により海援隊士・菅野覚兵衛(千屋寅之助)に嫁いでいたので、その縁を頼ったというわけじゃ。
じゃが、覚兵衛が米国留学することになると、そこに居座ることもできず、土佐を出ることになる。このとき、お龍は龍馬にもらった手紙は二人だけのものだからと、すべて燃やすよう依頼したという。
土佐を出たお龍は寺田屋お登勢を頼って京都へ行く。龍馬の墓所近くに庵を結んで墓守をしながら暮らしていたが、やがて東京へと出てくることになる。
お龍は評判が悪かった?
お龍は東京で西郷隆盛を頼った。西郷は金20円を援助したが、征韓論に敗れて下野すると薩摩へ帰ってしまう。そこで、龍馬の旧知を頼ったようじゃが親身になってくれる者は少なく、土佐の坂本家とは別に、龍馬の家督を継いだ坂本直(高松太郎・小野淳輔)にも、ていよく追い返されてしまったという。
やはり、お龍は龍馬以外の人からの評判がよろしくない。
「龍馬はぞっこん惚れこんでいたが同志たちは嫌っていた。生意気で龍馬を傘にきて同志たちを下風に見たがっていた」(海援隊士・安岡金馬の子・秀峰)
「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」(土佐藩士・佐々木高行)
「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」(妹婿の菅野覚兵衛)
後年、お龍はほんとうに親切だったのは西郷と勝、お登勢だけだったと述懐している 。
西村松兵衛と再婚
明治7年(1874年)、お龍は勝海舟の紹介で神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いた。田中家に伝わる話では、これまた頑固で使いづらかったらしい。
翌明治8年(1875)、西村松兵衛と再婚し、西村ツルと名を変え、横須賀で暮らすようになる。西村松兵衛は元は呉服商の若旦那で、寺田屋時代からお龍と知り合いだったとか、料亭田中家で仲居をしていたときにに知り合ったとか、その馴れ初めは諸説ある。
松兵衛は家業が傾くと横須賀に移り住み。水兵や子供相手に大道商人のようなことをして生計を立てていた。そして、海軍に出仕して横須賀に出ていた菅野覚兵衛の家にも出入りするようになり、それが縁でお龍と結婚したらしい。
宮地佐一郎氏の『龍馬百話』によると松兵衛は「背のすらりと高い、面長の、商人上がりの温厚な人であった。どっちかと言えば無口な方で、お世辞も言わなければ、おべつかも使わない。めったに怒った顔を見せた事がないという男」だったらしい。
お龍は松兵衛との入籍後に母・貞を引き取り、妹・光枝の子・松之助を養子としたが、明治24年(1891)に母・貞と養子・松之助を相次いで亡くしている。
晩年のお龍
明治16年(1883)、土陽新聞に坂崎紫瀾の『汗血千里駒』が掲載されると、坂本龍馬という存在が世間に知られるようになり、お龍の存在も注目されるようになる。
安岡秀峰、川田雪山らがお龍宅を訪ねて、『反魂香』『続反魂香』『維新の残夢』『千里駒後日譚』などが相次いで出版され、お龍も龍馬についての思い出を語っている。
じゃが、このころのお龍は狭い貧乏長屋で暮らし、晩年はアルコール依存症状態であったらしい。酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛に絡みんいたようじゃ。
その後、松兵衛・お龍宅に、夫に先立たれた妹・光枝がころがりこんでくる。ただ、お龍はあいかわらず酒浸りであったためか、やがて松兵衛と光枝は内縁関係になり、二人はお龍の元を離れていく。
日露戦争開戦直前の明治37年(1904)、美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まる。龍馬は再び注目を集め、お龍の存在もまた脚光を浴びたが、明治39年(1906)1月、お龍が危篤に陥ると、皇后大夫香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、井上良馨大将が救護の募金を集めている。
お龍の最期~「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」
そして1月15日、お龍は66歳でその生涯を閉じた。1月17日の「万朝報」には、「坂本龍馬未亡人の死去」として、「横須賀に住居せる坂本龍馬未亡人、西村鶴の病状危篤なる由は既に報ぜし処なるが、昨朝六時遂に死亡し来るニ十日 午後一時同地にて葬儀を執行する」と報じられている。
お龍は横須賀市大津の信楽寺に葬られた。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕や香川敬三の支援もあり、死から8年後の大正3年(1914)8月、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となって、ようやく墓が建立された。
ちなみに墓碑には夫の松兵衛の名ではなく、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。これはお龍の心を慮った松兵衛の粋な計らいともいえるが、支援金を集めるために龍馬の名を刻まざるを得なかったという面もあるじゃろう。そもそも金集めが目的だったともいわれているが、真偽のほどはわからない。
けっきょく、お龍の「おもしろさ」は龍馬以外にはわからなかったということなんじゃろう。