源頼朝公の兄弟と言えば、鎌倉悪源太義平を忘れるわけにはいかん。悪源太、その名の通りの剛勇な河内源氏のもののふじゃ。
悪源太義平とは?
逗子の沼間にある光照寺。開山は不明じゃが、鎌倉悪源太とよばれた源義朝殿の長男で頼朝公の異母兄・源義平殿の菩提を弔うために建てられたと伝えられている。
義平は永治元年(1141)の生まれ。母親は三浦義明の娘といわれているが、京都・橋本の遊女という説もあって詳しいことはわからない。計算上、義平は義朝18歳のときの子で、この頃、すでに義朝は関東に出てきているから、三浦の息女説をわしはとりたいと思う。義平は、この沼浜あたりで、わんぱくな少年期を過ごしたのじゃろう。ただ、母親の家柄の関係からか、義平は義朝の長男ではあったが、嫡男という扱いではなかったらしい。
とはいえ、義平は鎮西八郎為朝公と並んで、河内源氏歴代でも有数の剛の者といえよう。久寿2年(1155)には、義朝と対立する叔父の源義賢を攻めて見事に討ちとり、その武名を轟かせた。
このとき、義平は15歳。この大蔵合戦以後、義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる。なお、「悪」というのはべつに悪者という意味ではなく、「強い」「猛々しい」という意味。すなはち「鎌倉の剛勇な源氏の長男」ということなのでねんのため。
平治の乱に参陣
平治元年(1159)、平治の乱が勃発すると義平は三浦氏や上総氏など、関東の軍勢を率いて、この沼浜館から京都へ向かう。急なクーデターということもあって、数はそれほどでもないが、義朝を支える東国武士の精鋭たちじゃ。
ちょうど義平が京に到着したとき、宮中では藤原信頼らによる除目(官職を任命するための会議)の最中であった。「平治物語」では、勝利に奢った藤原信頼はお手盛りの除目を行い、義平殿にも「大国でも小国でも望みの官位を呉れてやるぞ」と上機嫌でたずねている。これに対して義平はつぎのように述べたとある。
「保元に伯父鎮西八郎為朝を、宇治殿の御前にて蔵人になされければ、急々なる除目かなと、辞し申けるはことはりかな。義平に勢を給候へ。阿辺野辺にかけむかひ、清盛が下向をまたん程に、浄衣ばかりにてのぼらん所を、眞中にとりこめて一度にうつべし。もし命をたすからんと思はゞ、山林へぞにげこもり候はむずらん。しからば追っつめとらへて、首をはね獄門にかけて、其後信西をほろぼし、世もしづまりてこそ、大国も小国も官も加階もすゝみ侍らめ。みえたる事もなきに、かねてなりて何かし候べき。たゞ義平は東国にて兵どもによび付られて候へば、もとの悪源太にて候はん。」
「浮かれてる場合かよ!」と。まったくそのとおりなんじゃが、これを聞いた信頼はたちまち機嫌が悪くなった。「乱暴なことをいうな。阿倍野まで行ったら疲れてしまうわ。清盛はあとでゆっくり討ち取ればよいではないか」 「平治物語」の作者はこれを「ひとへに運のつきけるゆへにこそ」と書いているが、まあ、藤原信頼という日本一の不覚者に合力した時点で源氏は詰んでしまったということじゃ。
なお、平治の乱の経緯については、こちらを参照いただきたい。
義平が所持した名刀「石切丸」
やがて戦が始まる。
嫡子悪源太義平は、生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八うって付たる鎧をきて、高角のかぶとのをゝしめ、石切と云太刀をはき、石打の矢負、滋藤の弓もって、鹿毛なる馬のはやり切ったるに、鏡くらをかせて、父の馬と同かしらにひったてたり。
義平が所持していたのは名刀「石切丸」。「刀剣乱舞」でおなじみじゃな。「石切丸」は現在、東大阪市の石切剣箭神社が所蔵しているが、これが義平が所持していたものと同一なのかは定かではない。
平成31年(2019)3月、石切劔箭神社はクラウドファンディングで石切丸の復元刀と矢筒を奉納する『刀剣奉納プロジェクト』が計画された。石切丸は重要美術品であり、本殿に奉納することができないため企画されたものじゃ。集まった支援金は4200マン円というから、驚きじゃな。「刀剣乱舞」の人気、おそるべしじゃ。
左近の桜、右近の橘
御所の待賢門は藤原信頼が守っていたが、平重盛にいとも簡単に突破されてしまう。これをみた義平は義朝の命により吶喊する。
「此手の大将は誰人ぞ。名のれきかん。かう申は清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也。生年十五のとし、武蔵国大蔵の軍の大将として、伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。とし積って十九歳、見参せん。」
義平はわずか17騎で駆け出し、平重盛軍500騎を蹴散らす。そして重盛を討ち取ろうと内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回したという。これぞ「平治物語」のハイライト場面じゃな。
六波羅での奮戦
内裏を占領された義朝は、清盛がいる六波羅への総攻撃を決める。源氏軍が六波羅へ向かう途中、六条河原に源頼政軍が布陣していた。これをみた義平は、日和見を決め込む頼政をなじる。
悪源太、鎌田をめして、「あれにひかへたるは頼政か。」「さん候。」「にくい振舞かな。我らはうちまけば平家にくみせんと、時宜をはかるとおぼゆるぞ。いざけちらしてすてん。」とて、五十余騎にてはせむかひ、「御辺は兵庫頭か。源氏勝たらば、一門なれば内裏へ参らん、平家かたば、主上おはしませば、六波羅へまいらんと、軍の勝負うかゞふと見るはいかに。凡武士は二心有を恥とす。ことに源氏のならひはさはさうず。よれや、くんで勝負を見せん。」とて、眞十文字に懸破て、追立追立、せめたゝかふ。
頼政は摂津源氏であり、河内源氏の義朝とは別系統である。二条天皇を守護するために一時的に藤原信頼の命で参陣していたが、もとより義朝側とは限らない。しかし、まさか義平に攻め込まれるとは思っていなかったので、あっという間に蹴散らされてしまう。「平治物語」は、旗幟を明らかにしていなかった頼政を攻めた義平のこの行動を「若気の至り」としているが、このあたり、「悪源太」の面目躍如の感がある。
そして、寡兵ながら六波羅に攻め込んだ義平は敵の大将・平清盛の首を狙って孤軍奮闘する。
清盛は、北の台の西の妻戸の間に、軍下知してゐ給ひけるが、妻戸のとびらに、敵のいる矢雨のふるごとくにあたりければ、清盛いかっての給ひけるは、「ふせぐ兵に恥ある侍がなければこそ、是まで敵は近づくらめ。いで<、さらばかけん。」とて、紺のひたたれに黒糸縅のよろひき、黒漆の太刀をはき、くろほろの矢負、ぬりごめ藤の弓もって、くろき馬に黒鞍をかせて乗給へり。
上より下までおとなしやかに、出たゝれけるが、鐙ふむばり大音あげて、「よせての大将軍は誰人ぞ。かう申は太宰大弐清盛也。見参せん。」とて、かけ出られければ、御曹子これをきゝ給ひ、「悪源太義平こゝにあり。えたりやおう。」とさけびてかく。平家の侍これをみて、筑後守父子・主馬判官、管親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、眞前にはせふさがって戦けり。
「悪源太義平見参」と一挙に突きかかる義平。平家も主人を討たせてなるかと必至となる。六波羅は乱戦となるが、朝から戦い通しの源氏に対し、平家は新手を繰り出してくる。多勢に無勢、疲弊しきった義平らはやむなく撤退する。
悪源太の最期
かくして源氏は平氏に敗れた。東国をめざして落ちていった義平は、美濃国青墓で義朝らと別れて飛騨国へと逃れる。しかし、義朝や朝長の死を知ると、平清盛・重盛を暗殺するため京に潜伏する。
しかし、その風貌はいかにも悪源太だったから 、近江国石山寺に潜伏していたところを捕縛され、六条河原で処刑されてしまう。
このとき義平殿は、斬首役の武士を嘲笑いながら、こう言い放ったという。
「やれ、をのれは義平が首うつほどの者か。はれの所作ぞ。ようきれ。あしうきるならば、しやつらにくいつかむずるぞ。」
斬首役の武士が「おかしなことをいうやつだ。首を切られた後、どうやって俺にくいつくのだ」というと、義平殿は言い返す。
「誠に只今くいつかんずるにはあらず。つゐには必雷と成て、けころさんずるぞ。」と
このあと義平殿は「ようきれ。」とてふりかえり、にらみつけたという。そして、その武士は、後日、義平殿が宣言したとおり、ほんとうに雷に打たれて死んでしまったという。
鎌倉悪源太義平、最強である。
大河ドラマ「平清盛」では、波岡一喜さんという役者が義平を演じていたが、イメージ的にはどんぴしゃり。この顔で凄まれたら……怖いわ。
悪源太義平と青葉の笛
平治の乱に敗れた義平は、再起をはかるために越前大野に落ち延び、里の村長・朝日助左衛の娘おみつと、束の間の平穏な生活を送っていたという。しかし、義朝公の死を聞いた義平殿は、おみつに一本の横笛を遺し、父の仇を討つために京へ戻っていった。
この笛は「青葉の横笛」とよばれ、おみつの縁者である朝日家に代々伝えられ、いまなお現存しているらしい。もっとも、この伝説は後世の人の創作といわれておるが……
鎌倉悪源太唯一のロマンスに、いちいちそんなこと指摘するのは野暮というもんじゃよ。