二本松城訪問記の続き。二本松藩といえば、やはり二本松少年隊じゃな。
なお、二本松城訪問記についてはこちらも。
二本松藩の「入れ年」とは?
二本松城の本丸跡を下りて搦手門を横目に通り過ぎると、「少年隊の丘」に出る。少年たちは、普段はここで砲術の訓練をしていたという。
二本松少年隊の最少年齢は12歳から17歳の少年兵部隊。白虎隊のように、当時、そうした隊名があったわけではなく、後世に名付けられたものである。
大正6年、戊辰戦後50年にあたり戦没者法要が大隣寺で行われたが、それまでは「賊軍」の汚名を着せられ、二本松藩士たちはひたすら沈黙を通し続けてきた。この時、戊辰戦争に当時14歳で出陣した水野好之は、「二本松戊辰少年隊記」を作成、この表題から「二本松少年隊」と呼ばれるようになったのじゃ。
本来、二本松藩では12歳での参戦は認めていないのだが、危急の際には年齢を2歳加算する「入れ年」という制度があった。それでも藩首脳は少年たちを戦に駆り出すことには躊躇した。じゃが、砲術指南・木村銃太郎の門下生たちは、何度も出陣許可の執り成しを嘆願したという。やがて城下に敵が迫ってきたとき、藩首脳はやむなく、25人の少年たちに出陣を命じたのである。
しかし、12歳といえば、今であれば小学校6年生じゃからのう……少年隊の奮闘を伝える銅板のレリーフが、じつに悲しい。
二本松の伝統「斬らずに突け」
城を下りてきて、公園を出たところ、かつての松坂門の付近に、少年隊士・成田才次郎の碑がある。大河ドラマ「八重の桜」にも描かれた少年じゃ。
城南の大壇口へ出陣した才次郎は負傷し、退却中に仲間とはぐれてしまう。途中で叔父の篠沢弦之助に出会い、落ち延びるように言われたが、才次郎は仲間の敵を討つといって聞き入れなかったという。
才次郎が松坂門入口に身を潜ませていると、長州藩士・白井小四郎が率いる部隊と遭遇する。
二本松藩には「斬らずに突け」という伝統があった。浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたことを聞いたとき、当時の藩主・丹羽光重(浅野内匠頭の大甥にあたる)が、「斬りつけずに突けばよかったものを」と口惜しがったということから、二本松武士の剣の伝統として受け継がれてきた。
才次郎はこの教えを父から受けていた。だから、迷わず白井を突いた。白井は突っ込んでくる敵が少年であることに気づき、手を出さないよう周囲の者を制したが、不覚をとり胸部を刺されて絶命した。
白井はこのとき、自分の不覚だから少年を殺すなと部下に下知したといわれるが、才次郎は、捕まえようとした長州兵に抵抗したので銃殺された。あるいは傷が深くて間もなく死亡したなど諸説あるが、いずれにせよ、この事件の後に絶命している。享年14。
大壇口の戦いと木村銃太郎
少年隊が出陣したのは7月29日の霧深い朝のこと。木村銃太郎率いる少年隊23名は銃砲を構えて、阿武隈川沿いの大壇口の守備についた。
正面から攻めてきたのは薩摩兵だったが、少年隊の砲撃の正確さに、薩摩兵は驚いたという。銃太郎の指揮と日頃の少年たちの訓練は実戦で大いに生かされたというわけじゃな。
その後、激しい銃撃戦が展開されるが、奥田午之助(15歳)が銃撃され死亡。少年隊最初の戦死者だ。少年たちは怯まず決死の抵抗を見せるが多勢に無勢、火器の性能差は如何ともしがたい。
そして敵兵が目前に迫り、銃太郎の左腕を撃ち抜く。少年たちをこれ以上、危険な目に合わせるわけにはいかないと判断した銃太郎は退却の太鼓を鳴らし、少年たちを集める。じゃが、そのとき敵弾が腰に命中。歩くこともままならなくなった銃太郎は少年たちに、自分の首をとって退却するよう命じた。
少年たちは銃太郎に一緒に退却するよう説得するが、副隊長・二階堂衛守が心を決め銃太郎の首を切り落とした。少年たちは号泣しながら銃太郎の屍を埋め、首を抱えて退却する。
木村銃太郎は二本松藩砲術指南の家に生まれ、江戸の江川太郎左衛門に砲術を学んだ。帰藩後は砲術師範として藩士師弟の教育にあたった。少年達からの信頼は厚く「若先生」「小先生」と、親しまれていた。
この日の戦いで隊長以下15名が戦士。二本松少年隊は壊滅する。銃太郎は見事な指揮で一時は新政府軍を食い止めたが、教え子達を戦場に出さねばならなかったことには、やはり忸怩たる思いであったじゃろう。
なお、大壇口で勇名をはせたのが、青山助之丞(21歳)と山岡英治(26歳)じゃ。2人は少年達の退却を助けるため、薩摩兵の真っただ中に 大刀を振りかざして斬り込み、戦死した。
うつ人もうたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば
このとき薩摩兵を率いていた野津道貫は、後世、二本松を訪れたとき、この日の激戦を振り返り、十津川郷士が詠んだ詩を朗唱し、二本松藩士の壮絶な戦いぶりを賞して、「戊辰戦争中第一の激戦」と述懐している。
二本松少年隊、隊士の逸話の数々
霞ヶ城公園を後にし、せっかくなので二本松少年隊が眠る大隣寺へも訪れてみた。まあ歩けないこともないが、暑かったこともあり、ちょっと辛かった。おまけに、突然のゲリラ豪雨にはエライ目にあったが、まあ、それはどうでも良い話。
境内に至る階段の下に、副隊長・二階堂衛守(33歳)と隊士・岡本篤次郎(13歳))戦死の地碑があり、花が手向けられていた。
大壇口で敗れた少年隊士は、戦死した銃太郎の首を運んで撤退中に、大隣寺の石段の下で敵軍の銃撃を受ける。このとき衛守は即死し、篤次郎も重傷をおった。
岡山篤次郎は「眉目秀麗、仲間きっての美少年」であったらしい。出陣にあたり、母親から「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と書いてもらっている。自分が戦死したあと屍を探すのにわかりやすいようにと言うことなのじゃが、字が下手だと敵に笑われることを嫌がったという。
土佐や薩摩の兵たちは、少年を憐れみ、懸命に看護に当たった。介抱にあたった土佐藩士は、「何としても回復させ養子に貰い受けたい」と話していたというが、篤次郎は助からなかった。
上崎鉄蔵(16歳)は出陣を命じられ、鬱々とした日々を送っていた。母はそれが気が気でなく、その理由を尋ねた。すると鉄蔵は「せめて、太刀だけは恥ずかしくないいものを持って出陣したい」と打ち明けた。鉄蔵の家は貧乏であった。ろくな刀もなく、唯一の太刀はすでに父が持って出陣してしまった。
母は急ぎ、実家に掛け合い、一振りの相州ものの太刀を調達し、鉄蔵に渡した。そして出陣の朝、「行ってこい」と声をかけた母に、「行ってこい? 今日は、行け!だけでよいのです」と答え、立ち去ったという。もう自分は帰らないと、鉄蔵は覚悟していたんじゃな。
小沢幾弥(17歳)は、父親が長く江戸詰で、二本松に帰藩しても生活になかなか馴染めなかった。田舎者を小馬鹿にする態度は、同年代の少年たちに嫌われ、いざこざもたえなかったという。
そんな幾弥は砲術を朝河八太夫に学び、開戦時には朝河隊に所属して出陣した。しかし、戦の最中、八大夫は敵弾に倒れ、幾也は死傷した師を背負って、敵兵が充満する中を逃げ惑う。そして師の遺骸を葬ると、満身創痍で彷徨い歩いた。
やがて二本松城は落城。幾弥も息絶え絶えなところに、久保丁坂で土佐兵と遭遇した。すでに意識は混濁していた幾弥は、土佐兵に「敵か、味方か」と問い、腰の刀に手を掛ける。哀れに思った土佐兵は「味方だ」と答えると、幾弥は首を伸ばし、手振りで介錯を求めた。土佐兵は無言で幾也を介錯した。
なお、Wiki先生に大壇口出陣者名が載っていたので以下に記しておく。
隊長 木村銃太郎 22歳*
副隊長 二階堂衛守 33歳*
12歳 久保豊三郎
13歳 上田孫三郎、高橋辰治*、徳田鉄吉*、岡山篤次郎*、大島七郎、小川安次郎、遊佐辰弥*、後藤釥太、高根源十郎
14歳 成田才次郎*、成田虎治、武谷剛介、全田熊吉、宗形幸吉、馬場定治、水野進、鈴木松之助、木村丈太郎*、渡辺駒之助
15歳 奥田午之介*、久保鉄次郎、三浦行蔵、安部井壮蔵
17歳 大桶勝十郎*、 (*は戦死者)
板垣退助「二本松藩こそ武士の鑑」
負けることがわかっているのに「武士の本懐」と、同盟の信義を守って玉砕した二本松。会津のように薩摩長州に恨まれていたわけでもない。徳川に格別な恩義を感じる家でもないし、仙台や米沢のように列藩同盟を主導した立場でもない。逃げようと思えば逃げられたわけで、現代の感覚からすれば「馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ」という見方になるかもしれん。じゃが、彼らはやはり「武士」だった。
維新後、板垣退助は「全藩を挙げて命を惜しまず戦った二本松藩こそ武士の鑑」と賞賛し、徳富蘇峰も「会津、二本松の卓越した政治姿勢があったから、日本は植民地にならずに済んだ」と語っている。
「気概」「矜持」ということじゃろうか。長いものには巻かれろ一辺倒では、世の中はどんどんおかしくなる。世俗と功利にまみれてはおっても、こうした「気概」や「矜持」は持ち続けたいものじゃ。