おやっとさあ! 大河ドラマ「西郷どん」がついに最終回。維新の英傑・大西郷が主人公なだけに、「史実無視」だのなんだのいろいろ酷評されていたけど、わしはこの1年間、十分に楽しませてもらったぞ。ということで、今回は明治編を振り返りながら、西郷隆盛と西南戦争について、わし自身の西郷像をメモしておこう。
一日西郷に接すれば、一日の愛が生じ…
「西郷どん」最終回は、西郷軍に身を投じた中津藩士・増田宗太郎の言葉から始まった。増田宗太郎は中津藩士で福沢諭吉の再従弟じゃ。
一日西郷に接すれば、一日の愛が生じる。三日接すれば、三日の愛が生じる 親愛の情は日々募り、もはや去ることは出来ない。ただただ生死をともにしたいのだ。
増田は薩軍決起の報せを聞くと、中津隊を率いて従軍した。この言葉は、増田が和田峠の戦いに敗れた後、同志に語ったものだという。おそらく、日本人の西郷のイメージは、この増田の言葉に象徴されているはず。まっすぐで情が深く、誰からも愛された「西郷どん」を鈴木亮平さんは見事に演じてくれた。
じつはわし、昔から「西郷という人は偉いんだかなんだかよくわからん」と思っていた。というのも、御一新の前と後で、西郷は別人になってしまったように思えて仕方がないのじゃよ。せっかくなので、維新後の西郷について調べていこうと思う。
征韓論をめぐる明治6年の政変の真相
よく西郷隆盛を大久保利通と比べて「政治的には無能だった」という人がいるが、それはまったくもってお門違いじゃろう。版籍奉還、廃藩置県で西郷が果たした役割は大きいし、岩倉具視らが外遊中の留守政府は、西郷が首班となつて切り盛りし、地租改正、学制発布、徴兵制、司法・警察制度の整備など、近代化政策を進めた。
じゃが、岩倉具視、大久保利通らの帰国後、西郷は「征韓論」をめぐる政争に敗れ、政府を去る。明治6年の政変じゃ。
「西郷どん」の西郷と大久保の別れのシーンは迫力があり、見応えがあった。
西郷「薩摩に帰る前に挨拶に来た おいは岩倉さんにしてやられた。あれはおはんの仕業か? おはんは子どもの頃から頭が良かったが、どうしてここまでずる賢いやり方をする」
大久保「邪魔する者は排除する。おはんは甘い」
西郷「政府から追い出したかったら、どうしてそう言ってくれなかった? おいとお前のケンカなら腹を割って話せば済む」
大久保「憎め。すべて覚悟の上だ」
西郷「 おはんを嫌いになどなれるはずがなか。おはんに何度も助けられた。それをどう憎めちゅうとじゃ。おいの負けじゃ。あとはおはんのやり方でやれ オレは大久保の仕事を見ながら、鹿児島で畑を耕す。一蔵どんが日本中に鉄道を走らせたら、鹿児島などあっちゅう間じゃ、待っちょるでな」
明治6年の政変は征韓派の西郷と内治優先を説く大久保の対立といわれる。西郷は「征韓」ではなく「遣韓」じゃが、いずれにせよ大久保は西郷の朝鮮派遣を反対した。岩倉使節団で海外をみてきた大久保にしてみれば、富国強兵を推し進め、実力をつけなければ諸外国からは相手にされない、今は戦争などしている場合ではない、朝鮮など放っておけばよいというわけじゃな。なるほど、これはこれで筋が通っておる。
じゃが、この「征韓」をめぐる問題は、どうもおかしな点がある。というのも、大久保は内治優先、戦争回避を主張していたにも関わらず、西郷下野後、舌の根も乾かぬうちに台湾出兵、朝鮮派兵(江華島事件)を起こしているんじゃからな。
じつは大久保にとって、征韓問題などはどうでもよかったんじゃ。大久保がカチンときたのは、むしろ人事の問題。自分がいない間に、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任ら、土佐や肥前の連中が参議として西郷の下で活躍している。とくに厄介なのは、留守政府の中枢として存在感を示していた江藤新平だ。とにかく大久保は江藤が大嫌い。それは佐賀の乱に敗れた江藤をろくに取り調べることなく、弁明の機会もないまま、晒し首にしたことでも明らかじゃよ。
江藤はできる。なんの成果も上げられずに外遊から帰ってきた大久保は、江藤がいる限り政府内に居場所がない。さりとて大久保は西郷のように薩摩に帰って畑を耕したりなどする男ではない。大久保にも理想があるからな。焦りと嫉妬…政治家である以上、大久保がそういう感情を抱いたはずじゃ。
そんなとき、都合よく三条実美がストレスで倒れた。代役は岩倉具視。そこで大久保はこの機を逃さず、岩倉具視を巻き込んで無理筋を承知で征韓に難癖をつけ、留守政府から政権を一気に奪取した。「邪魔する者は排除する。おはんは甘い」…大河で大久保は西郷にそう言い放っているが、これが明治6年の政変の真相じゃろう。
西郷は「決起」の機会を狙っていた?
さて、政府を去った西郷のこと。賞典禄で私学校をつくり、後進の育成に努め、自身は犬を引き連れ野山を歩き、俗世と離れた生活を送っていた。じゃが、それは表向きのことで、西郷は政府改革の機会を虎視眈々と狙っていた節がある。
万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻に涙を催されける。(『西郷南洲翁遺訓』)
「今となっては戊辰の正義の戦いも私利私欲をこやす結果となり、国に対し、戦死者に対して面目ないことだ…」と、西郷は涙を流したという。もちろん、そのままひっっこんでいる男ではない。
西郷が鹿児島に帰国する直前、共に参議を辞職した板垣退助が政府に対して、「民撰議院設立建白書」を提出しようと、西郷に賛同を求めたときのこと。『自由党史』によれば、西郷は板垣に対して、「予は言論を以て此目的を達し得べしと信ぜず、如かず自から政府を取て、然る後ちにこの未曾有の盛事を行はん」と、政権奪取の決意を語ったとある。
さらに、萩の乱が起こったとき、西郷は桂久武に宛ての書簡で、「両三日珍しく愉快の報」があったと前原一誠の決起を喜び、全国で士族が隆起することへの期待を寄せている。そして、「一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わんと、相含み罷り在り申し候」と、再び立ち上がる決意と自信を吐露している。前原の乱はあっさりと鎮圧されてしまったが、桂久武は西郷が心を許した大親友だから、そこには西郷の本心が記されていると考えてよいのではないか。
これが武力蜂起を意図するものとは断言できないが、西郷は政府がいよいよ二進も三進もいかなくなったとき、「維新のやり直し」を掲げて復帰しようと考えていたんじゃろう。私学校は、いざというときの武力的な備えじゃな。
西郷立つ…「今般、政府に尋問の筋これ有り」
じゃが、そんな矢先、私学校の若者たちによる陸軍火薬庫を襲撃するという事件が起きた。西郷はその報らせを聞いて「ちょしもた!」と発したというから、西郷にとってこの事件は計算外であったんじゃろう。
そして西郷暗殺計画が発覚する。大河では、中原尚雄が旧知の谷口登太に西郷暗殺計画を打ち明けたために拷問され、「ボウズヲシサツセヨ」という電報が証拠として出てきたが、もちろん、この電報はフィクション。じっさいには供述書が残るのみで、戦後、中原は無理やり拇印させられたと、その内容を全面否定している。一説には「視察」のためと供述したものを「刺殺」と読み替えられたという話もあり、これが今回の電報という演出に使われたというわけじゃ。
この西郷暗殺計画が本当にあったのかどうか、それは定かではない。幕末の気風がいろ濃い時期ではあっても、さすがに新政府が暗殺なんて手段を講じるとは思えない。ただ、政府が薩摩にスパイを送り込んでいたことは確かだし、少なくとも西郷自身はこれを信じ、若者たちの激昂は頂点に達した。中原の自供の後、私学校本校では大評議が開かれる。
「西郷どん」では半次郎(桐野利秋)が、その無念を吐き出す。
半次郎「おいたちはこの薩摩から新しい国を作るという先生の夢を信じて歯を食いしばって耐えてきました。その先生を殺そうとする大久保はあんまりじゃ!おいたち士族の居場所はなか! 我が身を捨石として政府の政を正すのみ」
西郷「……わかった。みなで東京へ行け。全国の士族たちの思い、新しい世を見ずに散った者たちの思いをもって、政府を問いただす。そいでみんなで薩摩に帰ってくっとじゃ」
「今般、政府に尋問の筋これ有り」。ついに西郷は決起する。このタイミングでの武力蜂起は西郷にとっては本意ではなかったはずじゃが、さりとて、私学校の若者を見捨てることは西郷にはできなかったんじゃな。
西郷の甘い見通し
ところで、このとき西郷はどの程度の勝算があって決起したんじゃろうか。私学校で行われた大評議では、「西郷・桐野・篠原の三将が上京して政府を詰問すべきだ」「寡兵を率いて海路で小浜に出て、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する」などの策が出たという。また西郷小兵衛は海路長崎に出て、神戸・大阪、横浜・東京を急襲する案を、野村忍介は、長崎、豊後、熊本の三道から東うえする案を提示した。だが、最終的には篠原国幹が「議を言うな」と一喝し、桐野利秋が「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断を下す。
かくして明治10年2月15日、南国にはめずらしく雪が舞う中、薩摩軍は熊本に向けて全軍進発した。板垣退助は西郷軍が熊本城を包囲したと聞いて、「西郷、兵を知らず」「何とならば熊本城兵の嬰守に対し、薩軍は弐千の兵を残して之を包囲し、自余の精兵を挙げて馬関に突出せば、天下を制する事何の難き事是れあらん哉」 とその愚策を嘆いたというが、後世、西郷の無策を嘆く人は多い。
西郷は評定では自分の意見を挟まず、すべて篠原や桐野に決定を委ねたとされる。そのため、後世、西郷の無責任を批判する人は少なくない。あるいは、すでに負けを覚悟していて、不平分子を道連れにあの世に行く覚悟だったという人もいる。じゃが、そんなことはないじゃろう。
県令の大山綱良は、西郷が鹿児島を進発するとき、「何れ二月下旬か三月上旬迄には大坂に達すべき積りなり」という見通しを聞かされている。どういう根拠でそういったのかはわからぬが、西郷や篠原、桐野ら陸軍大将は、西郷がたてば、熊本鎮台は大した抵抗なく薩軍を通すものと考えていた節がある。そして全国各地の不平士族が立ち上がり、戦わずして大阪あたりまで行けると楽観していたのではないか。
薩軍は、兵力、武器装備の性能、物資の輸送力、海軍力、電信による情報伝達力など、政府軍にすべての面で劣っていた。薩軍が勝つ、とまではいわないが、政治的な目的を達成するためには、不平士族が合流、隆起し、世論を味方につける必要があった。西郷はそれができると思っていた。加えて薩軍には「土百姓の人形兵、只一蹴して過ぎるのみで方策を要せず」という鎮台兵に対する侮りもあった。それゆえの陸路東上、熊本へのデモ進軍であったわけじゃ。
じゃが、この見通しは外れた。薩軍が熊本でモタモタしているうちに、政府軍は続々と兵力を増強してくる。頑強に抵抗する鎮台兵をみて、西郷は自身の見通しの甘さを悟ったことじゃろう。田原坂で敗れた薩軍はどんどんジリ貧となっていく。そして、追いつめられた西郷は城山で自刃することとなった。
以上、明治維新後の西郷隆盛についてまとめてみたら、鈴木亮平さんが演じた西郷どんとはずいぶん違ったものになってしまった。ただ、結果として西郷が新政府にとって厄介だった、時代に取り残された薩摩の不平士族を道連れに死んでいった。名実ともに武士の時代を終わらせたのは西郷だったということじゃな。
なお、来年の大河ドラマは「いだてん」。東京五輪がテーマらしいが、たぶん、わし、これは見ないような気がする。「あまちゃん」のスタッフ再集結はよいのだが、朝の連ドラぽい気がするんじゃよ。ということで大河とは再来年の明智光秀「麒麟が来る」までしばしお別れ、さようならじゃ。