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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

保元の乱はなぜ起こったのか~天皇家、摂関家、源氏も平氏も分裂して大騒動

京都の高松神明神社に行ったついでに、今日は保元の乱についての備忘録。皇位継承摂関家の跡目争いに武士がからんできておきたこの事件。「王家の犬」と蔑まれていた武家が、その実力を見せつけた画期となった事件じゃよ。

保元・平治の乱合戦図屏風絵

保元・平治の乱合戦図屏風絵

なお、高松神明神社の参拝記事はこちらを参照いただきたい。

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なぜ保元の乱が起きたのか

保元の乱は、後白河天皇崇徳上皇のいさかいに、藤原摂関家平氏、源氏がそれぞれに別れて争った事件である。その経緯についてはなかなか面倒臭いので、ここは4つの視点からざっくりまとめておこう。

後白河天皇 VS. 崇徳上皇

崇徳天皇鳥羽天皇の第一皇子・顕仁親王で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)である。ただ当時、崇徳は鳥羽の父・白河法皇と待賢門院が密通して生まれた子という噂もあり、鳥羽は崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで、忌み嫌っていたという。もちろん事の真偽はわからないが、鳥羽と崇徳の間に遺恨があったことだけは間違いない。

崇徳上皇

崇徳上皇

はじめ白河法皇は崇徳を即位させると、鳥羽を無視して院政をしき、「治天の君」として君臨した。しかし、白河法皇崩御すると鳥羽が院として権勢をふるうようになり、崇徳を蔑ろにするようになる。いわゆる意趣返しじゃな。

鳥羽は崇徳を退位させると、寵愛する藤原得子(美福門院)との子・体仁親王近衛天皇)を即位させる。このとき体仁親王は、本来なら崇徳の「皇太子」として即位するはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。院政は父が息子を後見するものだから、崇徳は「治天の君」になることができなくなってしまったのじゃ。まあ、はめられたんじゃな。

しかし、近衛天皇は17歳でとつぜん崩御してしまう。宮中では、つぎの皇位継承を決める王者議定がおこなわれるが、これは美福門院に近い公家が主導した。

当初有力だったのは崇徳の第一皇子・重仁親王だった。しかしそれでは、もし鳥羽が崩御したとき、崇徳による院政がはじまる可能性がある。美福門院はこれに強く反発し、自身の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王後白河天皇)を即位させるよう仕向けた。雅仁親王立太子しないまま、29歳で即位するという異例の事態であった。

これには、雅仁親王の乳母の夫・信西や、関白・藤原忠通の策動が働いたと思われる。いずれにせよ、これで崇徳が「治天の君」となる可能性は消え、後白河 VS. 崇徳の対立構造ができあがったのじゃよ。

藤原忠通 VS. 藤原頼長

摂関家のほうもごたごたしていた。摂関家白河院政下では不遇をかこっていたが、鳥羽院政がはじまると、藤原忠実は娘の泰子(高陽院)を鳥羽上皇の妃とし、その力を盛り返しはじめる。

その後、関白は忠実の長子・藤原忠通が継いだが、忠通には子どもがいなかった。そこで異母弟の頼長を養子とし、後継者に据えることになった。忠実は、忠通より頼長の才を愛したようじゃ。しかし、忠通に実子の基実が生まれると、忠通はわが子に摂関の地位を継がせたいと考えるようになる。これはもう親子の情として当然じゃが、次第に忠通は忠実・頼長と対立するようになる。

忠実・頼長は鳥羽の信認を得ており、忠通は美福門院に支持されていた。そこでまず動いたのが忠実・頼長だ。頼長は近衛天皇に頼長の養女・多子を入内させ、女御にすることに成功する。これに対抗して、忠通は美福門院の養女になっていた藤原伊通の娘・呈子を新たに自分の養女にし、入内させてしまう

これをもって摂関家は断裂する。怒った忠実は忠通の藤氏長者を剥奪し、これを頼長に与え、忠通を義絶してしまう。しかし鳥羽法皇は忠通を関白に留任させ、頼長には内覧の宣旨を下し、両者の顔を立てる。ただ、これにより関白と内覧が並立し、対立は続いていくことになる。

藤原頼長

藤原頼長

その後、頼長は藤氏長者として綱紀粛正に取り組み、左大臣に昇進する。しかし、あまりに苛烈で妥協を知らない性格は方々で軋轢を呼び、頼長は「悪左府(あくさふ)」の異名を取り、鳥羽の信頼も失っていく。

そして近衛天皇崩御すると、その死は頼長が呪詛したためという噂が流れ、鳥羽法皇もこれを信じた。かくして頼長は内覧を停止され、失脚してしまうのじゃ。

源為義 VS. 源義朝

つづいて源氏である。白河法皇の信認を受けていた源為義であったが、鳥羽法皇のころには本人や郎党の度重なる狼藉行為により無官となってしまい、ライバルの平忠盛に出世競争で大きく水をあけられてしまった。そこで為義は藤原忠実・頼長に接近し、検非違使をつとめるようになる。

そこへ東国から長男の義朝が戻ってくる。義朝は為義の凋落をよそに東国へ下向し、在地豪族を組織して勢力を伸ばして京へ凱旋した。そして、妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽や藤原忠通に接近し、下野守への任官に成功する。

その結果、一介の検非違使に過ぎない為義にかわって、義朝が台頭することになり、親子の間で対立が深まっていくことになる。要するに為義のメンツがつぶれたというわけじゃ。

平清盛 VS. 平忠正

さいごは平氏である。平忠正は清盛の叔父にあたるが、鳥羽の信任が厚い忠盛やその子・清盛とは早くから不和であったらしい。当初は忠正も白河法皇に仕え、顕仁親王(後の崇徳天皇)の御監に任じられたが、なにをしでかしたか鳥羽に「勘当」されてしまう。そこで、忠正は藤原頼長に近づいて、その家人となる。

清盛の生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房といわれる。ドラマや小説などでは白河法皇のご落胤という話もある。いずれにせよ清盛は忠盛の正室の子ではないにもかかわらず平氏の棟梁になったことも、忠正との不仲の原因と言ってよいじゃろう。 要するに為義と同じく、これまた嫉妬じゃな。

鳥羽法皇崩御

保元元年(1156年)5月、鳥羽が病に倒れると、事態はあわただしくなる、鳥羽の権威をかりて崇徳や藤原頼長を抑えてきた美福門院や藤原忠通にとっては一大事である。このとき鳥羽は病床で、平清盛北面武士たちに、鳥羽の死後も美福門院に従うという誓約書を出させている。

鳥羽法皇

鳥羽法皇

それから1ヶ月後の7月2日申の刻(午後4時頃)、鳥羽は崩御する。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より信西らにより執り行われた。

臨終の直前、崇徳は鳥羽の見舞いに訪れる。遺恨はあったがいちおう息子じゃからな。しかし、崇徳は鳥羽に門前払いをされてしまう。そればかりか、鳥羽は自身の遺体を崇徳上皇に見せないよう言い残したという。どこまで恨んでいたのか。崇徳上皇は大いに憤慨した。

かくして保元の乱が勃発

鳥羽が崩御すると、後白河天皇を後見する信西が動き出す。まずは、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞を流し、鳥羽の初七日には、忠実・頼長が諸国の荘園から兵を集めることを禁じる後白河の綸旨が出される。源義朝らの兵は藤原頼長東三条殿に乱入し、邸宅や財産を没収した。

7月9日の夜半、崇徳が鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河北殿に入った。鳥羽にいれば拘束される危険があったからだ。白河には平氏の本拠地・六波羅がある。崇徳は北面最大の兵力を持つ平清盛を頼ろうとしたのじゃろう。

崇徳は平忠盛重仁親王の後見であっただったことから、平氏が味方になることに望みをかけていた。しかし重仁の乳母・池禅尼は、崇徳方の敗北を予測し、子の頼盛に後白河方につくことを命じた。そして清盛もまた一門、結束して後白河方に協力することを決意する。

10日には、頼長も白河北殿に入った。もはや崇徳と頼長は運命共同体である。そしてここに、源為義平忠正が兵を率いて集結する。いよいよ決戦というわけである。

 

戦いの経緯

保元物語」によると、このとき、崇徳方の白河北殿にいた源為朝殿はすぐさま夜襲をかけるよう、藤原頼長に進言したという。

「只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろへろ矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。(後白河天皇行幸他所へならば、御ゆるされを蒙って、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君(重仁親王崇徳上皇の第一皇子)を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」

夜襲により平清盛源義朝殿を討ち取り、高松殿に火をかけ、後白河天皇が逃げてきたところを幽閉しようというわけじゃ。しかし、頼長はこれを容れない。天皇上皇という王者の戦いに源平が参戦するのに、夜襲なんて卑怯な手段はふさわしくない。お前ら野蛮人どうしの戦といっしょにすんな、ということらしい。

「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有って勝負を決せんに、むげに然るべからず。」

朝になれば興福寺の僧兵も駆けつける手はずだから、そのときに正々堂々と決戦すべし。頼長に夜襲を却下された為朝は、崇徳院の前を退くと、こう嘆息したという。

「合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」 

はたして、為朝が予想した通り、高松殿では源義朝信西入道に夜襲を進言していた。

「合戦の手だて様々に候へ共、即時に敵をしへたげ、たち所に利をうる事、夜討に過たる事候はず」

すると信西は諸手を挙げて賛成する。

「此の儀尤然るべし。詩歌管絃は臣家の翫所也といへ共、それ猶くらし。いはんや武芸の道にをひてをや。一向汝がはからひたるべし。誠に先ずる時は人を制す、後するときは人に制せらるといへば、今夜の発向尤也。

「早く兇徒を追討せよ。されば昇殿は疑いないぞ」と、信西は義朝にハッパをかける。すると義朝は「合戦に出て、どうして余命がございましょうか。ただ今昇殿し申し上げて、冥土の思い出にしたい」と、無理矢理に昇殿してしまい、後白河天皇はこれをたいそう面白がられたという。

かくして後白河方の軍勢は白河北殿に攻めかかる。ただでさえ、兵力的に劣勢な崇徳上皇方はこの時点ですでに詰んでいるわけだが、それでも為朝は自慢の強弓で阿修羅のごとく奮戦。両軍は鴨川を挟んでの激闘になった。

一進一退の戦況の中、源義朝藤原家成の屋敷に火を放つ。火はほどなく白河北殿に燃え移り、崇徳上皇藤原頼長はあぶり出されるように逃げ落ち、上皇軍は総崩れになる。かくして保元の乱後白河天皇方の大勝利に終わった。

後白河法皇

後白河天皇法皇

保元の乱の結果

頼長は自害、崇徳上皇は配流

頼長は崇徳方が総崩れとなる中、騎馬で御所から脱出するが、矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら逃亡を続けたが、最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望んだ。しかし、忠実は頼長の来訪を拒み、頼長は失意のなかで舌を噛み切り自害したという。

崇徳上皇仁和寺に逃げ込むがその後に出頭し、讃岐に配流となった。天皇上皇の配流は藤原仲麻呂の乱のときの淳仁天皇以来400年ぶりである。その後も崇徳院は京都に戻ることなく現地で没している。その無念は日本史上最強の怨霊となって、これ以後、朝廷を恐怖させるが、その話はこちらを読んでいただきたい。

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源為義平忠正は斬首

武家の始末についてはこうじゃ。まず源氏じゃが、義朝は父を斬ることは偲びなく、助命を願い出る。しかし、信西はそれを許さなかった。また、平清盛は忠正の首を即刻刎ねている。これをみた義朝は、無念ながらも為義を斬ることとした。しかし、源氏における為義と平氏における忠正では、その重みが違う。これにより源氏の勢力は大いに減衰することになった。

ただ、源為朝だけは武勇を讃えられたためか、おっかなくて首をとれなかったのか、命だけはとられず、強弓を引けぬよう肘の腱を切られて伊豆大島へと流された。その後、機をみて伊豆で大暴れしたようじゃが、追討軍を向けられ、討ち死にしている。

合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに

そもそも保元の乱の崇徳方の兵は弱小で、劣勢は明らかだった。崇徳方が勝つ可能性はほとんどなく、源為朝殿が献策した夜襲は形勢逆転のための唯一の手立てであった。にもかかわらず、悪左府頼長ほどの人物でも、それがわからないというのは、いったいお公家さんはどういうアタマの構造をしているんじゃろうか。

まあ、この後の平治の乱のときの藤原信頼も、「太平記」で出てくる後醍醐側近の坊門清忠も同じことやっているから、これはもう、お公家さんの「仕様です」と認識するしかないのかもしれん。

こうしたことは現代の会社組織でもままある。私心とかプライドとかこだわりとか、そういうのが邪魔をして、部下とか専門家の意見を素直に聞くことができず、判断を誤るんじゃな。特に才知に走る人は要注意ということじゃ。