北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

阿蘇流北条氏4代、時定・貞宗・随時・治時〜北条時宗の肖像画が別人だった件も解説

こちら、お馴染みの北条時宗公の肖像画。じゃが近年、実はこれ、時宗公ではなく阿蘇流北条氏の北条貞宗であるとの疑義が生じている。そこで今回は、阿蘇流北条氏とはどんな家か、北条(阿蘇)定宗とは誰かを解説してみたい。

満願寺所蔵の伝北条時宗像

満願寺所蔵の伝「北条時宗像」。ただし近年、「北条定宗」ではないかという説が出てきている

阿蘇流北条氏の祖・時定

阿蘇流北条氏とは北条時氏の三男・時定を祖とする得宗家の分流である。母はかの有名な松下禅尼で、時定は4代執権・経時公、5代執権・時頼公は同母弟である。北条時定は執権にこそなれなかったものの家格は高く、鎌倉では将軍の側近を務めていたんじゃ。

やがて時定は、時政殿以来代々継承されたきた肥前・阿蘇社の所領を受け継いだことから、「阿蘇」を称するようになる。 

蒙古襲来の折、時定は肥前国の守護として現地に下向し、やがて土着する。国難ともいうべき事態を前に、幕府は西国での指導力を発揮せねばならず、阿蘇はいわば九州における得宗家の出先機関のような存在として働いたのじゃ。弘安9年作成された恩賞給付者リストには、第一に時定の名がみえ、肥前国高郡山田庄を拝領している。この地が阿蘇流北条氏4代に相伝されていくのじゃ。

阿蘇流北条氏の2代目・定宗

時定には嫡男の随時(ゆきとき)がいたが、まだ若年だったこともあり、桜田時厳の子・定宗(時厳の子としては「貞宗」と表記)を養子に迎え、一時家督を譲っている。

桜田時厳は北条時頼公の子で、時宗公の異母弟にあたる。母は不明じゃが、桜田禅師、相模禅師などと称され、阿蘇と同じように得宗家傍流である桜田流北条氏の祖である。その三男が定宗であり、阿蘇家の養子となり、家督を継いだのじゃ。

蒙古襲来にあたり、時定は自分に万一のことがあった場合に若年の随時だけでは不安に思ったのかもしれぬな。じゃが、時定の死去から5年後、定宗も九州で没してしまうのじゃ。享年28。

じつは、先ほどの満願寺に伝わる「北条時宗像」に描かれた人物は、実は阿蘇貞宗だといわれるようになってきた。というのも、この肖像画は僧形じゃが、時宗公が出家したのは亡くなる当日であり、このような僧形ではなかったというのじゃ。つまりこれは本人ではなく甥っ子の定旨の肖像と考えられ、現在では教科書にも掲載されていないそうじゃ。

まあ、事実関係はわからぬが、そもそも鎮西の満願寺に伝えられていることからして、そう考える方が自然ではあるな。時宗像とペアで残っている肖像画も阿蘇流初代「北条時定」らしいから、所縁の満願寺が初代2代の肖像画を伝えているとするほうが妥当であろう。

阿蘇流北条氏の3代目・随時

貞宗が没すると、3代目の家督は時定の子・随時が継ぐ。随時は正和4年(1315)、一時、鎌倉で二番引付頭人をつとめ、その後の文保元年(1317年)、鎮西探題として九州に下向している。これは鎮西を束ねるための実務能力を鎌倉の本社で磨き、支社で活躍できる「箔」をつけさせようという狙いがあったのじゃろう。

従来、鎮西探題は金沢流北条氏が勤めていたのじゃが、この頃、金沢氏は九州でかなりの勢力をつくり上げつつあった。そこに楔を打つため、得宗家とも近い阿蘇流の随時が鎮西探題に任じられたのじゃろう。

じゃが元亨元年(1321)、随時は鎮西にて31歳で没してしまう。家督は随時の子で幼少の治時が継ぐことになる。

阿蘇流北条氏の4代目・治時

治時は文保2年(1318)に鎮西で生まれた。そして、わし高時の猶子となっている。

幼くして父を亡くし、阿蘇流北条氏の家督を継いだ年少の当主を後見するのは得宗のつとめじゃ。また、阿蘇は九州のど真ん中、得宗家の鎮西での利権を盤石にするうえで、わしが治時を猶子にするのは何かと好都合でもある。おそらく長崎円喜か安達時顕あたりが決めたのじゃろう。

元弘元年(1331)、治時は元弘の乱が起こると畿内に向かい、後醍醐天皇に呼応した宮方の軍勢と戦う。

そして正慶元/元弘2年(1332)、楠木正成ら反幕府勢力が隆起すると、その討伐のために再び上洛。翌年の正月には赤坂城攻めの総大将として軍奉行の御内人・長崎高貞(長崎高資の弟)の補佐を受けて京都を出発。摂津の天王寺・住吉に陣を張った。

上赤坂城の戦いでは楠木軍の頑強な抵抗にあったものの、水源を絶つことにより、これを陥落させている。その後も楠木正成の本拠地千早城を攻めたてるが、この間に鎌倉からやってきた足利高氏が裏切り、六波羅探題は滅亡してしまう。これにより鎌倉軍はてんでんバラバラに自壊してしまったのじゃ。

治時は、長崎高貞、大仏貞宗・高直兄弟ら北条一門とともに興福寺に篭り抗戦を続けた。じゃが、鎌倉陥落の報らせを受けると、やむなく出家して降伏する。

そして建武元年(1334)7月9日、京都の阿弥陀峯で高貞らとともに処刑されている。享年16。 

満願寺に伝わる阿蘇流北条氏3代の墓

満願寺石塔群付杉群

満願寺石塔群付杉群(熊本県南小国町)

阿蘇流北条氏は、九州北部で勢力を張り、蒙古襲来以後、得宗家の九州での権力基盤を固める役割を担った。

熊本県阿蘇郡南小国町に「満願寺石塔群付杉群」といわれる県指定史跡がある。ここは阿蘇流北条氏3代の墓と伝えられている。

南小国町教育委員会による説明板には以下のように記されている。

「文永11年(1274)元寇の国難に際し国土安泰、戦勝祈願のため満願寺を建立した鎮西奉行北条時定、同弟定宗同嫡子随時三氏の墓である。同所は北条時定の孫治時がこの地を去る時に父祖の廟所を設けたもので、三基の五輪塔は鎌倉時代のおもかげをなし、背後に宝形があるのは特異な様式である。杉群も当時に植えたものであるという。」

幼き治時がこの地を去るとき、まさか二度と戻って来られない運命であるとは想像もしなかったじゃろう。世がよなれば阿蘇流北条氏当主として、わしの猶子として、邦時、時行とともに得宗家を、鎌倉幕府を支えていくべき存在であったはず。すまぬことをしたのう……