松井優征先生の『逃げ上手の若君』のおかげで北条時行への注目が爆上がり。それによりわし高時の認知度もぐんと上がっておる。ほんとうに嬉しい限りじゃ。そこで、あらためて北条高時の女性関係、時行らの家族について紹介しておく。アニメを視聴する際の参考にしてもらえたら幸いじゃ。
北条高時が生まれた時代
まずは北条高時が生まれた頃の鎌倉についてさらりと紹介。わし高時が生まれたのは嘉元元年12月2日(1304年1月9日)。父は9代執権・北条貞時公、母は安達泰宗の娘・大方殿(覚海尼円成)で、わしは三男であったが長兄と次兄は夭折したため、わしが嫡男となった。
嘉元の頃といえば、貞時公は執権を従兄弟の北条師時に譲っていたが、得宗として厳然たる力をもっていた。連署の北条時村を粛清するなど(「嘉元の乱」)、北条庶流との軋轢が激しかったのもこの頃じゃ。
名執権と賞された貞時公であったが、晩年は相次いで愛息を失った悲しみからか、酒宴に耽けることが多くなっていたという。じゃが、幕政は長崎氏ら御内人、外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆が主導し、滞りなく執り行われていた。
そのため、得宗もまた将軍同様にお飾り的存在になりつつあった。そんな中で、わしは執権の職を継ぐことになる。
北条高時は暗愚で色に狂っていた?
源頼朝公がつくり、150年にわたって武家を束ねた鎌倉幕府は、暗愚な執権・北条高時のせいで滅亡した。高時は日夜、酒宴を催し、美女をはべらせ、田楽にふけり、闘犬にうつつをぬかし、政務をほったらかした。これは日本史の通説じゃな。
じゃが、少しだけ言わせてくれ。たしかに高時は父・貞時公や祖父・時宗公に比べれば暗愚であった。田楽は好んだ。闘犬もやった。酒宴も好きじゃ。時頼公のような質素倹約を旨とする北条の気風からは少々外れていたかもしれぬ。
そもそも歴代得宗で暗愚と言われるのは多分高時だけじゃろう。実際に鎌倉はわしの代で滅亡しておるし、後世の誹りは甘んじて受けねばなるまい。じゃが、先ほども言ったとおり、この時期の鎌倉は御内人の力が強く、得宗も傀儡に成り下がっていた。その上、わしは生来の病弱で政務にしっかり向き合うことができなかったのじゃ。
それと、これだけは言いたいのじゃが、色に狂ったというのは断じて違うぞ。『北条九代記』には、わしが女を周囲にはべらせ、37人のお気に入りの美女に領地を与えたという記述がある。じゃか『北条九代記』は江戸時代に書かれたもので、史料としての信憑性は薄い。
そもそも高時が美女うんぬんという記述は同時代史料にはない。わしは蒲柳の質で、精力絶倫ではないからな。色欲に耽ったというのは誇張であり、暗愚高時の印象操作である。断固抗議したい。
北条高時の正室
では、わしのファミリーについて紹介していこう。なお、以下は、鈴木由美先生の『中先代の乱』(中公新書)を参考にさせてもらった。こちらは「逃げ若」を読むときにはバイブルとも言える一冊じゃから、ぜひおすすめしたい。
さて、わしの妻と子についてじゃが、はっきり確認できるのは正室と側室が1人ずつ、息子は2人ないし3人、娘は2人、猶子が1人である。
わしの正室は安達時顕の娘である。安達は源頼朝公が伊豆に流されていた頃から支えていた盛長を祖とする御家人で、鎌倉開府においては北条につぐ2番目の功臣じゃ。盛長の孫娘は北条時氏公と結婚し、若くして時氏公が亡くなると松下禅尼と称した。時頼公に障子の切り張りで倹約を教えた逸話がつとに有名なあの女性じゃよ。
蒙古を撃退した時宗公も貞時公も安達から正室を迎えている。そのため、安達は北条氏外戚として大きな権力を握った。そのため御内人筆頭の平頼綱は安達泰盛を讒訴して誅殺。いわゆる「霜月騒動」を起こした。このとき泰盛の弟・安達時顕は年少を理由に連坐を免れている。
じゃが、父・貞時公は執権を蔑ろに専横を始めた平頼綱を自ら粛清した。これにより安達は復権、時顕は「秋田城介」の名籍を継ぐ。その後、内管領には平頼綱と同族の長崎氏が就任する。かくして得宗家外戚の安達と御内人の長崎は、ともに微妙な関係を保ちながら鎌倉と北条を支えていくことになる。
父・貞時公は今際の際に、まだ9歳だったわしの後見を安達時顕と長崎高綱(円喜)に託した。やがて、わしは安達時顕の娘を正室に迎える。未亡人となったわしの母(大方殿、覚海尼円成)は安達庶流大室泰宗の娘である。当然、わしの正室も安達から出すべきと考えたわけじゃな。
しかし残念ながら、わしと安達時顕の娘との間には子が生まれなかった。わしの正室は同時代史料にその名すら出てこない。まことに影がうすい、薄幸の女性だったんじゃよ。
高時の側室と子どもたち
わしには2人の子どもができた。太郎邦時(万寿)と二郎時行(亀寿)じゃ。
太郎邦時を産んだ常葉前
太郎邦時を産んだ女性は、得宗被官の五大院宗繁の妹で、常葉前と呼ばれている。『鎌倉年代記裏書』 の元徳3年12月15日条には 「十二月十五日、太守禅閤第一郎七歳、首服、名字邦時、於御所被執行」と、太郎が7歳で元服した記録がある。ここから逆算すると太郎の生年は正中2年(1325)となる。このことは同年に記された金沢貞顕の書状によっても裏付けられる。
金沢貞顕の書状には、もう一つ注目すべき点がある。太郎が生まれた時、母上や安達の一門は御産所へ一切姿を現さなかったと記されているのじゃ。これは母上や安達が太郎の誕生を不快に感じていた証左であろう。「太郎は正嫡ではない」ということを露骨に態度で表したというわけじゃな。
もし太郎が得宗の跡目を継ぐことになれば、安達の外戚としての立場は失われる。太郎の外戚は長崎の小判鮫の五大院宗繁である。幕政はますます御内人に牛耳られてしまう。それを恐れたんじゃろう。安達と長崎は因縁の関係じゃからな。
二郎時行を産んだ新殿(二位殿)
さて、わしのもう一人の子は二郎時行。「逃げ若」で注目されているわしの次男じゃ。
二郎の母は古典『太平記』に側室「新殿」「二位殿」として登場する。新殿の出自は未詳で、二郎の生年についても記録がない。あるいはじゃが、太郎が正中2年生まれであれば、それ以降ということになる。「金沢貞顕書状」には、わしに「今度御出生の若御前」がいると書かれていることから、もしこれが二郎のことであれば、元徳元年(1329)12月頃の生まれと推定される。
ちなみに、この「今度御出生の若御前」は鶴岡八幡宮17代別当の有助(伊具流北条兼義)の門弟の居所に入ったとあるので、もしかしたら二郎は出家を予定されていたのかもしれない。もっとも、この若御前が二郎であるという確証はないので、あるいは高時の男子は3人だったのかもしれないけどな。
猶子・治時と娘たち
わしには2人の娘がいた。長女は正中元年(1324)に生まれたが3歳で夭折してしまった。元弘元年(1331)にも娘が生まれたが、母親が誰か、その後どうなったかは未詳である。敗者の娘など、記録に残らず歴史の闇に消えていってしまうのは仕方がないじゃろう。
あとは猶子の治時がいる。治時は北条得宗家傍流で代々鎮西に在住した阿蘇随時(ゆきとき)の子じゃ。治時は高時より15歳年下で、楠木正成が立てこもった赤坂城攻めの大将をつとめている。六波羅探題滅亡後に出家、降伏したが建武元年には処刑されている。
以上は中公新書、鈴木由美さんの『中先代の乱』を参考にさせてもらった。系図も紹介しておこう。
高時の後継をめぐるいざこざ
正中3年(1326年)、わしは病のため24歳で執権職を辞して出家した。すると案の定、わしの後継をめぐって長崎と安達の対立が始まった。
長崎円喜・高資ら御内人は生後わずか3カ月の太郎を後継に推した。いっぽう母上や安達時顕は太郎が庶子であることを理由に、わしの弟の泰家を推した。このとき、わしの正室の安達の娘が存命であったかどうかの記録はないが、おそらく存命で泰家を正嫡子が生まれるまでの中継ぎとし、嫡子が生まれなければ、泰家の系統に得宗を継がせててしまおうと考えたのじゃろう。
じゃが、長崎は先手を打った。太郎が成長するまでの中継ぎとして、強引に金沢貞顕を執権に就任させたのじゃ。これに母上と泰家、安達は大激怒。貞顕暗殺の風聞が流れると、貞顕は即座に辞任し、誰も引き受けてがいない中、赤橋守時が執権に就任した。
この「嘉暦・元徳の騒動」については、こちらに経緯を書いた。わしが父・貞時公にならい、一念発起して長崎を排除しようとした事件についても書いてあるので、ぜひ読んでほしい。
その後、最終的にわしの後継は太郎に決まる。元徳3年(1331)、太郎は慣例に倣ってわしと同じ7歳で元服。将軍・守邦親王の偏諱を受けて「邦時」と名乗ることになった。
すでに安達の血を引くわしの正室は亡くなっておったのかもしれぬ。あるいは存命でわあっても、もはや子ができる望みはなかったのかもしれぬな。時顕の嫡男・安達高景には長崎円喜の娘が嫁いでおり、安達と長崎の間には和解が成立したと考えてよいじゃろう。
ただ、得宗に太郎邦時が決まったことで御内人の発言力はますます強力になった。得宗も執権も完全にお飾りで、政体はすでに得宗専制から御内人専制へと変わってしまったのじゃ。
その幕政最大の実力者は長崎円喜・高資の父子じゃが、高資は特に評判が悪かった。大河ドラマ「太平記」では、若き足利高氏が「こんな鎌倉あああああああああ!」と嘆き叫んでいたのをご記憶の方もおられるじゃろう。
かくして北条のていたらくに、御家人たちの不満が燻っていく。各地に悪党が跋扈し、後醍醐帝は兵をあげ、かくして鎌倉と北条は滅亡への道を突き進んで行くことになる。
鎌倉炎上
正慶2年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め込んでくると北条一族は東勝寺で自刃、幕府は滅亡した。
このとき、わしは五大院宗繁に命じて太郎を密かに逃すよう命じた。じゃが、五大院は炎上する鎌倉を目の当たりにし、太郎を匿うことに何の益もないと思い直し、新田義貞に太郎を差し出してしまう。結局、太郎は鎌倉で斬首され、五大院もまた義貞に忌み嫌われ、どこぞで野垂れ死んだらしい。
常盤前は当然、この話の一部始終を聞いて悶絶したであろう。我が子の不憫、裏切った兄の憎しみ。気も狂わんばかりであったはずじゃ。
一方、次郎は泰家の手引きにより諏訪盛高に匿われ、信濃への脱出に成功した。その後は諏訪社の神官・諏訪頼重に庇護され、元服して時行を名乗る。
諏訪に雌伏した時行は挙兵し、建武2年(1335)7月28日、鎌倉を奪還する。このあたりは「逃げ若」をぜひ読んでほしいのじゃが、このとき、母の新殿がもし存命であったとすれば、死んだと思っていたわが子と感動の再会があったのかもしれない。
じゃが、太郎の母も二郎の母も、鎌倉炎上後の消息は全く記録にない。あるいは、母上・覚海尼とともに、北条の故郷・伊豆で一族の菩提を弔い、ひっそりと暮らしたのかもしれぬ。
なお、太郎と次郎の消息、中先代の乱の詳細はこちらも読んでもらえれば嬉しいぞ。