薩摩を旅したときに天璋院篤姫さまにもお会いしてきた。篤姫さまといえば、宮﨑あおいさんの大河ドラマが印象的で、最近では北川景子さん、上白石萌音さんも素敵じゃったな。
島津分家の今泉島津家から将軍家御台所に輿入れ
篤姫さまの実家の今泉島津家は、鎌倉時代の4代当主島津忠宗の次男忠氏が和泉(出水)を領有したことにはじまる。室町期には一度断絶したものの、江戸時代に薩摩藩4代藩主島津吉貴の七男忠卿が再興し、今和泉郷を領する一門家臣・今和泉島津家として成立した。
篤姫さまが生まれたのは、天保6年12月19日(1836年2月5日)、島津忠剛の長女で幼名は一(いち)。大河ドラマ「篤姫」の元気一杯の子役の演技が懐かしいぞ。
この頃の薩摩藩主は島津斉彬。斉彬は欧米列強が日本に迫り来る中、幕政改革を志し、英明の呼び声高い一橋慶喜を将軍に据えるため、将軍徳川家定の室に薩摩の姫を送り込むことを画策していた。じゃが、斉彬には女子がいない。そこで、篤姫さまを今泉島津家から養女に迎え、右大臣・近衛忠煕の養女を経由させ、将軍家御台所として送り込むことに成功した。
安政3年(1856)、篤姫さまは年寄の幾島を伴って大奥に入る。その輿入れの行列は、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然、渋谷の島津藩邸にいたというほどの豪勢なものであったという。輿入れに伴い、老中首座の堀田正篤は篤姫の名を憚って正睦に改名したという話もあるぞ。
篤姫輿入れは将軍継嗣とは無関係だった?
これまで篤姫さまの輿入れは、一橋派の斉彬が将軍継嗣問題で、慶喜を次期将軍にするためであったとされてきた。大河ドラマも小説もそう描いてきたし、西郷吉之助もそのために奔走していた。じゃが、最近では芳即正さんの研究成果により「島津家からの輿入れ構想そのものと将軍継嗣問題は無関係」とする見方が定説になりつつあるようじゃ。
そもそも島津家に縁組を持ちかけたのは大奥からで、その話は家定が将軍になる前からあったという。篤姫輿入れの理由も、家定が虚弱で子女が一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したことから、とにかく丈夫な御台所を迎えて大奥の主に据えたいということにあった。かつて島津家出身の御台所・広大院(茂姫)を正室に迎えた将軍徳川家斉は長寿で精力絶倫の子沢山であり、それにあやかろうとしたというのが真相らしい。
また島津側としても、広大院没後の幕府とのパイプを取り戻したいという意向もあった。そこで斉彬は篤姫さまを将軍家定へ輿入れさせることにしたというわけじゃ。ちなみに広大院の最初の名前は篤子。篤姫さまの名も広大院にあやかってのものである。
ちなみに、明治の歴史学者たちが旧幕勤仕の故老たちへの聞き取りした内容を記録した『旧事諮問録』では、将軍継嗣については「まず十人まで紀州の方を望みました。それは、天璋院様が紀州を好いとしておられましたからでございます」とある。勝海舟も天璋院さまは慶喜公が嫌いであったというような証言を残しておるし、やはり篤姫さまの輿入れは将軍継嗣問題とは直接関係はなかったのかも知れぬな。
篤姫の癒し、猫のサト姫
ところで篤姫さまは動物好きとしても知られておる。ほんとうはわしと同じで愛犬家で、将軍家に輿入れする前は狆を飼っていたという。篤姫さまの養父である島津斉彬も水戸の徳川斉昭に狆を贈ったという記録もあり、仙厳園で狆を散歩させたりしていたかもしれぬな。
じゃが、夫の家定は犬が嫌いだったので、篤姫さまは仕方なく猫を飼っていた。1匹目はミチ姫と名付けられたが、残念ながら早世してしまった。2匹目はサト姫で、御中臈の飼い猫が子猫を産んだ際に貰い受けたものじゃ。
『御殿女中の研究』で、大奥御年寄瀧山の姪に当たる御中臈・ませが、サト姫について証言している。
サト姫のお世話掛は全部で3人。紅絹紐の首輪には銀製の鈴がついており、紐は毎月新しいものに交換していたという。猫の餌代は年間25両!(現代の約250万円)。アワビの貝殻型の専用食器を使って篤姫さまと一緒に食事をと理、精進日は生ものが食べられないため、鰹節とドジョウを食べていた。夜はいつも竹籠に縮緬の専用布団で寝ていたという。にゃんとも羨ましいニャンコである。
島津の分家の身から将軍家御台所となった篤姫さまは、大奥暮らしでは何かと肩も凝り、辛い思いをしたこともたくさんあったじゃろう。そんなとき、猫たちが篤姫さまにとっても癒しとなっていたんじゃろうな。
ちなみに、ペリーが日本にもたらしたミシンを日本人として初め使ったのも篤姫さまらしい。大河ドラマ「篤姫」で、篤姫さまが井伊直弼に茶湯で使う袱紗を縫っていたシーンを思い出したぞ。
嫁姑問、天璋院と和宮は不仲だった?
安政5年7月6日(1858年8月14日)、将軍家定が急死する。篤姫さまの結婚生活はわずか1年9カ月で終わってしまい、以後は落飾して天璋院を名乗る。さらに同月16日には島津斉彬までもが没し、天璋院さまの波瀾万丈の後半生がはじまった。
文久元年12月11日、和宮親子内親王さまが将軍徳川家茂御台所として大奥に入った。家茂は生涯側室を持たず、和宮さまを大切に扱ったことから、夫婦は仲睦まじく暮らしていたらしい。じゃが、天璋院さまと和宮さまの関係は当初、いろいろとあったようじゃな。
和宮さまと一緒に大奥にやってきた庭田嗣子は、京へ送った書状の中で恨み節を綴っている。
- 対面のとき、天璋院は上座にあって会釈もせず、和宮には敷物すらなかった
- 天璋院は和宮にさまざまな無礼を働く
- 「何事も御所風に」という約束が反故にされている
- 和宮や自分たちの部屋が狭くて暗い
- 大奥の女中たちの振る舞いに和宮は涙したことすらある
「何事も御所風に」という和宮さまサイドと「大奥には大奥のしきたりがある」とする天璋院さまサイドでは軋轢が生じるのは仕方がない。じゃが、天璋院さまと和宮さまが不仲だったのは、お付きの者どうしの意地の張り合いがそもそもの原因じゃ。勝海舟は後年、こう証言している。
和宮と天璋院とは、初めは大層仲が悪かつた。会ひなさるまではね。お附のせいだよ。初め、和宮が入らした時に、御土産の包み紙に「天璋院へ」とあったそうな。いくら上様(皇女)でも、徳川氏に入らしては(天璋院は)姑だ。書きすての法は無いといつて、お附が不平をいったさうな。それであつちですれば、こつちでもするといふやうに競つて、それはひどかつたよ(『海舟語録』)
そんなわけで、天璋院さまと和宮さまの関係は徐々に改善していく。また、勝海舟はこんなエピソードも披露している。
或る時、浜御殿(現在の浜離宮)へ天璋院と将軍と和宮と三人で居らしたが、踏石の上にどういふものか天璋院と和宮の草履をあげて、将軍の分だけ下に置いてあつたよ。天璋院は先に降りられたがね、和宮はこれを見て、ポンと飛んで降りて、自分のを除けて、将軍のを上げて辞儀なすつたさうで、それでぴたと静まったよ『海舟語録』)
この事件(?)で天璋院さまは和宮さまを大いに見直し、以後二人はよき嫁姑の関係になったそうじゃよ。
天璋院さまと和宮さまは維新後も親しく交流している。二人が勝海舟の屋敷で昼食をとったとき、お櫃のご飯をどちらがよそうかとなったので、勝がもう一つしゃもじを用意すると、お互いの茶碗にご飯をよそいあったというほっこりエピソードも伝わっておるぞ。
大奥の終焉と晩年の天璋院
慶応3年11月、徳川慶喜は大政奉還をするも鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝敵となって江戸に逃げ帰ってきた。このとき、天璋院さまは島津家に、静寛院宮さま(和宮)は朝廷に、徳川家救済と慶喜助命の嘆願書を提出している。
嫁と姑が協力して嫁ぎ先のために実家に働きかけたというわけじゃ。それがどの程度効果があったのかは定かではないが、ともかくも西郷と勝の歴史的会談により、江戸無血開城が決定する。
大河ドラマ「篤姫」では、英国のパークスに手を回して江戸総攻めを中止させようとした勝に西郷が怒り出し、会談が決裂寸前に陥る場面があった。あわてた勝は「西郷に渡して欲しい」と天璋院から託された島津斉彬から篤姫宛の書状を渡す。それを見た西郷は愕然とし、落涙しながら書状を読み、心をあらためて江戸総攻め中止を決断したという展開が描かれていた。
もちろんこれはフィクションじゃが、歴代大河ドラマの中でも屈指の名シーンじゃとわしは思っている。他にも、京に戻っていた幾島が天璋院を救うためにとつぜん江戸にあらわれ、厳重な官軍兵を蹴散らしながら西郷への使者をつとめる場面もあったが、この場面も涙なくしては見られない。この大河はほんとうに名作じゃったと思うぞ。
維新後、天璋院さまはけっきょく鹿児島には一度も戻らず、千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らした。東京を離れることはほとんどなく、病気療養中の和宮を箱根に見舞ったのが生涯唯一の旅行であった。
生活は質素そのもので、徳川宗家16代家達の教育に心を砕いていたが、 明治16年(1883年)11月13日に脳溢血で倒れ、20日に世を去る。享年49。天璋院さまは大奥の関係者の就職先や縁談の斡旋に奔走したため、最後の所持金はわずかに3円(現在の6万円)しかなかったそうじゃ。まさに「女の道は一本道でございます。定めに背き引き返すは恥にございます」。大河ドラマで老女・菊本が於一に残した遺言を全うした天璋院篤姫さまの人生じゃな。
天璋院さまの葬儀には、沿道に1万人もの人々が集まった。天璋院さまは徳川家の菩提寺である上野寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣にひっそりと眠っている。
なお、ひとつ朗報があるぞ。4月から毎週日曜日午前11時30分、毎週木曜日午後6時15分、NHK BS4Kで各話2回ずつ大河ドラマ「篤姫」が再放送されるぞ。4Kリマスター版というから、薩摩の美しい風景と絢爛豪華な大奥が迫力映像で楽しめること間違いなしじゃよ。