北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三浦義村の最期~三浦半島は金田湾岸、南向院跡にある墓前で合掌

きょうはぷらっと三浦半島の金田湾へ。金田湾は久里浜の南、県道215号沿いに広がりのんびりした海岸で、朝市も行われてる。ただ、今日の目的はお魚ではない。三浦義村の墓前に手を合わせてきたぞ。

三浦義村の墓

三浦義村の墓へのアクセスは、専用の駐車場はないものの、わしは朝市の駐車場に止めさせてもらった。公共交通機関なら、京浜急行の三浦海岸駅からバスで10分ほどの「岩浦」バス停で下車するとよい。「三浦義村の墓」の文字が壁面にうっすら書いてあるので、そこの階段を上がっていく。近くに民家もあるので、静かに上がっていくんじゃぞ。

つねに北条義時に与した三浦義村

三浦義村は、三浦義澄の嫡男で母は伊東祐親 の女 。石橋山の旗揚げから源頼朝公に従い、その後の源平合戦では父・義澄とともに源範頼軍に属して戦った。頼朝公が没し、鎌倉がざわつきはじめると、梶原景時を排斥し、同族の和田義盛を葬り、将軍実朝殺事件では公暁を誅し、終始、北条に与してきた。承久の乱では、実弟の胤義から朝廷に荷担するよう誘いを受けたがこれを断り、北条泰時公に従って上洛し、武功をあげている。こうしてみると、義時公の盟友といってもよいじゃろう。

大河ドラマで山本耕史さんが演じた三浦義村(NHK)

大河ドラマで山本耕史さんが演じた三浦義村(NHK)

このあたりの活躍は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、山本耕史氏の諸肌脱いだ好演でみなにもおなじみじゃが、その後の義村についても、ざっくりふりかえっておこう。

義時公没後に起こったのが伊賀氏の変じゃ。義時公の正室・伊賀の方(ドラマでは のえさん)が自分の実子の北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にしようと画策したとされる事件じゃ。義村は政村の烏帽子親であり、当初はこの陰謀に関わったとされる。

じゃが、政子さまの説得により、泰時公支持に翻意する。この陰謀事件は真相がはっきりせず、自身の影響力低下を危惧した政子さまのでっちあげたという説もあるが、今回は深追いはやめておこう。

その後、大江広元や政子さまが相次いで死去すると、鎌倉は新しい時代に入っていく。泰時公は合議制による政治をめざし、評定衆を設置する。もちろん義村も評定衆に就任し、その重責を担う。

御成敗式目の制定にも「前駿河守平朝臣義村」と署名しておるし、4代将軍・藤原頼経が初めて上洛した際には、その先陣を勤めた。椀飯の沙汰では、三浦は北条に次ぐ地位となり、義村は幕府草創期を知る宿老として絶頂期を迎えたというわけじゃ。

三浦義村の急死。死因は脳卒中か

さて、義村の最期について。『吾妻鏡』延応元年12月5日の条には(1239年12月31日)、義村の死が簡潔に記されている。

酉の刻前の駿河守正五位下平朝臣義村卒す。頓死・大中風と。夜に入り前武州故駿河前司の第に向かう。彼の賢息等を訪わしめ給う。人々群集す。左馬助光時将軍家の御使たりと。

「中風」とあるから、脳卒中による急死のようじゃな。その夜、泰時公をはじめ人々が三浦屋敷に集まり、名越光時が将軍頼経様の名代として弔問に訪れたとある。ちなみに三浦の屋敷は、鶴岡八幡宮東北、大倉御所西、現在の横浜国大附鎌倉小中学校敷地の北半あたりじゃよ。

福寿寺(神奈川県三浦市)

福寿寺(神奈川県三浦市南下浦町金田)

三浦義村の遺体は、本人の遺言により、福寿寺の塔頭南向院に葬られた。福寿寺は義村が要害の地に建立した寺院で、ご本尊は聖観世音菩薩。いまなお、義村の鎧、鞍、脇差が伝わっていおり、一の谷鵯越の山路で源義経軍が迷った時、義村の馬首に地蔵尊が現れ勝利に導いた「勝軍地蔵」も祀られている。義村はのちにこの地蔵を塔頭の南向院に祀ったそうじゃ。

三浦義村の墓所(南向院跡)にて

南向院があったのは福寿寺のほど近く、金田湾沿いの高台の場所じゃ。今では廃寺となっているが、義村の墓はその跡地にある。

『新編相模国風土寄記稿』には「碑高七尺許」と記されているが、ざんねんながら関東大震災で金田湾に崩れ落ちてしまったらしい。現在の石塔は、地元の人が拾い上げて組み直したもので、その近くには地元有志らによって建てられた新しい墓もあった。

三浦義村の墓

三浦義村の墓

南向院跡から臨む金田湾

南向院跡から臨む金田湾

三浦義村といえば策謀家、陰謀家という印象がある。じっさい、藤原定家も「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と記しており、義村の行動が同時代の人物の眼から見ても理解不能であったことをうかがわせる。

じっさい、わしも義村は食わせものじゃったと思う。そして、三浦の北条への対抗心は半端なかったと思うっている。それゆえ、義村の死後、北条と三浦の溝は深まり、両雄並び立たず、最終的には宝治合戦で三浦嫡流は滅んでしまう。時の執権、北条時頼公は、最後まで三浦を救おうとしていたんじゃが、安達が……。

もちろん、勝負は時の運。

まあ、その話はこちらで読んでもらえれば幸いじゃ。

hojo-shikken.com