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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

宇喜多秀家公潜居地跡~薩摩は牛根郷へ逃げた豊臣の貴公子を偲んで

太守の鹿児島訪問記。今回は垂水市牛根麓にある宇喜多秀家公潜居地跡についてじゃ。以前、八丈島に行ったとき、宇喜多秀家の墓参りをしたのじゃが、じつはそのときから機会あれば牛根にも訪れてみたいと思っていたんじゃよ。

ちなみに八丈島に秀家の墓を訪ねたときの記事はこちらにあるので読んでもらえたらうれしいぞ。

関ケ原に敗れ、薩摩に逃れる

備前宰相こと宇喜多秀家は宇喜多直家の子で豊臣五大老のひとり。子どもがいなかった豊臣秀吉の寵愛を受け、前田利家の娘で秀吉の養女となっていた豪姫を妻に迎えていた。そんなこともあって秀家は豊臣家の貴公子として将来を嘱望される存在じゃった。

関ヶ原の合戦では西軍最大の軍勢を率いて西軍の副将格として石田三成に与して勇躍奮戦する。しかし戦に利あらず。秀家は従者を伴って山中に逃げ込んだ。

その後は山中の農民のもとに潜伏。報せを受けた大坂の宇喜多屋敷からの支援を受けて堺に脱出する。一説には、堺の実母・お福(円融院)の邸に匿われたともいい、このあたりの真偽は定かではない。じゃが、いずれにせよこの間、秀家は自害を偽装し、宇喜多伝来の名刀国次が本多正純に差し出しされている。

宇喜多秀家

宇喜多秀家

そして秀家は海路、薩摩をめざす。ともに西軍として戦い、敵中を突破して薩摩に戻った島津義弘を頼り、そこで一戦交えようと考えたのじゃろう。

関ケ原の戦後処理が進む中、島津は武備恭順という強気の構えを崩さず、本領安堵を求めて徳川と粘り強い交渉を続けていた。慶長5年9月30日(1600年11月5日)、当主の出頭要請を拒み続ける島津に対し、家康は九州の諸大名に出兵を命じている。

じゃが、島津の兵は精強である。もし戦が長引くようなことになれば、ようやくつかみかけた徳川の天下も崩れかねない。九州南端まで攻め込むのは金も時間もかかるしな。家康は11月に一時撤収を命じたが、島津と徳川の緊張関係は依然として続いていた。島津を頼ったのは秀家にとってベストな選択だったじゃろう。 

牛根郷、平野屋敷での逃亡生活

秀家主従は、はじめ薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に到着した。島津義弘は秀家を厚遇し、鄭重に出迎えたという。もちろんこれは義弘の義侠心であったじゃろう。あるいは義弘は、豊臣恩顧の秀家の存在が徳川と一戦を交えることになったときに役に立つと考えたのかもしれぬな。また真偽のほどは疑わしいが、秀家は密かに島津に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説もある。

山川港

現在の山川港(鹿児島県指宿市)

じゃが、いっぽうで島津としても徳川との和睦交渉も続けている最中に、秀家主従を表立って匿うことは憚られる。そこで秀家は鹿児島ではなく、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)の平野家に留め置かれることになる。

牛根の豪族平野氏は平家の一族。壇ノ浦の合戦に破れてこの地に土着したといわれている。ちなみにこの近くには安徳天皇陵と伝承される五輪塔がある。また、山伏に化けて平家の落人を追ってきた源氏の七人の残党狩りを、平野家の剣客が斬り倒し、それを供養したとされる「七人塚」もある。

宇喜多秀家潜居地跡

平野家は、本宅として山腹に上屋敷、錦江湾に面して下屋敷を構えていた。秀家は上屋敷に匿われたらしい。そして下屋敷は海路からの侵入を見張り、もし追手が来れば、上屋敷の裏手の峠へすぐに逃げられるようになっていた。

秀家はこの時代にあって170cmの長身。眉目秀麗で登城すると女たちがざわついたというから、この地でもけっこう目立つ存在だったじゃろう。

牛根に落ち着いた秀家は改名して休復を名乗る。そして2年3ヶ月の潜居生活の間、毎日3km離れた居世神社に足しげく通い、家臣や旧領岡山の領民の安寧を祈り続けていた。

そんな秀家じゃから、平野家はもちろん牛根の人々からも大いに親しまれたはずじゃ。また旧臣たちが密かにこの地を訪ねてきたという話もある。

慶長7年(1602)、徳川との和睦が成り、島津の本領は安堵された。じゃが、この頃から、島津が秀家を庇護しているという噂が広まりはじめる。

島津としてはこの時期に徳川の心証を悪くすることはできない。家督をついでいた島津忠恒は秀家に自首をすすめ、その助命嘆願に動き出す。

しかし、西軍副将を務めた秀家に対する徳川の怒りは大きく、秀家を死罪にしようとする意見が多かった。そこで忠恒は本多正信を介して秀家の罪の軽減をあらためて願い出る。また同時期に豪姫の兄である前田利長も秀家の助命を願い出た。かくして秀家は死罪を免れた。家康は秀家助命について、「これは島津の面目をつぶさぬ為に許す」と語ったという。

慶長8年(1603)、秀家は身柄を引き渡され、駿河国久能山へ幽閉された。そして慶長11年(1606)4月、15歳の長男、13歳の二男とともに、秀家は八丈島に流罪となった。

秀家は島で2人の子をもうけ、明暦元年11月20日(1655年12月17日)、84歳の天寿を全うした。明暦元年といえば4代将軍徳川家綱の治世である。秀家は、関ヶ原合戦に参戦した諸将の中で最後まで生き残ったんじゃよ。

うたた寝の夢は牛根の里にさえ…

さて、現地の様子じゃ。山道を歩いていくとちいさな祠があった。その横には、八丈島の墓と同じように岡山城の石が安置してある。令和2年10月19日とあり、いまなお秀家が岡山人に愛されていることがよくわかる。

宇喜多秀家公潜居地跡

宇喜多秀家公潜居地跡

祠の脇にはソテツが植えてある。八丈島にある秀家手植えのソテツを株分けしたものじゃろう。

うたたねの夢は牛根の里にさえ
都忘れの菊は咲きけり 

秀家がこの地で詠んだ歌じゃ。まだ豊臣家は健在ではあったが、世の中は徳川の治世で落ち着き始めている。雄大な桜島を日々眺める生活の中、秀家の猛き心も穏やかになっていったのじゃろう。もともとお坊ちゃん育ちであり、戦国のギラギラがつがつした気風はなさそうじゃしな。

宇喜多秀家公潜居地跡

宇喜多秀家公潜居地跡

平野家では、秀家公が牛根を去った後も、毎年旧暦11月の初めの申の日に秀家の追善の神事を欠かさず執り行い、いまなお、この地に健在である。明治になって八丈島から本土に帰ってこられた秀家の子孫の方々とも交流もあるらしい。

垂水市と岡山市との交流も盛んなようじゃ。この潜居地跡も平成24、25年の鹿児島県の整備事業で遊歩道が整備がされた。残念ながら平成28年の台風によるがけ崩れで奥のほうまでは入れなかったが、当時の秀家を偲ぶことは十分にできたので、よしとしたい。