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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

松野重元の関ケ原~「小早川に裏切りの軍法は無い」

 先日、小早川秀秋の冤罪について書いたが、関連してその重臣・松野主馬重信についても紹介したいと思う。なかなか律儀な忠義者じゃよ。

関ヶ原、松野重元

松野主馬重元の出自

小早川秀秋は日本史上もっとも有名な裏切り者として扱われているが、松野主馬は筋を通した忠義者として、知る人ぞ知る存在。

父の松野重定(平八)は美濃の土岐氏に使えていた。その後は豊臣秀吉馬廻として仕え、天正15年(1587年)に九州征伐で戦死したという。重元も父を継いで秀吉に仕え、天正19年(1591年)に丹波国多紀郡富田・屋代に300石を与えられ、後に豊臣姓を賜っている。

文禄4年(1595)、小早川隆景の養子となった木下家定の五男・秀俊(小早川秀秋)が丹波亀山から筑前名島へと移封になったとき、秀吉の命で小早川氏の重臣として派遣され、鉄砲頭に任じられる。このとき、従五位下主馬首に叙任される。たぶん、秀吉の信頼はかなり厚かったのだろう。その人物・人柄を見込まれたんじゃろう。

伯父・平助「命は義に依りて軽し」

主馬の忠義を語るには、伯父の松野平助(一忠)を忘れてはなるまい。平助はもともと西美濃三人衆のひとり、安藤守就に仕えていた。しかし、突然信長に追放されてしまう。このとき、平助はその武勇を信長に見込まれ、馬廻りとして直接仕えることになる。

やがて本能寺の変が起こると、平助はその報せを聞いてかけつけたが、救援には間に合わなかった。このとき、明智光秀重臣斎藤利三が、同じ美濃衆の誼として、平助に味方に加わるよう使いを出す。

今度、松野平助、ほど遠くこれありて、時刻過ぎて、妙顕寺へ走り来候ところ、 斎藤内蔵佐、連々 知音たるに依りて、 内蔵佐方より妙顕寺へ使者を差し越し、「 早々罷り出で、 明智日向守に礼を申し侯へ。何事も苦しかるまじき」と申し越し侯ところ、 平介、信長公へ召し出だされ侯 右の子細、各寺僧の衆へ、条々申し聞かせ、「 かたじけなくも、過分の御知行下され、御用にも罷り立たず。あまつさえ、御敵へ降参申し、主と崇むべき事、無念なる 」の由申し、知音の方へ送状を書き置き、追腹仕り候。誠に誠に、”命は義に依りて軽し” と申す本文、この節侯なり。(「信長公記」) 

「命は義に依りて軽し」。平助は、信長への恩義を理由に斎藤利三の誘いを断り、追い腹を切って自害する。主馬にもまた、こうした忠義の心が受け継がれていたんじゃろう。

運命の関ケ原「小早川に於て楯裏の裏切りする軍法は無し」

そして運命の関ヶ原合戦。秀秋はかねてからの計画通り、徳川に味方する。このとき、小早川隊にあって裏切りを拒否したのが松野主馬じゃ。

関ヶ原合戦屏風』にも、松野主馬と平岡石見が口論となり、主馬が戦線を離れる場面が描かれているが、江戸時代に記された『明良洪範』にはこうある。

此裏切延引の話は秀秋の先手一番備へは松野主馬と云者也しが、裏切の事は密事なれば秀秋未だ主馬迄へは知らせざる故也。 
されば主馬は西方の心得故東方を一番に突崩さんと思ひ居る所へ主人秀秋より使者来て「是迄は西方なれど故有て俄に東方に成りければ早々西方へ切掛り申べし」 と云 ふ。 
主馬答て「東方へ加勢の思召しならば初めより東方と仰聞らるべきに只今になりて東方に加勢するは楯裏の裏切り也。左様なる不義の軍法は小早川家には無き事に候。我等に於ては同意仕らず候」と申切て厳重に陣を構へ居ける。
是に因て秀秋大いに当惑し家老石見を遣はして種種異見申せども主馬一向承引せず。先陣の大将かくの如くなれば陣中一致せず。 
秀秋甚だ心配する気色を見て村上忠兵衛と云近習の士「我等主馬を承伏さすべし」 と云て急ぎ主馬方へ来りて「何とて西方へ打掛り申さずや」と云ふ。 
主馬答へて 「小早川に於て楯裏の裏切りする軍法は無し」と云ふ。 
忠兵衛 「主人よりの下知を用ざるは貴殿こそ楯裏のうらぎりならん扨々聞えぬ申分哉と云ければ、主馬然らばとて吾一陣を引連れて本国へ帰りける

「小早川に於て楯裏の裏切りする軍法は無し」…かっこういいではないか。秀秋もさぞや困惑したじゃろう。この際、「主馬は中途採用で譜代の小早川家家臣ではない」というつっこみは余計じゃよ。伯父も父も忠義の武将であったが、秀吉は主馬のこういうところを見込んで秀秋付きとしたのじゃろう。

田中吉正に仕える

この後、主馬は小早川家を辞す。ただ、こうした忠義者を他の武将が放っておくはずはない。その後、主馬は田中吉政に仕え、治水工事など民政に手腕を発揮している。

しかし、ほどなく田中吉政は無嗣断絶により改易。その後、主馬は将軍・徳川家光の弟の駿河大納言・忠長に仕えるが、これまた改易。その後は仕官することなく、明暦元年(1655年)に奥州で没したとも、京都で死去したともいう。墓所妙心寺塔頭海福院。

主君には恵まれない男だったようじゃな。

なお、わしは主馬の行き方は律儀であり、立派なものだとは思っておるが、小早川秀秋を単なる「裏切者」「卑怯者」とは思ってはいない。その件については、こちらを読んでもらえれば幸いじゃ。

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