少し間があいてしまったが、九戸政実についての続きじゃ。今回は、九戸城跡訪問のときの雑感と、九戸政実の乱に関する備忘録ということで、書きとめておきたい。
東北新幹線二戸駅からバスでほど近く、九戸城跡に到着。ちょうどボランティアガイドの方がいらっしゃって声をかけてくれた。「どちらから?」「鎌倉です」「遠くからわざわざありがとうございます」などと挨拶をかわす。このおもてなし感がうれしいではないか。
この城跡の碑があるところは、ちょうど大手門があった場所らしい。ガイドブックによると、当時、このあたりには沼地があったそうで、堀をこえて攻め込んでいくのは難儀したであろうと思われる。こういうことを想像しながら歩くのが史跡めぐりの醍醐味じゃな。
天然の要害・九戸城
九戸城は中世の平城で、九戸氏代々の居城。古記録には九戸政実の4代前、光正の時代に築かれたとある。白鳥城という別名があり、安倍頼時の子・行任が築いたという伝承もあるが、確かなことはわからない。また、政実の代に鹿角郡奪回の功によりこの地を加増されて移ってきたという説もあり、高橋克彦さんの小説『天を衝く』では、この説をとっている。
「俺が作る平城は違う。好きなだけの土地に土を盛り、城の周囲を二重三重の堀で守る。場内には無数の米倉を並べ、五、六千もの兵が一年も籠ることができるようにする。それでこそ本当の城というものだ」(『天を衝く』)
西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川と、三方を川に囲まれ、攻め口は大手門一つしかない天然の要害である。本丸、二の丸、三の丸、若狭館、外館、石沢館などの曲輪で形成され、その大きさは、なんと東京ドーム10個分! その規模は東北有数で、本家である南部氏の三戸城を凌ぐ。現在、三の丸は宅地化されていて当時の面影は残ってないが、それでも本丸から四方を眺めると、九戸党気分は十二分に味わうことができる。
この地に上方の軍勢10万が攻め込んできたのは天正19年(1591)のこと。世間では、豊臣秀吉の天下統一というと、その前年の小田原北条攻めをもって完了と思われているが、じつはそのあとに奥州仕置があったことを忘れてはなるまい。
秀吉の強引な奥州仕置は各地で軋轢を生み、一揆が頻発していた。九戸政実も、本家の南部信直と対立して乱を起こすが、このときすでに信直は豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため、政実の乱は豊臣政権への反逆とみなされた。かくして政実は、九戸城に豊臣の大軍を迎えうつはめになる。
なお、九戸政実が南部信直、そして豊臣秀吉に反旗を翻した経緯については、こちらに書いたので、あわせて読んでいただければ幸い。
奥州仕置軍、九戸城を包囲するも……
櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、政実は南部信直を相手に5千の兵で挙兵する。九戸党の精鋭は強く、あっという間に南部信直の三戸城を囲む諸城を落とし、優位に立つ。あわてた信直は息子の利直と重臣の北信愛を上方に派遣し、秀吉に援軍を要請する。
かくして豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍が編成され、討手大将の蒲生氏郷率いる3万5千が進軍を開始する。豊臣軍は九戸城の前衛拠点である姉帯城、根反城を落とすと、南部信直ら奥州勢3万と合流。総勢6万5千の兵でわずか5千が籠る九戸城を包囲する。城の西側には津軽為信、松前慶弘、秋田実季、小野寺義道、仁賀保勝利、北側には南部信直、東側には井伊直政、浅野長政、そして大手門がある正面南側には蒲生氏郷、堀尾吉晴が陣を敷いた。
九戸政実の乱について、軍監をつとめた浅野長政は上方への報告に「(九月)二日より執巻、早堀際まで仕寄申処に、九戸髷をそり、恐入申候」と記している。大軍で包囲したところ、あっさりと政実は降伏してきたと。じゃが後世、南部側で作成された資料や軍記物には、九戸党の奮戦ぶりが随所に記されている。豊臣の威光を損なう都合が悪い歴史は消したかったのか。いずれにせよ、覚悟のうえで挙兵した九戸党が、そんなあっさり城を明け渡すはずはないじゃろう。
「勝つばかりが武者の誉れではないぞ」
七戸家国は声を張り上げて続けた。
「己の命の値を相手がどれほどにみるかということも大事じゃ。秀吉は我らに十万を差し向けた。ありがたく受けねばならぬ」
おおっ、と皆は拳を上げて床を叩いた。「我ら一人の問題ではない」
政実が口にすると広間は静まった。
「また、敵とて秀吉一人ではない」
「…………」
「いつの世にも秀吉と変わらぬ理不尽な者が現れよう。それに対して我らは抗うのだ。未来永劫、我らの戦が範となる」
皆はどっと泣き伏した。(『天を衝く』)
『天を衝く』には、意気軒昂な九戸党の戦ぶりが生き生きと描かれている。そんなことを思い出しながらこの地に立つと、自然と胸が熱くなるわい。
広大な二の丸から本丸へ向かう。本丸への入り口は2箇所あるが、そのうち虎口は、クランンク状に屈曲しており、侵入する敵は正面左右からの攻撃に晒されることになる。九戸党はもちろん鉄砲をかなり保持していたじゃろうし、数を頼んで無理押ししても損害が増えるばかり。この城に籠る兵の士気は、さぞや旺盛だったはず。『天を衝く』に出てくる蒲生氏郷は気の毒なくらい凡将に描かれているが、だれが攻めても苦戦は必至だったじゃろう。
翌日の未明、南部と徳川の連合軍は、薄闇に紛れて城に接近した。
徳川の隊より一人の騎馬武者が飛び出して大手門に向かった。
「九戸政実に申し伝える! 我ら徳川家康に仕える者。こたび義あって南部信直どのに支援仕る。豊臣秀吉様の命を受けて参陣せし総数は8万5千。覚悟するがよい」
騎馬武者は声を張り上げた。
「無益な殺生は好まぬところなれど、この上は互いに武者としてまみえるのみ。よいか、しかと申し伝えたぞ!」
布告の使者が攻城を終えるのを待ち構えていたように大手門が素早く開けられた。
「聞くまでもない!」
歓声をあげて門から百ほどお騎馬兵と四百ばかりの鎧武者らが駆け出てきた。いきなりの出現に布告の使者は仰天した。まさか大手門の裏に多くの兵らが潜んでいるなど想像もつかなかったことである。
騎馬兵らは迷わず門の近くまで進んでいた梯子隊に突入した。梯子隊は重い梯子を抱えているのでまったく身動きがとれない。しかも左右は深い堀で逃げ場がない。たちまち退路を断たれて孤立した。長い槍を手にした騎馬兵が蹂躙する。(『天を衝く』)
『天を衝く』では、九戸実親の進言により、前九年の役の折、攻め寄せる源氏の軍に対して安部宗任が厨川の柵で用いた作戦を実行し、豊臣軍に大損害を与えている。堀に籾殻をまき、さも陸地のようにみせかけて敵を誘い込んで殲滅するという作戦じゃ。じっさいにこのような作戦が実行されたかどうかは怪しい。じゃが、三方を川に挟まれ、これだけの要害で豊臣軍が苦戦したことは確かじゃろう。なんせ攻め口は限られている。どれだけ大軍を擁していたとて、そこを鉄砲で塞がれては、城を包囲するしか打つ手はない。こんな辺境の城一つ、すぐさま踏み潰せる。そうたかをくくっていた上方勢の思惑ははずれることになる。
(浅野)長政は頷いた。
「少し急ぎすぎたのかもしれぬ」
「なにがですか」
「陸奥だ。秀吉さまの目はせいぜい伊達で止まっていた。なにほどのこともあるまいと軽く見ておられた。あと、二、三年は様子を見ても遅くはなかったの」
「二、三年待ったところで政実どのの心はー」
「南部の棟梁は信直どのと思い込んでいた。それを言うておる。二、三年、知らぬふりをしていれば変わっていたやも」
(津軽)為信はじっと長政の本意を探るように見詰めた。思いがけない言葉である。
「前田利家どのが信直どのに肩入れしていた。それで疑念を持たずに陸奥へ赴いたが……だいぶ様子が違っていた。それ以前の経緯もよくは知らぬ。今は悔やんでいる」
「いかにも……遅過ぎでござります」
為信は複雑な顔で返した。ここでそれを言ったとてどうしようもない。
最後は騙し討ちで鎮圧
そもそも、この戦は南部のお家騒動の尻拭いのようなもので、大した恩賞は期待できない。当然、こんなところで死んでは馬鹿らしく、味方の戦意は上がらない。包囲はしているものの、九戸党の士気は高い。長引けば長引くほど、豊臣の面子にかかわるし、誠政実に呼応するものが出てこないとも限らない。奥州には豊臣に内心不満をもつ者は少なくない。しかも、遠からず冬将軍がやってくる。雪の中での野営など、上方の軍勢にはたまったものではない。
やむなく豊臣方は和議に動き出す。「政実ら主だった将の命と引き替えに城兵すべての命を助ける」という条件で、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者として城内に送り込んだ。
「これから先、敵の二万を殺すより、手前に尽くしてくれた五千を生かすことの方が大事。自明の理にござろう。そこまで間抜けではないつもり。せっかくの申し出。ここはありがたく受けるのが正しき道。いかにも十万の援軍が来てからでは和議など有り得ぬこと」
「首を差し出せという和議も理不尽。理不尽とは思うたが……この通りじゃ。許せ」「天を衝いて雷雨を呼び寄せようと思っており申したが……秀吉という天はなかなかしぶとい。小雨程度しか降ってくれ申さぬ」
「まだ答えを出すのは早かろう。そのうち激しい雨となるやも知れぬ。そなたがすべてをやり遂げることでもなかろう。だれが食うかもしれぬ稲を百姓らは育てておる。仏が割り振りしてくだされた役目と思えばよい」
「和尚こそ立派な和尚にござる。そう言われると今にでも腹を切りたくなってきた。引導を渡すのがお上手だ」
「ま、これが商売じゃでな」
二人は声にして笑った。(『天を衝く』)
どこまで意地を張っても勝つことはできぬ戦。政実はこの条件を受け入れ、和睦を決意する。そして弟の実親に後を託して、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富ら主だった将とともに、白装束に身をまとい、ついに降伏する。
じゃが、この助命の約束はけっきょく反故にされてしまう。九戸実親はじめ城兵は二の丸に押し込められて、女子ども容赦なく撫で斬りにされ、火を放たれてしまうのじゃ。九戸党を焼き殺す猛火は三日三晩夜空を焦がしたと伝えられている。それを証明するものか、ここ二ノ丸跡からは、斬首された人骨が多数みつかっている。天下統一の総仕上げが騙し討ちというのは、後味が悪すぎじゃな。
捕らえられた政実らは、総大将の豊臣秀次の本陣へと連行され、そこで斬首されている。政実の首はその後、大坂の秀吉のもとに送られ、京都の戻り橋に晒されたと言われている。いっぽうで、政実の首は密かに家臣が持ち出し、九戸村の山中に埋葬されたという伝承もある。
「政実よ、またここへ戻ってきたの」
薩天は塚に向かって声をかけた。
「おまえは馬鹿者じゃったが、儂も大馬鹿者。すっかり狐どもらに化かされた。なれど本当の馬鹿者はあやつらじゃ。もはや互いになにも言うまい。馬鹿を相手にしたとて、ただくたびれるばかり。おまえはあの世で九戸党を率いて新しき国を作れ。怒らずに儂の居場所も用意しておけよ。政実、聞こえたか」
薩天は塚をじっと見詰めた。
そのとき、風がどっと吹いて木々を揺らした。薩天は何度も頷いた。薩天が単身で信直の居る三戸に向かい、雪の降り積もる大手門の前で舌を噛み切って死んだのは政実の死んだ日から数えて四十九日に当たる日のことだった。(『天を衝く』)
政実の息子・亀千代は開城前に密かに落ち延びたが、その後、捕縛され斬首。九戸の血筋は、政実の弟・中野康実が南部家重臣として仕えることで、以後も続いていく。
二の丸脇、城の搦め手のあたりに土井晩翠の「荒城の月」碑があった。土井晩翠は九戸党の悲劇を聞き、自ら筆をとり、書を残したとのこと。ちなみに「荒城の月」碑はここ九戸の他に、会津若松城、豊後竹田城、仙台青葉城、富山城にあるそうじゃよ(これ豆な) 。
ということで以上、九戸城跡訪問の備忘録。ちょっと書き散らかしてしまったかもしれんすまぬ。
さいごに当日、いろいろと教えてくださった地元ボランティアガイドさんに感謝。心残りは九戸政実武将隊のみなさまとお会いできなかったことじゃが、それはまあ、次回のお楽しみということにしておこう。