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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

浪岡城跡〜北畠顕家の末裔・浪岡北畠氏が治めた北の御所

みちのくひとり旅、九戸城跡につづいて、今回は浪岡城跡の訪問記。以前から「信長の野望」に出てくる浪岡御所というのが、気になっておってな。

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奥羽本線浪岡駅で下車し、タクシーでGO

以前から「信長の野望」に出てくる浪岡御所というのが、気になっておってな。わざわざ立ち寄るほどかとも思ったが、この機会に立ち寄らないと、たぶん二度と行くこともないだろうと思いなおし、奥羽本線浪岡駅で下車。歩くにはちょっときつそうだったので、駅でタクシーを拾って現地に向かうことに。

津軽弁全開の運転手さん曰く「あど一週間、早ぐ来れば、桜が満開で綺麗だったばって、じょいはなんもねし」(たぶんこんな感じ)とのこと。帰りは「携帯で呼んでけろ」と促され、タクシーを降りた。

「あった!」

ここが浪岡御所があった場所。「信長の野望」では津軽為信南部晴政に瞬時に抹殺されてしまう浪岡北畠氏の浪岡御所。はるばるやってきたことに不思議な満足感、達成感がある。

すでに18時近くということもあり、他に観光客はなし。犬を散歩中のおじさんに「どこから来たんじゃか?」「遠ぐからご苦労さんだきゃ」と、やはり津軽弁で声をかけられ、旅情も増すというもんじゃ。  

浪岡北畠氏について

浪岡北畠氏は、南北朝時代南朝の中心人物として活躍した花将軍こと北畠顕家の後裔といわれる(弟顕信の後裔とも)。北畠顕家後醍醐天皇の命により、わずか16歳で義良親王を奉じて父・親房とともに奥州へ下向。顕家は従三位陸奥守としてに多賀城国府に奥州を統治した。南部師行や結城宗広らとともに奥州の強兵を率いて足利尊氏と戦うも、延元3年(1338)5月、21歳の若さで壮烈な戦死を遂げている。

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地元の伝承によれば、藤原秀衡の六男・頼衡を祖とする浪岡秀種の娘(頼子、萩の局)が顕家との間に子をなし、北畠顕成を生んだとのこと。その顕成が足利方の攻勢により霊山城を追われ、叔父の顕信とともに浪岡に逃れてきたのが、浪岡北畠氏のはじまりだという。

また一説には、顕家の死後、顕成とその息子・顕元は南部氏に庇護されていたが、その後、南部氏は足利幕府に帰順したため、あからさまに支援をすることができず、浪岡へ一行を移したともいわれる。

このとき、浪岡で顕成父子を迎えたのが、顕成の娘を妻にしていた安東貞季であったとか。このあたり、確たることはわからぬが、いずれにせよこうした所縁により、浪岡北畠氏が南部、安東両家にとって特別な存在であったことは間違いないじゃろう。

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川原御所の乱

16世紀、時は戦国の世。浪岡北畠氏は、大光寺氏、大浦氏と津軽を三分するほどの勢力をもっていた。特に7代目の浪岡具永は内政手腕に優れ、京都とのパイプも強く、山科言継を介して叙爵を受けたりもしている。

こうしたこともあって、浪岡北畠氏は「浪岡御所」とよばれるほど、高貴なお血筋が尊崇を集めていたようじゃ。また、「具」という通字からもわかるように、同じ北畠親房を祖とする伊勢北畠氏とも交友があったらしい。十三湊を通じて大陸や蝦夷と交易するめしており、浪岡北畠氏は具永の時代に最盛期を迎えておったよ。

浪岡北畠氏は具永の息子・具運が継いでいたが、叔父の浪岡具信に殺害される事件が起こるのじゃ。浪岡具信は、北畠顕家の弟・顕信を祖とする「川原御所」が断絶していたことから、そのお家を継いだ人物。この頃、浪岡御所と川原御所の間には縄張り争いがあり、それが乱の原因ではないかといわれておる。

永禄5年正月、具信は新年の挨拶に浪岡御所を訪ね、やおら具運を斬りつけたらしい。具信はその場で具運の弟・顕範に討ちとられるが、この騒動をきっかけに浪岡北畠氏は家臣の求心力を失い、急速に衰退していったのじゃ。

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大浦為信の津軽略奪と浪岡御所の滅亡 

川原御所の乱の後、浪岡北畠氏は具運の子・顕村が家督を継いだが、この混乱と衰退を見逃さなかった男がいた。大浦(津軽)為信じゃ。

為信は南部一族の重鎮・石川高信を殺害し、津軽の支配と南部からの独立をめざしていた。浪岡御所では、浪岡顕則(顕範の孫)が当主の顕村をよく補佐していたが、為信は顕則が外ケ浜へ出かけた隙をついて浪岡城を急襲。城内にはすでに為信の調略が及んでおり、重臣たちはつぎつぎと寝返ったという。

かくして浪岡城は落城、顕村は捕らえられ、自害。一説には舅の安東愛季を頼って落ち延びたともいわれるが、いずれにせよ南北朝から150年の名家・浪岡北畠氏はここに事実上滅亡する。

ちなみに難を逃れた顕則はその後、南部氏に仕え、弟の慶好は、安東氏に仕えた。また、もう一人の弟・顕佐は顕村の娘と結婚して隠棲し、以後、その末裔は今日まで至っているらしい。

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浪岡城について

浪岡城は現在、国指定史跡として整備されている。新館、東館、北館、内館、西館の遺構や、土塁、堀の跡をみることができ、当時の様子が偲ばれる。九戸城跡もそうじゃったが、こうした遺構が残っていること自体が貴重で、およそ鎌倉あたりでは考えられないことじゃ。

浪岡城の特徴である中土塁のうえをぷらぷらと歩いてみた印象じゃが、ここは攻められたらひとたまりもないなと。というよりも、鎮守府将軍北畠顕家の末裔の家をよもや攻めてくる輩などいないと安心しきっていたのかもしれぬ。じっさい、南部にとって浪岡御所は南北朝時代からの主筋じゃし、浪岡顕村の正室は安東氏から迎えておるわけじゃし、そういう空気になっていてもしかたがない。そこを大浦為信はしっかりと衝いてきたということじゃろう。

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城主の居館があったのは内館で、南北に入り口があり、それぞれ土塁に通じている。家臣らが武家屋敷町をつくったのが北館で、ここは全郭の中でもっとも広い。二重の堀で囲まれている。

内部は当時の建物配置がわかるように板塀で区切られており、模型写真もある。こうしてみると、かなりの建物があったようじゃな。北畠顕家の末裔で、浪岡御所というくらいじゃから、この津軽の地にあっても、どことなく京風というか、文化的な生活が営まれておったような気がする。

近くにある中世の館というところには、ここから発掘された品の展示があり、当時の様子を伺い知ることができるらしいが、この日はすでに閉館しており、ちょっと残念。わしのように闘犬や田楽を楽しんでいた者もひょっとしたらいたかもしれぬな。

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天正6年(1568)、大浦為信が攻め込んで来た時、ここに住んでいた家臣たちはあわてふためき、あっさり主人を裏切ってしまったという。

故郷を夢にいでこし道芝の霧よりもろき我が命かな

浪岡顕村の辞世といわれる。花将軍・顕家の末裔の最期にしては、「霧よりもろき我がいのち」という自虐がじつにもの悲しい。

よもや北畠顕家の血をひく浪岡御所を攻める者などいない! そう思っていたんじゃろう。「大浦ガー」といってもあとの祭り。やはり自衛力、防衛力は大事じゃな。「平和平和」と唱えているだけでは平和は続かないということじゃよ。

ということで、小一時間ほどの散策のあと、タクシーを呼んで浪岡駅へリターン。偶然にも行きと同じ運転手さんで、なんかおかしかったし。

津軽戦国浪漫はおしまい。

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