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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

人取橋古戦場跡で老将・鬼庭左月斎を偲んできた

仙台ユアスタに遠征した時に立ち寄った人取橋古戦場跡。人取橋の戦いは、伊達政宗と佐竹・芦名他連合軍とが激突した合戦で、老将・鬼庭左月斎の奮戦で有名じゃな。

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東北自動車道本宮ICをおりて程なく到着。国道4号線を北上して10分足らず、左側の田んぼの中にそれらしきものが見える。周りに何もないからすぐわかるが、うっかりしていると通り過ぎてしまうので注意が必要じゃ。

とりあえず田んぼの脇道にクルマを止める。石碑と案内板の他は何もなく、じつにシンプルじゃ。

人取橋の戦い

人取橋の戦いは、天正13年(1585)11月17日、伊達政宗軍7千と、佐竹・芦名・相馬・二階堂・岩城・石川・白川ら連合軍3万が激突した戦いじゃ。

この年の10月、二本松城主の畠山義継は計略をめぐらし、宮森城で伊達輝宗を拉致しようとする。じゃが、政宗の追っ手により、阿武隈川河畔高田原で輝宗とともに討たれる。大河ドラマ独眼竜政宗」で、北大路欣也さん演じる輝宗パパが、渡辺謙さん演じる政宗に「政宗!わしごと撃て!!」と叫んでいたシーンは、今も目に焼き付いておるぞ。

輝宗の初七日が終わると、政宗はすぐさま義継の遺児・国王丸と家臣が籠る二本松に攻めこむ。すると、畠山の急を聞いた佐竹、芦名は、伊達に仙道(中通り)を奪われることを恐れ、相馬、岩城ら南奥州の諸将と語らって大連合軍が攻めてきたのじゃ。

連合軍が前田沢南の原に終結すると、政宗二本松城に備えを残し、自らは本宮城に入る。そして11月17日、観音堂に本陣を置き、前線の高倉、青田原に軍勢を配して、連合軍と対峙した。

合戦は高倉から始まった。伊達の本陣を目指す佐竹勢と人取橋を挟んでの戦いは熾烈を極めたという。じゃが、数に勝る連合軍は一方的な攻勢に出て伊達軍は敗色濃厚。政宗も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けてしまう。

このとき宿将・鬼庭左月斎は政宗を逃すために殿をつとめ、人取橋を越えて敵中に突入し、討死した。また東方の伊達成実軍も敵の猛攻の中、時間を稼ぎ、政宗は本宮城に逃れることができた。

壊滅寸前の伊達軍じゃったが、幸運にも日没のため、この日の戦闘は休止となる。するとその夜、佐竹家の部将・小野崎義昌が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生した。さらに、佐竹の本国に北条、里見らが攻め寄せるとの風聞が入る。そのため、優勢だった佐竹軍は自ら撤退し、政宗九死に一生を得ることができたのじゃ。ひょっとすると政宗による工作があったのかもしれぬな。

戦闘では負けたものの、連合軍の侵攻を防いだという点で、戦略的には伊達の勝利ということじゃな。かくして天正17年(1589)、政宗会津から芦名氏を追い、仙道を手中に収めることに成功するのじゃが、人取橋の戦いは、まさに節所であったといえるじゃろう。

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享年73で「若死」した鬼庭左月

こちらは左月斎こと鬼庭良直のお墓。鬼庭良直は遠藤基信とともに伊達輝宗を支えた側近中の側近じゃった。政宗の乳母となった喜多は左月斎の娘で女だてらに文武両道に秀でていたという。良直の正室は後に片倉景重に再嫁しており、喜多は片倉小十郎景綱と異父姉弟ということになる。

人取橋の戦いでは、政宗から指揮を任されて金色の采配を与えられている。高齢のため重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けて参戦したが、劣勢な中、政宗を逃すために力戦。鬼庭隊は200余の首級を取る奮戦ぶりじゃったが、最後は岩城常隆の家臣・窪田十郎に討ち取られたという。享年73。

ちなみに、窪田十郎は後に伊達軍に捕らえられてしまう。じゃが、嫡男の鬼庭綱元は「虜囚を斬るのは士道に悖る」として窪田を釈放する。窪田はこれに感激し、以後、綱元の家来となったそうじゃよ。

鬼庭左月斎といえば、いかりや長介さんじゃな。コントでふざけている印象しかなかった長さんが、大河ドラマ独眼竜政宗」で左月斎を好演し、僭越ながら子供心に感心したことをよく覚えておる。

ほほほほほ。長生きせよ、綱元。あのな、朝夕の膳の湯に飯粒を溶かしてな。あれは長生きの薬じゃ。長生きをして、殿にお仕えを……よいか、わしのように若死いたすなよ。

若死! 臨終のセリフは渾身のギャグかといえば、さにあらず。鬼庭家は代々、長生きの家系で、73歳というのは若死だというのじゃよ。ちなみに、鬼庭家代々の長生きの秘訣がこれで、綱元は父のこの遺言を守ったためか、93歳まで生きておるしな。

鬼庭左月斎 いかりや長介

現地の説明書には、左月斎の墓(功士壇)は文政11年(1828)に子孫によって建立されたもので、その際、人取橋の戦いで戦死した400余人も合葬されたとある。ちなみに、左月斎のお墓の両脇には、今埜彦次郎景住と彦三郎景次と、舟生八郎左衛門厚重の名を記した墓が建っておるが、やはりこの戦で亡くなった武将なのじゃろう。

人取橋の戦いは広範囲で行われており、そもそもここが「人取橋」というわけではない。じゃが、兵どもの夢のあとや左月斉を偲ぶには雰囲気十分なところじゃと思う。

何にもないといえば何にもないが、政宗推し、戦国好きであれば、一度は訪れるべきスポットじゃよ。