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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鎌倉最古のお寺・杉本寺に足利の奥州総大将・斯波家長を偲ぶ

鎌倉は二階堂の古刹・杉本寺に行ってきたぞ。鎌倉幕府が開かれる500年も前に創建された鎌倉最古のお寺。皇太子時代、今上陛下もここを訪れておられるぞ。

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鎌倉最古の寺院、杉本寺

杉本寺がある二階堂界隈は、鶴岡八幡宮や小町通り、鎌倉大仏などの喧騒とは違って、いつきても静かで落ち着きがある。それでも、鎌倉最古のお寺ということで、参拝客はそこそこ多い。残念ながら紅葉にはまだ早かったが、春夏秋冬、季節の花も楽しめるし、おすすめのスポットじゃよ。

拝観料200円をはらい、山道を上っていくと、茅葺の仁王門に到着する。迫力ある阿吽の仁王様がお出迎えしてくれるぞ。ちなみに、こちらは運慶作らしい。

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杉の本の観音様

杉本寺は天平6年(734)聖武天皇の后・光明皇后の御願により、藤原房前と行基菩薩によって建立された。御本尊は行基菩薩作、慈覚大師円仁作、恵心僧都源信作とされる3体の十一面観音様じゃ。

「吾妻鏡」の文治5年(1189)11月23日には、こんな記載がある。

文治五年(1189年)十一月廿三日、夜に入て、大倉の観音堂回禄す。別当浄台房、煙火を見て悲歎し、焰の中へ走入て本尊を出す。僅かに焦がるといへども、身体は敢て恙なしと。又建久二年(1191年)九月十八日、幕下(源頼朝)、大倉の観音堂に御参りの事あり。

なんと、観音様たちは自ら境内の大杉の下に火を避けられたというのじゃ。このことから、観音様は「杉の本の観音」と呼ばれるようになったらしいぞ。なお、建久2年に源頼朝公が寄進した前立十一面観音様も、安置されておるぞ。

杉本寺本堂

杉本寺本堂

行基作の十一面観音像には「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通る武者は必ず落馬したという。観音様が非礼に怒ったんじゃな。さりとて、みなが皆、ここで下馬して礼をしていかねばならぬというのもいかがかということで、蘭渓道隆が観音様のお顔を袈裟で覆ったところ、以後、落馬する者はいなくなったというのじゃよ。

ちなみに、本堂の中はわりと自由に歩き回ることができる。御本尊の観音様は遠くから拝むことしかできないが、頼朝公が寄進した前立十一面観音や、運慶作の地蔵菩薩、宅間法眼作の毘沙門天王などは、間近で見られるどころか、普通に触れる距離に置いてある。もし、こけたりしたら、大切な仏像をぶっ倒してしまうんじゃないかと、こっちが冷や冷やするほど。

たった200円の拝観料でよいのじゃろうか。杉本寺さん、太っ腹すぎじゃよ。

杉本城の戦いと斯波家長

本堂のすぐ脇に五輪塔がある。これは、北畠顕家が奥州軍を率いて2度目の上洛遠征を行った際、鎌倉を守って討死した奥州管領・斯波家長ら一族を供養するためのものじゃ。かつてはやぐらなどにあったものを、後世、ここに集めて慰霊したらしい。

杉本寺がある大倉山には、かつて杉本城があった。杉本城は、三浦義明の長子で杉本氏の祖・杉本義宗がこの辺りに居を構えたのがはじまりといわれる。ちなみに義宗の長子が和田義盛じゃよ。

源頼朝公が伊豆の蛭ヶ小島で挙兵すると、合力した三浦一族は、当初・平家方についた畠山重忠と、この地で合戦に及んでいる。現在、城址は私有地となっており、勝手に散策することはできないが、かつての杉本城は、武家の都・鎌倉にとっても重要な軍事拠点だったんじゃよ。

杉本城址。大倉山の中腹に杉本寺がある

杉本城址。大倉山の中腹に杉本寺がある

延元2年/建武4年12月25日、陸奥将軍府 北畠顕家は奥州の精鋭を率いて各地の足利方を破り、鎌倉へ侵攻した。このとき、北条時行、新田徳寿丸の軍も合力しているので「太平記」の10万は大袈裟ではあるが、かなりの軍勢であったことは間違いないじゃろう。

一方の足利方の主力は京にいるから、鎌倉の守備は手薄で、とても守り切れるものではない。足利方の総大将・斯波家長は足利義詮を逃すと、朝夷奈切通から攻めこんでくる北畠顕家軍を杉本城で迎え撃った。足利一門としての意地をみせたかったのかもしれぬな。

じゃが、衆寡敵せず、3日間もちこたえたものの城兵ことごとく討死、杉本城はあえなく落城する。

杉本城址は現在、私有地なので立ち入ることはできないので、ここでそっと手を合わせる。それにしてもこのとき、斯波家長17歳、北畠顕家20歳だというから、これはもう驚きじゃよ。 

なお、斯波家長についてはこちらに詳しくまとめたのでよろしければ読んでほしい。

斯波家長と一族の供養塔(五輪塔)

五輪塔群