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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条泰家のこと〜「逃げ若」にも登場する高時の弟、時行のおじさん

わし高時の弟・北条泰家についてじゃ。足利尊氏には直義、楠木正成には正季、新田義貞には脇屋義助というできる弟がいたように、わしにも泰家というキレ者の弟がいたんじゃよ。「逃げ上手の若君」では、何かと顔に出やすい、おでこに文字が出ている変なキャラになっておるけどな。

北条泰家(「逃げ上手の若君」)

嘉暦の騒動〜執権になり損ねる

北条泰家は、北条貞時公と大室吉宗の女・大方殿(覚海円成)の間に生まれたわしの同母弟で、はじめ相模四郎時利と号した。官位は従五位下、左近将監である。泰家について語るには、まず「嘉暦の騒動」から始めねばならぬじゃろう。

嘉暦元年(1326)、わしが病によって執権を退いたとき、母大方殿と外戚の安達時顕は泰家を執権に就任させようとした。じゃが、内管領の長崎高資はそれに反対し、強引に金沢貞顕をが15代執権に就かせてしまった。これはわしと御内人・五大院宗繁の女との間に生まれた長男・邦時を執権にするため貞顕をつなぎとし、御内人の得宗への影響力を強めたいという腹からである。

泰家も母上もこれを大いに怒った。泰家はこれを恥辱とし、当てつけのように出家してしまった(法名は恵性)。やがて鎌倉では、怒った泰家と母上は貞顕を殺そうとしているという風聞が流れる。するとこれに驚いた貞顕はわずか10日で執権を辞任し、これまた出家してしまったのじゃ。

「嘉暦の騒動」は幕府権力をめぐる外戚の安達派と御内人による権力闘争が背後にあったわけじゃが、詳しくはこちらの記事を読んでもらえれば幸いじゃ。

鎌倉幕府滅亡〜高時の遺児を逃し、泰家も逃亡

続いて泰家が活躍するのが分倍河原の戦いじゃ。正慶2年/元弘3年(1333)、新田義貞は鎌倉に反旗を翻し、鎌倉街道を南下してきた。この時、泰家は桜田貞国とともに幕府軍15万を率いて分倍河原でこれを迎撃した。この戦で泰家は一時は勝利を収めたものの、三浦一族の大多和義勝の裏切りもあり、鎌倉に敗走している。

やがて新田軍が攻め入ると、鎌倉は炎に包まれ、北条一族は東勝寺に集まって腹を切った。じゃが、このとき泰家はわしらと行動を共にせず、密かにわしの遺児の万寿丸、亀寿丸を逃がした。

その後、泰家は自害を装って逃亡。得宗領があった陸奥国へと落ち延びて捲土重来を図るのじゃ。残念ながら万寿は五大院宗繁の裏切りにより新田に捕まり殺されてしまうが、亀寿は諏訪に落ち延びる。これが「逃げ若」こと北条時行というわけじゃな。

北条氏の三つ鱗

後醍醐天皇暗殺計画〜京都に潜伏

その後、泰家は京都に上り、旧知の仲であった西園寺公宗の屋敷を密かに尋ねる。西園寺家は朝廷と幕府のパイプ役となる関東申次を代々つとめていた。また、娘を天皇に嫁がせ持明院統の外戚として大きな力を持っていたが、建武政権では不遇を囲っていた。すでにこのとき、建武政権に反抗する北条与党が各地で反乱を起こしていた。

そんな中、建武2年(1335年)6月、西園寺公宗による公宗と共に政権転覆の陰謀事件が明るみに出たのじゃ。「太平記」によると、公宗は再び権力を取り戻すため、恵性と称して出家していた泰家を還俗させ、密かに屋敷に匿った。

泰家はこのときに名を改めで「刑部少輔時興」を名乗ったという(煩わしいからこの記事では「泰家」のままとするぞ)。2人は北条の復権により、後醍醐天皇を廃して持明院統に皇統を取り戻すためのクーデターを画策する。具体的には京都で北条泰家、関東で時行、北国で名越時兼が一斉に隆起するという計画で、手始めに後醍醐天皇を紅葉鑑賞を口実に北山殿に招き寄せ、暗殺しようとしたというのじゃ。

じゃが、この陰謀は弟の西園寺公重の密告により未遂に終わり、公宗は捕縛されてしまう。ちなみに、このとき捕縛された者の中に泰家の名はない。うまく逃げのびたのじゃろう。

もっとも、公宗と泰家が共謀していたとしているのは「太平記」だけで、同時代史料にはない。それゆえ、これは「太平記」による創作だと指摘する人も多い。じゃが、現実にこの事件の直後に信濃では時行が挙兵し、北国でも名越時兼が加賀で反乱を起こしている。はたしてこれは単なる偶然じゃろうか。ひょっとしたら、この事件は公宗と泰家が主導してのではなく、黒幕として持明院統の暗躍があったのではないか。そう考えるのは陰謀論すぎるじゃろうか。

中先代の乱とその後〜泰家の最期

信濃で決起した北条時行は、諏訪神党の支援を得て足利直義を追い落とし、鎌倉をあっという間に占領した。すると足利尊氏は後醍醐天皇の許可なく関東に下向し、すぐさま時行軍を鎮圧した(中先代の乱)。しかし、中先代の乱がきっかけとなって後醍醐天皇と足利尊氏は袂を分かつ。かくして南北朝の争乱が始まるというわけじゃ。

この間の泰家の消息、行動ははっきりしない。時行とともに鎌倉に攻め入り、その後は潜伏していたのじゃろうか。次に泰家が登場してくるのが延元2年/建武3年(1336)のことである。

『市河家文書』によればこの年の2月、「先代高時一族大夫四郎・同じき丹波右近大夫並びに当国凶徒の深志介知光」が挙兵し、信濃麻続御厨・麻続十日市場で北朝方の信濃守護・小笠原貞宗、村上信貞と合戦に及んでいる。ここに出てくる「深志介知光」は信濃の有力な在庁官人で、北条氏被官であったとされている。「丹波右近大夫」は確定はされていないが丹波守であった佐介流もしくは大仏流北条氏の子孫と思われる。先代高時一族である「大夫四郎」とはもちろん泰家じゃろう。中先代の乱で敗れた泰家は、密かに北条与党をまとめあげていたのじゃな。

そして3月、泰家らは鎌倉へと攻め込んだ。鎌倉を守っていたのは足利義詮を推戴する斯波家長、吉良定家である。この戦いの規模がどれほどのものであったのかはわからぬが、鈴木由美さんの『中先代の乱』(中公新書)によれば、泰家はこの時の戦で討死したのではないかと推測しておられる。

北条一族再興のために鎌倉を落ち、京に現れ西園寺公宗とともに陰謀を企て、信濃で挙兵し鎌倉に攻め込むほどの闘志と行動力のある泰家。もしこの後も生きておれば、歴史になんらか足跡を残したであろうというのじゃ。わしもそう思うぞ。

時々、わしは思うぞ。もしわしではなく泰家が太守であり、執権であったら鎌倉の運命もまた変わっていたのではないかと。

閑話休題 泰家の死により北条再興の夢は時行に引き継がれていくのじゃよ。