油壺湾の夕景。「あぶらつぼ」って、ちょっと変わった名前jじゃが……

永正13年(1516)、このあたりに勢力をはっていた三浦一族は北条早雲の軍勢を相手に、新井城で3年間にわたって籠城戦を行う。
しかし奮戦空しく、多くの将兵は自刃、討死。この油壺湾へ身投げをしたと伝わっている。そのため湾一面が血潮によって、あたかも油を流したようになったことから、この地は後世「油壺」といわれるようになったそうじゃ。
このあたりの経緯は、司馬遼太郎さんの『箱根の坂』に詳しいのじゃが、相模の名族三浦氏最後の当主三浦義同(道寸)は、北条早雲の最大のライバルであったといっていいじゃろう。
三浦義同は上杉高救の子。三浦時高の養子となり三浦氏を継ぐが、時高に子が生まれると次第に不和になり、義同は足柄へ遁世し、道寸を名乗る。その後、小田原の大森氏の支援を得て時高を討ち、新井城主となるが、次第に相模制圧を目指す北条早雲と対立していく。
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの塊(つちくれ)
三浦道寸の辞世じゃ。
それにしても……鎌倉時代、三浦一族は宝治合戦で我が北条家に滅ぼされ、戦国時代に復活するも、これまた(べつの)北条氏に滅ぼされてしまう。
因果なことじゃのう。これが業というものじゃろうか。