大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、少年ジャンプ「逃げ上手の若君」のおかげか、最近、鎌倉北条氏の人気がうなぎ上りじゃな(そんなことはない)。そこで、あらためて、鎌倉北条氏は、なぜ天下をとったのか、そのルーツから紐解いておこう。
北条氏のルーツは桓武平氏の平直方?
鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」では、北条氏のルーツは平直方とされている。平直方は桓武平氏であり、摂関家の家人でいわば在京の軍事貴族じゃよ。
源氏は東国、平氏は西国のイメージが強いが、もともと東国は桓武平氏の勢力圏であった。平直方は長元元年(1028)に起きた平忠常の乱で、追討使として討伐にあたる。じゃが、直方は乱を鎮定できず、その任を解かれてしまう。
かわって追討にあたったのは清和源氏の源頼信である。頼信はあっさりと乱を鎮定し、その声望は東国にも響き渡った。すると直方は、頼信の子・頼義を娘婿に迎える。そして生まれたのが八幡太郎義家じゃ。直方は鎌倉の館を源家に譲り、これがきっかけで、東国は源氏の勢力圏に変わったのじゃよ。
八幡太郎義家から5代目が源頼朝公で、平直方からやはり5代目が北条時政殿である。なんとも不思議な因縁を感じなくもない。ただし、この系譜には異論が噴出している。というのも、北条氏の系図は記載がまちまちで、確たることがどうも判然としない。研究者によっても意見が分かれておるようで、北条は桓武平氏の流れではないという見解もある。
源頼朝公が北条時政殿の婿になったことから、源頼義が平直方の婿になった故事と結びつけて、後世、北条が直方からの系譜を捏造したという指摘もなされおる。
初めて伊豆北条に住す
平直方から北条時政に至る系譜を見てみると、通字が「方」から「時」に変わっていることがわかる。奥富敬之氏の『鎌倉北条氏の興亡 (歴史文化ライブラリー)』によると、今に伝わる北条氏の系図を調べると、「方」の通字の流れを汲む「平盛方」には、「異勅により誅せられる」「流人」とされていたり、そもそも系図にその名が記されていなかったりするらしい。一方、「時」通字の始まりとされるのが時方、もしくは時家には、「実は聖範の子」とか「祖父の子になる」「初めて伊豆北条に住す」と註釈がなされいるとのこと。
このことから奥富敬之氏は、平盛方が流人となり誅せられたので、「方」通字の流れは断絶し、かわって伊豆山権現の僧侶であった聖範の子・時方が家督をついで、「北条」を名字にするようになったのではないかとしておられる。
『吾妻鏡』は時政殿の父の名を記していないが、同族とされる時定の卒伝には、その父の時兼が「北条介」であったことが記されているという。このことから、時兼ー時定こそが北条氏嫡流であり、時政殿は庶流の出であったのではないかという研究者もおられる。
このあたりのことは、昔すぎてよくわからん。じゃが、いずれにせよ時政殿以前の北条の系図が混乱しているということは、北条とは所詮、その程度の家であったのかもしれない。もし、時政殿が庶流であったとすれば、伊東などと比べて北条は伊豆の小領主にすぎなかったとみて良いかもしれぬな。
伊豆大島に流されていた源為朝が反乱を起こしたとき、北条もまた兵を出しているが、おそらく大した兵の数ではなかったじゃろう。頼朝公が旗揚げした時、石橋山での大敗を見るに、これはまあ、認めざるをえんわな。
北条時政の江ノ島参籠(龍神伝説)
そんな北条を大きく飛躍させたのは、やはり北条時政殿の慧眼によるものじゃ。源頼朝公と政子さまがねんごろになったとき、時政殿は伊東祐親とは異なり覚悟を決めて、飛躍の契機を掴んだのである。
これは単に運がよかったというだけではないんじゃよ。じつは時政殿の積善の行いの賜物だったんじゃ。
その証拠に、古典『太平記』に、時政殿が江ノ島に参篭したときの逸話が記されておる(「時政参篭榎嶋事」)。
昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ。」と云捨て帰給ふ。
其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。
されば今相模入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。(古典「太平記」)
江ノ島の弁財天は、時政公の前生の善行により、北条一族は大いに栄えるであろう、と告げる。ただし、その行いによっては7代を過ぎることはないゆえ心せよ、と言い残し、大蛇に変身して鱗を三つ落として海中に沈んでいったという。
そこで北条一族は家紋を三つ鱗とし、代々、鎌倉を治めてきたのじゃが……
北条高時は9代目。祖父・7代時致、父・8代貞時はいずれも名執権としてよく国を治めた。ということは、やはり北条氏の滅亡は、高時のせいということになるのじゃろうか?
ついでに、小田原北条氏について。小田原北条氏の祖は伊勢新九郎長氏こと北条早雲じゃが、「北条」を名乗り出すのは2代の氏綱からじゃ。北条のブランドは相模太守として領国統治上、好都合だったと言われておるが、近年の研究では、氏綱の正室・養珠院は北条の末裔である横井氏の出と言うことから名乗り始めたという説が出てきておるのじゃ。こうしてみると、少なくとも戦国期には、相模や坂東における北条の評価は正当になされており、そのイメージは決して悪くなかったということだけは言えるじゃろう。
関東に武家の覇府をつくった鎌倉北条氏。その功績は、源家将軍から権力を奪取したと揶揄されてきたが、「鎌倉殿の13人」や「逃げ上手への若君」によって、正しい認識が広まることを、わしは切に願っておるぞ。