じつは先週、八丈島へ旅行にいってきたんじゃが、備前宰相こと宇喜多秀家の墓参りにいってきたぞ。
関ケ原で敗れた宇喜多秀家は八丈島へ流罪に
宇喜多秀家は、いわずと知れた備前57万4000石の殿様で、豊臣五大老のひとり。宇喜多氏は秀家の父・直家のときに織田信長につく。 先祖は南朝の忠臣・児島高徳で、旗印は「兒(児)」。
秀家は、こどもがいなかった豊臣秀吉の寵愛を受け、前田利家の娘で秀吉の養女となっていた豪姫を妻に迎える。まさに豊臣家の貴公子として将来を嘱望される存在だった。
じゃが、父親とは異なり、どこかおぼっちゃんの育ちの秀家。 ひとくせもふたくせもある家臣の統率に四苦八苦し、お家騒動もおこしているが、それでも関ヶ原の合戦では西軍最大の軍勢を率いて石田三成に与して勇躍奮戦。 同じ豊臣一門の小早川秀秋の裏切りを知るや、「今から松尾山に乗り込んで金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と豪語したところを、明石全登に押しとどめられた逸話はつとに有名じゃな。
関ケ原の後は、宇喜多家は改易。 そこで秀家は島津氏を頼って薩摩に落ち、一時は琉球支配を目論んだというから、これまた驚きである。 しかし、島津氏も徳川に睨まれてはどうにもならない。 けっきょくは身柄を引き渡されることになる。幸い、島津忠恒、そして妻の実家の前田利長のとりなしもあり、死一等を免じられ、八丈島への流罪となる。秀家は八丈島流人の第一号だった。
黒潮洗う絶海の孤島、八丈島。 今回の八丈島旅行の往路は船旅だったが、よくぞまあ、これだけ遠いところまで流されたもんだと、あらためて思った。ただ、前田家から2年に一度、米70俵の仕送りがあり、島の女性とも懇ろたななっているから、流人の割にはそれほど生活は貧しくはなかったようだ。
でも、もともと殿様だから、それと比べるとねぇ……じっさい、島には、嵐で立ち寄った福島正則の家臣から酒をめぐんでもらった話や、島の代官に食事をご馳走になったときに飯を二杯食べ、さらに家臣のためにおにぎりをつくってもらった話なども伝わっている。
まあ、このあたりの話は講談になったりしているので、知っている人も多いかもしれないけれど、八丈島歴史民族資料館に行けば、秀家をはじめとする流人たちの生活や文化を知ることができるので、歴史好き、秀家ファンのかたには、ぜひ立ち寄ってほしいと思う。
宇喜多秀家の墓
さて、そんな秀家が亡くなったのは明暦元年(1655)11月20日、享年83。 法名は「尊光院殿秀月久福大居士」。 八丈島での流人生活は約50年、関ヶ原を戦った大名の中ではいちばん最後まで生き、すでに、時代は四代将軍・徳川家綱の治世であった。
宇喜多秀家の墓は八丈島のおへそのあたり、大賀郷というところにある。秀家の居住地もちょうどこのあたりだったらしい。タクシー会社を目印にとは聞いていたけど、こんな案内板が出ているだけなので、うっかり通り過ぎてしまうところだった。
八丈島の玉石造の区画、南国風の植物……これまでいろいろな歴史人物のお墓をみてきたが、明らかに雰囲気がちがう。ちなみに法名が彫られている五輪塔は、じつは埋葬当時の墓石ではなく、天保年間になってから子孫によって建てられたとのこと。 秀家が亡くなった当時の墓石は、ちょうど卒塔婆の形をした脇にある石。そこには「南無阿弥陀仏」とだけ彫られている。
やはり、いくら元殿様とはいえ流人だからな。 幕府の目もあるし、この程度のものしか建てられなかったのは、いたしかたなし。ともかくも、お線香をたいて合掌。
帰り際、周囲の玉石垣のうえに岡山城の天守閣の礎石の一部を発見。岡山城築城400年記念ということで、平成になってから持ち込まれたととか。いやいや、粋な計らい、感じ入ったぞ。
宇喜多秀家と豪姫の像
宇喜多秀家の墓からクルマで5-10分程度(だったかな?)、八丈富士の溶岩でできた千畳敷という海岸に、宇喜多秀家と豪姫の像があった。 お内裏様とお雛様のように、八丈富士を背に、遠く岡山方面を眺めているふたり。 これも平成9年の建立で、ふたりは大坂での一別以来、400年ぶりに再会をはたすことになる。
ちなみに豪姫のこと。秀吉は豪姫をおおいにかわいがり、「もし豪が男であったならば、関白にしたものを」と、ねねに手紙を書いている。また前田利家には「三国一の婿を」と約束、秀家の正室になるのだが、はたして豪もまた悲運な女性である。
豪姫は秀家の八丈島流罪が決まったとき、同行を強く願い出たというから、夫婦仲はかなりよかったのだろう。 けっきょく再嫁することはなく、寛永11年(1963)に61歳で没している。 秀家に先立つこと21年でした。
秀家はこのあたりで魚釣りに興じたという話もあるそうだが、はたしてどのような心境でこの海を眺めていたのだろう。 関ケ原に西軍が勝利していれば、百万石も夢ではなかった男。豪姫の訃報も、豊臣家の滅亡も耳にしたはず。 2ちゃんのネタよろしく、「泳いで参った!」などというわけにもいかず……なんてことをしみじみと考えていると、なかなかこの場を立ち去りがたいわけで……
うーん、悲運だ。 でも、この悲運がまた、歴女の心をぐっとつかんでいるのかもしれない。そのうえ、かなりのイケメンだったとも伝わっているし。
涙のみ
流れて末は杭瀬川
水の泡とや消えむとすらむ
宇喜多秀家の辞世の句として伝わる。ただし、本人の作ではなく後世の人がつくったともいわれている。杭瀬川はもちろん関ヶ原合戦の前哨戦が行われたところ。「杭」と「悔い」をかけているんじゃろうな。「悔いは残るがこれが私の人生」という達観も感じられるではないか。
ということで、宇喜多秀家ファンのみなさま、ぜひ、八丈島へおじゃりやれ!
八丈島の島寿司はことのほか美味じゃよ。