先日、NEWSポストセブンに気になる記事が掲載された。
「聖徳太子は架空の人物で、実在しなかった」という説はかなり知られた話ではある。じゃが、教科書にその話が出てくるようになったということは、歴史の通説が覆される日も遠くないということなのかもしれぬ。
以下は同記事より引用じゃ。
清水書院が来年度から改訂する高校の日本史教科書には、〈聖徳太子は実在したか〉との項目が掲載される。〈『書紀』の記す憲法十七条や冠位十二階、遣隋使の派遣についても、厩戸王(うまやとのおう・聖徳太子)の事績とは断定できず、後世の偽作説もある〉 さらに、厩戸王と聖徳太子は別人とする説や、太子は架空の人物とする説があるとし、旧1万円札の肖像画も本人とする根拠がないと記している。
いまから25年前、1988年の教科書では、〈推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた〉となっていたが、今年度の教科書では、〈推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた〉(以下、教科書の引用は山川出版社より)となっている。
聖徳太子より厩戸王という呼び名が強調され、「国政の担当者」から「協力者」に格下げされている。歴史研究によって、この時代に「摂政」という役職は存在せず、「聖徳太子」という名前も、死後100年後くらいから呼ばれたものだと判明したからだ。聖徳太子の事績については「日本書紀」に記されているが、多くの粉飾があることは誰もが容易に想像つくじゃろう。ただ、それを差っ引いても「和を以て貴しとなす」の聖徳太子は日本を代表する偉人であり、スーパースターに代わりがない。それがもし「実在しなかった」なんてことになれば、それは「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」が「いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府」に変更になったレベルとは、桁違いの衝撃じゃろう。
大山氏は、厩戸皇子の存在は否定しないが、それは教科書で習う「聖徳太子」のようなスーパーな偉人ではなかったという。たとえば、聖徳太子の有名な事績のうち、官位十二階の制定と遣隋使の派遣については「隋書」に記されているが、その「隋書」にすら、じつは推古天皇の名前も厩戸皇子の名前も出てこないらしい。資料をたんねんに検討していくと、厩戸皇子について確実にいえることは、
たったこの3つだけしかない! それ以外は全て「日本書紀」編纂時の創作だというんじゃよ。
有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧道慈らである。十七条憲法は『日本書記』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。(大山誠一著『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』)
「日本書紀」の編纂を主導した藤原不比等は、藤原(中臣)鎌足の子。その頃の天皇は元明天皇、元正天皇で、中大兄皇子こと天智天皇の娘、孫娘にあたる。中大兄皇子と藤原鎌足といえば、乙巳の変で蘇我入鹿を殺害し、クーデターをおこしたふたりというわけだから……
「日本書紀」では、蘇我入鹿は皇族を蔑ろにして専横の限りをつくし、あの聖徳太子の血を引く山背大兄王を殺害した悪玉とされている。歴史は勝者によってつくられる。中大兄皇子と藤原鎌足、そしてその後の政権の正当性を後世に伝えるために、聖徳太子の存在が必要だったのでは……という主張は確かに説得力がある。
その後、聖徳太子は「和国の教主」「救世観世音菩薩の化身」として信仰の対象として日本中で尊崇されるようになる。いわゆる「太子信仰」というやつじゃが、これらは藤原不比等らが仕掛けたPR戦略の呪縛といえるかもしれない。
真相はもちろんわからない。じゃが、教科書にこういうことが出てきたということは、その呪縛からわしらが解き放たれる時代がやってきたということなのかもしれんな。