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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

比企能員のこと~北条のライバル、比企氏の乱で滅亡

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の10人目は比企能員のこと。ドラマで演じるのは佐藤二朗さんじゃよ。

妙本寺

鎌倉・妙本寺(北条氏に滅ぼされた比企能員の館があった)

「一歩間違っていたら、執権は北条でなく比企だったかもしれません。歴史の裏には必ず、涙を飲んだ悲運の敗北者がいます。そうした歴史の表舞台に立てなかった人物を演じるのは、ある意味役者冥利に尽きます」

と佐藤さんは、その意気込みを語っておられる。比企が執権とか、わしは想像できぬが、能員には同情の気持ちがないわけではない。

比企能員の出自

比企氏は、武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡東松山市)を領した豪族で、藤原秀郷の末裔といわれている。平治の乱源義朝殿が敗死すると、嫡男・頼朝公は伊豆国流罪となる。このとき、頼朝公の乳母であった比企尼は夫の掃部允とともに京から領国に下り、約20年間頼朝公に仕送りを続けたという。

比企能員阿波国または安房国出身とみられる比企氏の一族で、比企尼の甥にあたる。寿永元年(1182)8月12日、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷で北条政子さまが万寿さま(源頼家公)を出産すると、比企尼は能員を猶子とし、万寿さまの乳母父に推挙した。

万寿さま誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻も万寿さまの乳母になった。能員は頼朝公の側近として重きをなしていくのじゃ。

その後、能員は源義高追討、源平合戦、奥州藤原攻め、大河兼任の乱で武功をあげ、建久元年(1190)の頼朝公上洛では、右近衛大将拝賀の随兵7人のうちの一人に選ばれている。

建久9年(1198)、能員の娘・若狭局が頼家公との間に男子・一幡を生んだ。これ以後、能員はその外戚として権勢をふるうようになる。正治元年(1199)、頼朝公没後は十三人の合議制の一人に加えられ、梶原景時弾劾状にもその名を連ねている。

比企能員の変とは?

比企が権勢をふるうようになると、北条としてはおもしろくない。やはり将軍外戚としてその地位を確保してきた北条時政公じゃが、このままいけば、北条は比企の風下に立つのは必定である。政子さまもまた、比企の家にべったりで北条を蔑ろにするわが子には不満があったようじゃ。そんなタイミングで起こったのが「比企能員の変」である。

建仁3年(1203年)9月1日、頼家公はとつぜん病に倒れて危篤状態に陥り、鎌倉は大騒動となる。すると北条時政公は、円滑な相続を名分に、頼家公の遺領のうち関東28国の地頭職を一幡に、西国38国の地頭職を頼家の弟・実朝公に分与することを決めてしまう。

吾妻鏡建仁3年(1203)9月2日の条には、このことに比企氏が憤り、北条討伐を決意し、それを頼家公が裁可したことが記されている。

今朝、廷尉能員息女(将軍家の愛妾、若公母儀なり。元若狭局と号す)を以て北条殿を訴え申す。偏に追討すべき由なり。凡そ家督の外、地頭職を相分けらるるに於いては、威権二つに分れ、挑み争うの條これ疑うべからず。子たり弟たれば、静謐の御計らいに似たりと雖も、還って招く所は乱国の基なり。遠州北条時政)一族存えられば、家督の世を奪わるるの事、また以て異儀無しと。将軍驚いて能員を病床に招き、追討の儀を談合せしめ給う。且つは許諾に及ぶ。

しかし、この話をたまたま政子さまが障子越しに聞いていたんじゃよ。政子さまは時政公にこのことを報らせた。時政公は能員の振る舞いを非難し、大江広元に誅殺を相談する。

近年能員威を振るい諸人を蔑如するの條、世の知る所なり。剰え将軍病疾の今、憫然の期を窺い、掠めて将命と称し逆謀を企てんと欲するの由、慥に告げを聞く。この上は先ずこれを征すべきか如何に。てえれば、大官令(大江広元)答え申して云く、幕下将軍の御時以降、政道を扶けるの号有り。兵法に於いては是非を弁えず。誅戮の実否は宜しく賢慮に有るべしと。

大江広元は比企殺害を黙認したとみてよい。そこで時政公は天野遠景と仁田忠常と話し合い、仏事にことよせて能員を自邸に招いて誅殺することを決意する。

宿願に依って佛像供養の儀有り。御来臨聴聞せらるべきか。且つはまた次いでを以て雑事を談るべしてえり。 

比企の一族はこの誘いは危ないので、安易にのってはいけない。もしどうしても行くのであれば家来を引き連れ、武装していくように忠告する。しかし能員はそれを受け入れない。

然る如きの行粧、敢えて警固の備えに非ず。謬って人の疑いを成すべきの因なり。当時能員猶甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人皆騒を処すべし。その事然るべからず。且つは佛事結縁の為、且つは御譲補等の事に就いて、仰せ合さるべき事有るや。急ぎ参るべしてえり。

かくして能員は周囲が止めるにもかかわらず、のこのこと平装で時政邸を訪れ、あっさり殺されてしまうのじゃ。

事態を知った比企一族は、一幡の邸である小御所に立て籠もる。じゃが、「これは謀反である」と尼将軍・政子さまの命で編成された幕府軍の前には多勢に無勢。館に火を放ち、一族は炎の中で滅亡した。

比企の三郎・同四郎・同五郎・河原田の次郎(能員猶子)・笠原十郎左衛門の尉親景・中山の五郎為重・糟屋籐太兵衛の尉有季(已上三人能員聟)等防戦す。敢えて死を愁えざるの間、挑戦申の刻に及ぶ。景廉・知景・景長等並びに郎従数輩疵を被り、頗る引退す。重忠壮力の郎従を入れ替えこれを責め攻む。親景等彼の武威に敵せず、館に放火し、各々若君の御前に於いて自殺す。若君同じくこの殃に免れ給わず。廷尉(能員)嫡男余一兵衛の尉姿を女人に仮て、戦場を遁れ出ると雖も、路次に於いて景廉が為に梟首せらる。その後遠州大岡判官時親を遣わし、死骸等を実検せらると。夜に入り渋河刑部の丞を誅せらる。能員が舅たるに依ってなり。 

鎌倉・妙本寺

鎌倉・妙本寺

比企一族の墓

比企一族の墓

暗示されていた一幡の死

比企能邸跡に建てられた長興山妙本寺。事件当時、幼少で京都にいたため難を逃れた比企能員の息子・能本が、一族の供養のために、日蓮に屋敷を献上したのが始まりとのこと。ちなみに「長興」「妙本」は、日蓮が授けた能員とその妻の法号じゃ。

境内には比企一族の墓が並んでいる。比企の変後、灰燼となった小御所の跡地の死骸から、一寸ばかりの焼け焦げた一幡の小袖が見つかった。境内にある一幡の袖塚は、それを祀ったものらしい。なお、一幡については、その死を暗示するような出来事があったと、建仁3年1月2日の吾妻鏡」に記されている。

将軍家若君(一幡)鶴岡宮に御奉幣。神馬二疋を奉らる。御神楽を行わるるの処、 大菩薩巫女に託し給いて曰く、今年中、関東に事有るべし。若君家督を継ぐべからず。
岸上の樹その根すでに枯れ、人これを知らずしてただ梢緑持つ。 

一幡の袖塚

一幡の袖塚

媄子(竹御所)のこと

一幡には、公暁、栄実、禅暁という異母弟と、同母妹の媄子(よしこ、竹御所)がいた。弟たちの最期については、またいずれ書くとして媄子のこと。媄子は28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぎます。夫婦仲は円満で、媄子が懐妊すると、人々は頼朝公の血を引く次期将軍の誕生を期待した。

しかし、媄子は難産の末に死去。頼朝公の血統はこれで完全に断絶してしまったのじゃ。境内にはひっそりと媄子の墓も。

媄子の墓

媄子の墓

比企能員の変 その後の顛末

さて比企能員の変のこと。わしが言うようでは身もふたもないが、政子さまが、偶然話を立ち聞きしていたというのは、やはりできすぎた話である。比企能員と頼家公の密議がほんとうにあったのかどうか、これまた疑わしい。そもそも「吾妻鏡」は、わが北条得宗家の正当性という視点で書かれているわけじゃし。

ちなみに「愚管抄」では、頼家公は病に倒れたとき、自分は出家して家督を一幡に譲ろうとしていたとある。そうなると、比企能員の力はますます強くなり、北条氏はその風下に立たされることになる。だから時政公は先手を打った、という見方が自然ではなかろうかと。

ちなみに、京都側の記録では、頼家公がまだ生きているうちに、鎌倉から頼家公の死亡と実朝公の将軍就任を申請する使者が遣わされている。しかし、この後、危篤だった頼家公は奇跡的に回復する。これは死人に口無し、と変を起こした時政公にとっては誤算だったじゃろう。

事の顛末を知った頼家公は激怒し、時政公の追討を画策する。とはいえ、比企能員という後ろ盾のない頼家公ができることなどしれている。けっきょくは伊豆に流され、北条の刺客に殺されてしまうのじゃ。

かくして、比企能員の変を契機に、北条氏はこの後、つぎつぎと有力御家人を滅ぼし、執権政治の基盤を固めていく。

こんなことばかりを繰り返す北条氏。わが一族ながら、やはり爽やかさがないというか、陰気の誹りは免れぬかもしれぬな。