この夏、一度はいってみたいとかねてから思っていた越中・加賀国の国境・砺波山の倶利伽羅峠に立ち寄ってみた。平維盛が本陣をはったといわれる場所には源平の慰霊碑があり、角に松明をつけた牛さんが2頭いた。なんか、笑ってしまったわw
倶利伽羅峠の戦いとは
木曾(源)義仲は、以仁王の平家追討の令旨に応じて、信濃国で兵を挙げ、北陸道方面で勢力を広げていた。これに対して平家は、平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向ける。
初戦、義仲は義仲四天王の一人・今井兼平が般若野の地で平盛俊を奇襲。平家軍は一旦後退を余儀なくされ、志雄山に平通盛と知度の3万、砺波山に平維盛、行盛、忠度らの7万で陣を敷いた。
数で劣勢な義仲としては野戦を避け山岳戦にもちこみたいところ。ただ、高地を占めているのは平家軍で義仲軍は不利じゃ。そこで四天王の一人・樋口兼光をひそかに平家軍の背後に回らせ、寿永2年5月11日の未明、平家軍が寝静まった頃合いをみて、いっせいに夜襲を仕掛けた。
とつぜんのことに平家軍は浮き足立った。三方から攻め込まれた平家軍は、だんだんと倶利伽羅峠の断崖においこまれ、人馬ともにつぎつぎと谷底に転落していったという。
親落とせば子も落とし、兄落とせば弟も続く。主落とせば家の子・郎党落としけり。馬には人、人には馬、落ち重なり、落ち重なり、さばかり深き谷ひとつ、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉血を流し、屍骸丘をなせり。(「平家物語」)
この戦いで勝利した義仲は、その勢いで上洛を果たす。そして大軍を失った平家は、安徳天皇を奉じて西国へと落ちのびていくことになるわけじゃ。
ちょうど案内板があった。これをみるかぎり、義仲さん、完璧な布陣じゃ。高地に陣しているのは平家だけれど、背後に地獄谷の断崖絶壁があるからのう。巴さんも、ちゃんと布陣しておられるし。
木曽義仲の火牛の計
ちょうどこのあたり、塔の橋とよばれるところが平家軍の最前線で、平行盛が陣をはっていたらしい。これより少し山をのぼっていったところに平維盛の本陣、そして地獄谷がある。火を角につけた牛さんたちは、このあたりから平家軍に突入していったそうじゃ。
「源平盛衰記」によると、義仲の「火牛の計」により、深い谷を背に身動きが取れなくなった平家軍の前に、白装束の人影が30騎ほど現れ、谷の方向に向かっていったらしい。
これを見た平家軍は、そっちに逃げ道があると思い込み、我先に谷の方角に向かい、谷底へつぎぎつぎと落ちていったとある。
抑倶利伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。其谷の中心に十余丈の岩滝あり、千歳が滝と云。彼滝の左右の岸より、杼の木多く生たり。谷深して梢高し。其木半過る程こそ、馳埋たれ。澗河血を流し死骸岡をなせり。無慚と云も愚也。
されば彼谷の辺には、矢尻、古刀、甲の鉢鎧の実、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。三十人計の白装束と見えけるは、埴生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける(「源平盛衰記」)
平家がみた幻影は、義仲が戦勝祈願した埴生八幡宮の八幡大菩薩が使わしたもの。かくして、あわれ平家軍は、深い谷に落ち込んでいき、谷は死骸で埋め尽くされ、川は血で赤く染まり、死骸から流れ出た膿が流れこんだと伝わっている。
地元ではここを地獄谷という。また、この谷から小矢部川へと流れる川は膿川という。谷底をのぞきこんでみる。うん、そんな雰囲気はある。ここからの景色は、当時とほとんど変わっていないだろう。なまんだぶなまんだぶ……
とはいえ、この「火牛の計」については『源平盛衰記』にしか記述がなく、おそらく後世の創作であろうといわれている。せっかく来たのにちょっと興ざめな感はあるけれど、よく考えれば、そんなにうまくいくわけない。失敗すれば、牛さんたちは焼き肉になるだけじゃし。
朝日将軍、義仲の悲運
大勝した義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びていく。かくして平家は滅亡へとつきすすんでいくわけじゃが、勝利した朝日将軍こと義仲にもまた、悲運が待っていた。
安徳天皇が都を落ちたことから、後白河法皇は都に残った高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することにした。じゃが、ここで義仲は自らが推戴してきた以仁王の子・北陸宮を推戴しようとするのじゃ。皇族・貴族でもない義仲が武力を背景に皇位継承問題に介入してきたことに、朝廷は大いに困惑する。
最終的に後白河法皇は御占を行い、その結果として四之宮の践祚を決めたが、義仲による北陸宮推挙の一件は、義仲が伝統や格式、教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となったのは確かじゃ。
その後、京都では遠征軍による略奪行為が横行し、義仲の都での評判はどんどん落ちていく。この頃の京都は飢饉によって食糧事情がきょくたんに悪化していたのも、義仲にとっては不運であった。
自身の立場が悪化していることを自覚した義仲は後白河法皇に平氏追討に向かうことを奏上し、失った信用の回復を期す。しかし、西国では苦戦が続き、戦線は膠着した。そこで、満を持して登場したのが源頼朝公じゃ。
頼朝公の鎌倉軍が京を目指していることを聞いた義仲は、平氏との戦いを切り上げて帰京し、後白河院に「生涯の遺恨」であると猛烈に抗議する。そして、疑心暗鬼になったのか、頼朝追討の宣旨を強要し、鎌倉との対決姿勢をみせる。もはや義仲の敵は、平氏ではなく頼朝公に変わってしまっていたのじゃ。
義仲のその後については、またあらためて書きたいと思うが、政治的な補佐役がいなかったことが致命的だったな。全盛を誇っていた平家を都から追い落とした武略はまちがいなく武家の棟梁としてふさわしいものであったし、今井兼平や樋口兼光、巴御前との友情、絆を伝える逸話からは義仲の人間的魅力も大いに感じられる。それだけに、北条のような世事に長けた側近がいなかったことが、じつに残念である。