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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

六代御前・平高清の墓~御最期川畔にあるにある平清盛嫡流終焉の地

逗子の田越川畔に「六代御前の墓」がある。かつて田越川のほとりは刑場であったことから「御最期川」とも呼ばれていたそうじゃが、六代御前は今から800年ほど前の正治元年(1199、諸説あり)、このあたりで処刑されたと伝えられている。

田越川

田越川(神奈川県逗子市)

六代御前・平高清とは

六代御前とは平高清のこと。美貌の貴公子・平維盛の嫡男、平重盛の嫡孫、すなはち平清盛嫡流である。生まれは承安3年(1173)、平正盛から数えて直系の6代目に当たることから「六代(ろくだい)」という幼名を名づけられた。

①正盛→②忠盛→③清盛→④重盛→⑤維盛→⑥高清(六代)

寿永2年(1183)、平氏都落ちにあたり、平維盛は妻子を都に残して西国に向かう。都暮らししか知らない妻子を西国に連れて行くのは忍び難かったんじゃろう。維盛はこのとき、妻に子どもたちの行く末を頼み、自身の身に何かあれば再婚してほしいと言い残したという。

袖にしがみつき、泣いて同行を願う妻と子。その嘆き悲しみはいかばかりか。平家は一門の館に火をかけて焼き払い、維盛は断腸の思いで馬上の人となる。

このあたりの記述は、「太平記」におけるわが室と息子の別れのシーンを髣髴とさせ、涙なくしては読めぬな。

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文覚による助命嘆願

その後、六代は母と妹と共に京都普照寺奥大覚寺北に潜伏する。しかし平氏が滅亡すると、ある女房の密告により、文治元年(1185)12月に捕らえらてしまう。

若君、母うへに申させたまひけるは、「つひにのがるまじう候へば、とくとく出させおはしませ。武士どもうち入ッてさがすものならば、うたてげなる御有様共を見えさせ給ひなんず。たとひまかり出で候ふとも、しばしも候はば、いとまこうてかへり参り候はん。いたくな歎かせ給ひ候ひそ」と、なぐさめ給ふこそいとおしけれ。さてもあるべきならねば、母うへ泣く泣く御ぐしかきなで、もの着せ奉り、既に出し奉らんとしたまひけるが、黒木の数珠の小さううつくしいを取出して、「是にていかにもならんまで、念仏申して極楽へ参れよ」とて奉り給へば、若君是をとッて、「母御前には今日既に離れ参らせなんず。今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞ参りたき」とのたまひけるこそ哀れなれ。是を聞いて、御妹の姫君の十になり給ふが、「われもちち御前の御もとへ参らん」とて、走り出で給ふを、めのとの女房とりとどめ奉る。六代御前ことしはわづかに十二にこそなり給へども、よのつねの十四五よりはおとなしく、見めかたち優におはしければ、敵によわげを見えじと、おさふる袖のひまよりも、余りて涙ぞこぼれける。さて御輿にのり給ふ。武士ども前後左右に打ちかこんで出でにけり(「平家物語」巻十二「六代」)

かくして六代は北条時政さまの手勢によって六波羅へと連行されてしまうのじゃ。

出家して名を妙覚とあらためる

本来であれば、平清盛の曾孫である以上、六代御前は処刑である。しかし話を聞いた文覚はこれをたいそう憐れみ、助命嘆願に動き出す。文覚は神護寺の中興の祖で、源頼朝公とは伊豆以来の所縁として大きな影響力を持っておった。

文覚上人の弟子某上人の飛脚として参り申して云く、故維盛卿嫡男六代公は、門弟た るの処、すでに梟罪を被らんと欲す。彼の党類悉く追討せられをはんぬ。此の如き少 生は、縦え赦し置かるると雖も、何事か有らんや。就中祖父内府は貴辺に於いて芳心 を尽くさる。且つは彼の功に募り、且つは文覚に優ぜられ、預け給うべきかと。彼は 平将軍の正統たるなり。少年と雖も、爭か成人の期無からんや。尤もその心中測り難 し。但し上人の申し状、また以て黙止すべきに非ず。進退谷むの由仰せらると。使者 の僧懇望再三に及ぶの間、暫く上人に預け奉るべきの由、御書を北條殿に遣わさると。

文覚の弟子は関東に下り、六代御前の命を助けるよう懇願した。

「故維盛様の跡継ぎの六代御前は、私の弟子にしたのに斬首にすることになっている。平家はすでに滅んでいるのだから、こんな少年一人ばかり許したとしても、何が出来るわけでもない。ましてや六代御前の祖父は平重盛であり、頼朝公のは命乞いをしてくれた恩人ではないか。その恩に免じて、文覚の縁をもって、私に預けてください」

頼朝公はこれを道理と思われたのじゃろうか。六代御前は文覚の弟子として出家することを条件に、その命を助けられたのじゃ。

六代御前は名を妙覚(みょうかく)と改め、仏道に入って静かに暮らしていた。建久5年(1194)には、自ら文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて異心なく出家したことを報告している。

故小松内府の孫子(維盛卿の男)六代禅師京都より参向す。高雄の上人文覚の書状を帯する所なり。偏に恩化に依って命を継ぐの間、関東に於いては更に巨悪を存ぜず。況やまた出家遁世に於いてをやの由、因幡前司広元に属きこれを申すと(『吾妻鏡』建久5年4月21日条) 

源頼朝公は、平治の乱後に六代の祖父・平重盛が自身の助命に尽力してくれた恩に報いるために、六代を関東に留めた。そして、「異心無くんば、一寺の別当職に補すべきの由仰せらる」と、どこかの寺の別当職に任命しようとの好意を示している。

ちなみに、六代の母は建春門院新大納言。藤原成親の次女で、平維盛と別れた後は吉田経房に嫁いでいる。吉田経房源頼朝公とも関係が深かったから、そのあたりも六代の処遇に影響していたかもしれぬな。

かくして六代は平家の菩提を弔いながら、穏やかな日々を過ごしていた。

運命が暗転…田越川原にて斬首

ところが、頼朝公の突然の死で運命は暗転する。頼朝公から頼家公への代替わりのタイミングで、文覚が失脚してしまう。都では一条能保・高能父子の遺臣が、宮廷での勢力挽回のため権大納言土御門通親の襲撃を企てる騒動が起こり(三左衛門事件)、文覚はこれに加担したとして佐渡へ配流となってしまうのじゃ。

六代もこのときに捕えられ、処刑されている。『平家物語』では、「さる人の子なり、さる人の弟子なり、たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじとて、鎌倉殿(頼家)より頻りに申されければ、安判官資兼に仰て、田越川にて斬られてけんげり。」と謀反の疑いをかけられたとある。

かくして相国入道平清盛嫡流の血筋は、ここに途絶えてしまったというわけじゃ。

六代御前の墓(神奈川県逗子市)

六代御前の墓

この墓は江戸時代、六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る水戸藩士斎藤仁左衛門によって建てられた供養塚らしい。じゃが、六代御前が処刑された経緯には、時期も場所も諸説ある。肝心の『吾妻鑑』にも記録がなく、この塚が六代の墓であるという確証はない。

〇『鎌倉年代記裏書』
建久 9 年(1198 年)2月 5日
検非違使、安部資兼が「小松六代房」を捕えて関東に送り、「多古江」で首を刎ねた

〇『平家物語 延 慶本巻一二』
 正治元年(1199 年)2月5日、源頼朝の死(1199 年 1 月)後、駿河の千本松原で斬られた

〇『参考源平盛衰記』処引『禰寝氏家譜』
 建仁 3 年(1203 年)11月27日、六代が田越川で 誅された 

じゃが、人々が代々、この地で手厚く供養を続けておられるわけじゃから、それでよいのじゃとわしは思うぞ。

近くの六代山不動院では毎年7月26日には供養祭が行われているぞ。