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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鎮西探題・赤橋(北条)英時ら一族340人が自刃…行路難、水に在らず山にあらず、ただ人情反復の間に在り

鎌倉で北条高時以下一族が自害して果てた3日後の正慶2年5月25日、九州博多の地では、幕府最後の鎮西探題・赤橋(北条)英時ら一族340人が自害した。

北条

ということで今日は、赤橋英時と鎮西探題についてじゃよ。

鎮西探題とは

九州の有力武士といえば小弐、大友、島津の三家。いずれも源頼朝公以来の名家として勢力をもっていた。しかし文永・弘安の役の後、元が3度目の襲来を計画しているとの報告を受けた鎌倉幕府は、異国警固を目的に、北条兼時と名越時家を九州に赴任させた。

以後、九州の武士たちを統括するために北条一族から鎮西探題が選ばれて、現地(博多)に赴任するようになる。これにより北条氏の影響力は九州でも大きくなっていったんじゃよ。

赤橋英時の九州下向

赤橋英時は幕府最後の執権・赤橋守時の弟、足利高氏正室・登子の兄にあたる。

いつよりか 契りもおかぬ 夕ぐれを とはるるほどの なかとならまし

赤橋の家は重時以来歌をよくする家系であり、英時もまた和歌に優れた、なかなかの教養人であった。「続後拾遺和歌集」「新続後拾遺和歌集」等の勅撰集にもその詠歌が載せられている。なお、それら勅撰集には鎮西奉行人の和歌も収められており、九州における二条歌壇の中心に、英時がいたのかもしれぬな。

英時が阿曾(北条)随時の後を受けて鎮西探題として赴任したのは元亨元年(1321)のこと。以後、ちょうどわしが執権となり、後醍醐天皇後宇多上皇院政を停止して親政をはじめた頃のこと。英時の発給文書は200通以上もあり、その権限の大きさがうかがえる。

そして、それから10年、時代は大きく動いていく。正慶2年(1333)閏2月、隠岐に流されていた後醍醐天皇は名和長利に迎えられ、伯耆に入る。畿内では護良親王楠木正成が健在、播磨でも赤松則村が反乱を起こすなど、世相は風雲急をつげ、切迫した状態は九州にも伝わってきていたはずじゃ。

鎮西探題滅亡、赤橋英時が自刃

こうした動きに九州で同調したのが菊池武時と阿蘇惟直じゃった。護良親王の令旨を奉じて兵を挙げると、博多の街に火を放ち、探題館に攻めこんできた。このとき、菊池武時は少弐貞経大友貞宗らと示し合わせていたといわれている。

しかし少弐、大友はこれを時期尚早とみて土壇場で動かず、むしろ探題とともに菊池武時を返り討ちにしてしまう。要するに日和ったんじゃな。武時は討ち入りにあたり、長男の武重を袖ヶ浦に呼び、故郷菊池に帰り再起を図るよう命じたという。これが有名な「袖ヶ浦の別れ」の場面じゃよ。

少なくともこの段階では、まだまだ九州での鎌倉幕府の存在、鎮西探題の実力は大きかった。この後、英時は、養子の規矩(北条)高政や松浦党に反幕府勢力の追討を命じ、九州の安定化につとめている。

じゃが同年5月7日、京都から六波羅探題が陥落したとの悲報が届くと事態は一変した。これまで味方であった少弐貞経大友貞宗島津貞久らがいっせいに離反し、探題へと攻め込んできたのじゃ。

孤立した英時にできることは、自刃して北条武士として最期を飾るだけ。

世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。
「 行路難、水に在らず山にあらず、ただ人情反復の間に在り」
人生行路の難しさは山や谷ではない。人間の心の動き、裏切り、変心、感情のもつれこそが難しい。『太平記』の作者はそう嘆いているが、武士はお家を守ることが第一じゃから、しかたがないともいえる。
ただ、北条氏の最期は鎌倉でも六波羅でも博多でも、見苦しいところが微塵もない。これといった離反者もなく、一族そろって潔く自刃している。
北条氏というと、陰湿で仲間同士、親族同士でもめてばかりという印象の人も多いじゃろうから、これは意外に思われるかもしれぬな。
九州の南北朝時代については、先にふれた菊池一族のほかに、征西将軍宮・懐良親王など、興味深い人物・事件がてんこもり。いずれ、機会を見つけてエントリーしてみたい。